【2018年大河ドラマ】 西郷どん part50
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◆前スレ
【2018年大河ドラマ】 西郷どん part49
https://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1524398261/ ◆出演者(カッコ内はドラマの設定)
西郷小吉→吉之助→隆盛(1828-1877)…渡邉蒼(13)→鈴木亮平(35)
岩山糸(隆盛の3度目の妻/1843-1922)…渡邉このみ(11)→黒木華(28)
とぅま→愛加那(隆盛の2度目の妻/1837-1902)…二階堂ふみ(23)
須賀(旧姓伊集院/隆盛の最初の妻/1832-?)…橋本愛(22)
西郷吉兵衛(父/1806-1852)…風間杜夫(68)●
西郷満佐(母/?-1853)…松坂慶子(65)●
西郷きみ(祖母/?-?)…水野久美(81)
西郷龍右衛門(祖父/?-1852)…大村崑(86)●
西郷琴→市来琴(妹/市来正之丞に嫁ぐ/1832-1913)…栗本有規(11)→桜庭ななみ(25)
西郷吉二郎(弟/1833-1868)…荒井雄斗(11)→渡部豪太(32)
西郷鷹(妹/?1837?-1862)…石井心咲→渡来るひか→原舞歌(17)
西郷安(妹/1839-?)…大塚心結→佐藤心美→萱野優(10)?
西郷信吾→従道(弟/1843-1902)…斎藤汰鷹→佐藤和太(11)→田港璃空→錦戸亮(33)
西郷小兵衛(弟/1847-1877)…小山蒼海→齋藤絢永→大山蓮斗(10)
西郷桜子(姪・従道の娘/1886-1985)…西郷真悠子(22)
熊吉(永田熊吉/西郷家代々の下男/1835?-1900)…塚地武雅(46)
イシ(熊吉の祖母)…佐々木すみ江(89)
大久保正助→一蔵(利通)(1830-1878)…石川樹(14)→瑛太(35)
早崎満寿→大久保満寿(利通の妻/?-1878)…美村里江(33) ※出演発表時は「ミムラ」名義
大久保キチ(利通の妹/1832-?)…佐藤奈織美(22)
大久保スマ(利通の妹/1837-?)…日下玉巳(18)
大久保ミネ(利通の妹/1840-?)…高野友那
大久保福(利通の母/1803-1864)…藤真利子(62)
大久保次右衛門(利通の父/1794-1863)…平田満(64)
於一→篤姫(徳川家定継室/1836-1883)…中村美乃莉→北川景子(31)
幾島(篤姫女中頭/1808-1870)…南野陽子(50)
徳川家定(第13代将軍/1824-1858)…又吉直樹(37)●
本寿院(徳川家定の生母・家慶側室/1807-1885)…泉ピン子(70)
歌橋(法好院/徳川家定の乳母/?-?)…猫背椿(45)
徳川慶福→徳川家茂(紀州13代藩主→14代将軍/1846-1866)…荒木飛羽(12)→
一橋慶喜→徳川慶喜(15代将軍、水戸斉昭の七男/1837-1913)…松田翔太(32)
井伊直弼(大老・彦根藩主/1815-1860)…佐野史郎(63)
長野主膳(井伊直弼家臣/1815-1862)…神保悟志(55)
阿部正弘(老中/1819-1857)…藤木直人(45)●
堀田正睦(老中/1810-1864)…朝倉伸二(54)
松平忠固(老中/1812-1859)…野添義弘(59)
水野忠央(紀伊新宮藩藩主/1814-1865)…ホリベン(64)
徳川斉昭(前水戸藩主・慶喜父/1800-1860)…伊武雅刀(69)
勝海舟(幕臣/1823-1899)…遠藤憲一(56)
篤姫侍女…嘉悦恵都(28)
家定附中臈…加弥乃(24) 島津斉彬(薩摩藩第11代藩主、第28代島津家当主/1809-1858)…渡辺謙(58)●
喜久(斉彬側室)…戸田菜穂(44)
島津寛之助(斉彬の息子/1845-1848)…寺師海渡●
虎寿丸(斉彬の息子/1849-1854)…藤本悠希(8)●
島津久光(斉彬異母弟/1817-1887)…青木崇高(38)
於哲(久光の娘/1839-1862)…杉岡詩織(28)
島津茂久→忠義(初名・忠徳/薩摩藩第12代藩主、島津氏29代当主/1840-1897)…中島来星(18)
島津忠剛(篤姫の父、今泉島津家当主/1806-1854)…すわ親治(65)●
由羅(斉興側室・久光生母/1795-1866)…小柳ルミ子(65)
島津斉興(薩摩藩第10代藩主、第27代島津家当主/1791-1859)…鹿賀丈史(67)
調所広郷(薩摩藩家老/1776-1849)…竜雷太(78)●
小松帯刀(薩摩藩重臣/1835-1870)…町田啓太(27)
大山格之助→綱良(薩摩藩士/1825-1877)…犬飼直紀(17)→北村有起哉(43)
有村俊斎→海江田信義(薩摩藩士/1832-1906)…池田優斗(12)→高橋光臣(36)
村田新八(薩摩藩士/1836-1877)…加藤憲史郎(10)→堀井新太(25)
赤山靱負(久普/薩摩藩重臣/1823-1850)…沢村一樹(50)●
島津歳貞→歳充→桂久武(靱負弟/1830-1877)…井戸田潤(45)
有馬新七(薩摩藩士/1825-1862)…伊澤柾樹→増田修一朗(37)
山田為久(斉彬側近)…徳井優(58)
中村半次郎→桐野利秋(薩摩藩士/1838-1877)…中村瑠輝人(14)
中村与左衛門(邦秋/半次郎の兄/?-?)…渡邉絃
中村貞(半次郎の妹、のち伊東才蔵の妻/?-?)…鍵和田花
中村半次郎の弟→山ノ内半左衛門種国(?-?)…藤沢元
半次郎の母…小林由梨(39)
木場伝内(薩摩藩士/1817-1891)…谷田歩(42)
田中雄之介(薩摩藩士)…近藤芳正(56)
能勢慎太郎(薩摩藩士)…松元飛鳥(28)
迫田友之進(薩摩藩士)…浜田学(41)
堀次郎→伊地知貞馨(薩摩藩士/1826-1887)…鬼塚俊秀(35)
松平慶永(春嶽/第16代越前福井藩主/1828-1890)…津田寛治(52)
橋本左内(福井藩藩士/1834-1859)…風間俊介(34)
桂小五郎→木戸孝允(長州藩士/1833-1877)…玉山鉄二(38)
汐(万次郎幼少期の母親)…木内友三(49)
謎の男→謎の漂流者→ジョン・マン(中濱萬次郎、ジョン・万次郎/1827-1898)…田中誠人→劇団ひとり(41)
坂本龍馬(土佐藩士→脱藩/1836-1867)…小栗旬(35)
月照(清水寺成就院の僧/1813-1858)…尾上菊之助(40)
岩倉具視(公家/1825-1883)…笑福亭鶴瓶(66)
近衛忠煕(公家/1808-1898)…国広富之(65)
真海和尚(吉祥院住職)…有福正志(66) 龍左民(愛加那の父/1819-?)…柄本明(69)
石千代金(龍左民の妻/1825-?)…木内みどり(67)
ユタ(愛加那の相談相手、占い師)…秋山菜津子(53)
富堅(愛加那の兄/1832-?)…高橋努(39)
里千代金(富堅の妻)…里アンナ(38)
土持政照(冲永良部島横目/1834-1902)…斉藤嘉樹(27)
土持鶴(政照の母)…大島蓉子(63)
川口雪逢(冲永良部の流人/1819-1890)…石橋蓮司(76)
おゆう(利通妾/祇園の芸妓/?-?)…内田有紀(42)
虎(京の旅籠「鍵屋」の仲居)…近藤春菜(35)
ふき(およし)(薩摩の百姓の娘→品川宿給仕/?-?)…柿原りんか(13)→高梨臨(29)
タマ(小玉)(品川宿給仕・ふきの同僚)…田中道子(28)
金鶴(カネ・磯田屋の女中)…西川加奈子
家定付御中臈・磯田屋遊女なをえ(二役)…山本美紀子(27)
うの(遊女)…永峰絵里加(32)
磯田屋遊女…小谷早弥花(33)
八兵衛(品川宿の下男)…久松龍一(38)
鍵屋直助(京の旅籠「鍵屋」の主人)…西沢仁太(58)
洗濯の女中…重田千穂子(60)
尾田栄作(誤って小吉を刺す)…中野魁星(14)
尾田栄作の父…まいど豊(52)
伝右衛門(名頭)…とめ貴志
園田(庄屋)…針原滋(51)
平六(迫村の百姓・ふきの父)…鈴木拓(42)ドランクドラゴン
一平(ふきの弟・百姓平六の息子)…生駒星汰(9)
タミ(平六の妻)…俵野枝(40)
井之上(吉之助の上役)…おかやまはじめ(54)
正助の上役…中松俊哉(44)
市来正之丞(西郷琴の夫/1822?-?)…池田倫太朗
海老原重勝(糸の最初の夫)…蕨野友也(30)
岩山直温(糸の父/1814-1873)…塩野谷正幸(64)
伊集院直五郎(須賀の父/1817-1883)…北見敏之(56)
板垣与三次(豪商・金貸し/?-?)・・・岡本富士太(71)
医者(西郷小吉を治療)…山下洋輔(76)
ハリス(タウンゼント・ハリス)(初代駐日アメリカ合衆国弁理公使/1804-1878)…ブレイク・クロフォード(55)
ヒュースケン(ヘンリー・ヒュースケン)(駐日アメリカ総領事館の通弁官/1832-1861)…セルゲイ・イワノフ
語り…西田敏行(70)
※●…すでに死亡(本放送時にその人物が退場した時点と最終回終了時から俳優の年齢更新はしません) ◆日程・関東、関西視聴率・サブタイトル・演出
第01回(01/07) 15.4% 19.8% 「薩摩のやっせんぼ」・・・野田雄介
第02回(01/14) 15.4% 17.4% 「立派なお侍」・・・野田雄介
第03回(01/21) 14.2% 17.3% 「子どもは国の宝」・・・野田雄介
第04回(01/28) 14.8% 17.9% 「新しき藩主」・・・野田雄介
第05回(02/04) 15.5% 18.3% 「相撲じゃ!相撲じゃ!」・・・盆子原誠
第06回(02/11) 15.1% 18.8% 「謎の漂流者」・・・盆子原誠
第07回(02/18) 14.3% 15.2% 「背中の母」・・・岡田健
第08回(02/25) 14.2% 16.5% 「不吉な嫁」・・・岡田健
第09回(03/04) 14.8% 16.8% 「江戸のヒー様」・・・野田雄介
第10回(03/11) 14.4% 17.2% 「篤姫はどこへ」・・・盆子原誠
第11回(03/18) 14.6% 18.9% 「斉彬暗殺」・・・津田温子
第12回(03/25) 14.1% 15.6% 「運の強き姫君」・・・津田温子
第13回(04/08) 13.0% 17.5% 「変わらない友」・・・野田雄介
第14回(04/15) 11.9% 14.8% 「慶喜の本気」・・・岡田健
第15回(04/22) 13.4% 15.3% 「殿の死」・・・野田雄介
第16回(04/29) --.-% --.-% 「斉彬の遺言」・・・
第17回(05/06) --.-% --.-% 「」・・・
第18回(05/13) --.-% --.-% 「」・・・
第19回(05/20) --.-% --.-% 「」・・・
第20回(05/27) --.-% --.-% 「」・・・
第21回(06/03) --.-% --.-% 「」・・・
第22回(06/10) --.-% --.-% 「」・・・
第23回(06/17) --.-% --.-% 「」・・・
第24回(06/24) --.-% --.-% 「」・・・
第25回(07/01) --.-% --.-% 「」・・・
第26回(07/08) --.-% --.-% 「」・・・
第27回(07/15) --.-% --.-% 「」・・・
第28回(07/22) --.-% --.-% 「」・・・
第29回(07/29) --.-% --.-% 「」・・・
第30回(08/05) --.-% --.-% 「」・・・
第31回(08/12) --.-% --.-% 「」・・・
第32回(08/19) --.-% --.-% 「」・・・
第33回(08/26) --.-% --.-% 「」・・・
第34回(09/02) --.-% --.-% 「」・・・
第35回(09/09) --.-% --.-% 「」・・・
第36回(09/16) --.-% --.-% 「」・・・
第37回(09/23) --.-% --.-% 「」・・・
第38回(09/30) --.-% --.-% 「」・・・
第39回(10/07) --.-% --.-% 「」・・・
第40回(10/14) --.-% --.-% 「」・・・
第41回(10/21) --.-% --.-% 「」・・・
第42回(10/28) --.-% --.-% 「」・・・
第43回(11/04) --.-% --.-% 「」・・・
第44回(11/11) --.-% --.-% 「」・・・
第45回(11/18) --.-% --.-% 「」・・・
第46回(11/25) --.-% --.-% 「」・・・
最終回(12/02) --.-% --.-% 「」・・・
特番 (04/01) *9.7% 13.0% 「『西郷どん』スペシャル 鈴木亮平×渡辺謙の120日」
※日程・サブタイトルは変更の可能性あり
※第01回は60分拡大版
※サブタイ変更 第12回「揺れる思い」→「運の強き姫君」第15回「斉彬の逆襲」→「殿の死」 テンプレここまで
前スレが終わり次第移動をお願い致します。 せめて一言、西郷と斉彬が、ハリスの下田条約反対!!清から銀がイギリスへだだ漏れしたように(しかも阿片で)なってしまいもす!って、幼稚園児でもわかるように言えばスッキリするじゃないか
まっ た く ないのな
細則で日本から金を吸い上げた極悪人だぞ?ハリスとヒュースケン
なのに将軍に謁見してわざわざ障害に驚く光景を時間かけて作る そんなことより日本にとって重要な内容があるのに一切なし
西郷は異国異国わめくばかりだけど斉彬と西郷
の異国ってどこ?さしてんだ?
だいたいヨーロッパの王族で知的障害や精神疾患があった王女や王子なんて王位継承者でもたくさんいるよな近代でも ヨーロッパ王族近親結婚だらけでさ >>8
交易して外国の文明を輸入したんだから
カネの使い方として有意義だったよ。 『西郷どん』感想&小解説(第15回) ―斉彬の率兵上京計画―
大河ドラマ『西郷どん』も、いよいよ前半の佳境に入ってきました。
大老・井伊直弼が誕生し、そして将軍継嗣がヒー様ではなく紀州徳川藩の慶福に決定するなど、薩摩藩にとって事態は悪化の一途を辿ったことから、薩摩に帰国した西郷が斉彬に向かって、京都への出兵を促すシーンが今回の大きな見どころでした。
この斉彬の率兵上京計画については、古来から諸説あり、根本的に斉彬が出兵するつもりであったのかどうかさえ懐疑的に捉える向きもありますが、明治32年に刊行された『照国公感舊録』には、
「西郷隆盛密命を帯びて関東の動静を窺ひしが、翌年五月此帰国、一日公に磯の別邸に謁し、密かに関東の動静を演述し、井伊掃部頭直弼候大老となり、威権赫燿之に抗する者なく、有為の諸侯も屏息す。
勤王の策、将に尽き、亦他に施すの道なしとて失望大息して其実勢を陳べたりしに、公之を聞き従容として色を動かさず。
時勢斯くなりては致し方なしとて外に策なきやと問われしに、西郷応て曰く、今日の極に及んでは別に策なし。止むなくんば姑く御思望止めさせられずば叶ふまじと。
公曰く、否予は猶ほ一策の在るあり。
予が策を云へば、此上は緩手段に仍り難し。予親ら精兵三千を率いて京洛に出で、禁闕を守護して、諸侯をして其去就を決せしめば、天下の大勢茲に定まらん」
(読みやすくするため、旧字をなおし、句読点を入れました)
とあり、「万策尽きた」と嘆く西郷に対して、斉彬が秘策として出兵することを打ち明けています。
今回の『西郷どん』では、その立場が逆になり、斉彬が西郷に促されて、出兵の決意を固めていましたが、
この『照国公感舊録』に代表されるように、
斉彬が京都への出兵によって諸藩を糾合し、幕府と武力で対峙しようとしたという説に関しては、今も昔も否定的な意見が多いと言えます。
例えば、勝田孫弥『西郷隆盛伝』では、「斉彬は最早尋常の手段を以ては国内の塵埃を掃攘し、公武合体、国家統一の精神を貫く能はざるを看破し、自ら兵を率いて京師に出で、断然勅命を以て幕政を改革し、以て公武一和の実を挙げんと欲したり。
(中略)当時斉彬大軍を率いて京師に出で、王室を守護して諸侯の去就を決するの精神ありしが如く世に伝ふるは、蓋し此事実を誤りたるなり」とあり、斉彬の目的とは、幕府との対決ではなく、公武一和のためであったとしています。
今回の『西郷どん』は、この勝田説を基に構成したと言えましょう。 この勝田説を支持しているのが、芳即正『島津斉彬』です。
芳氏は同書の中で、斉彬が幕府と武力対決を決意したとする説に否定的な見解を述べられており、
斉彬が西郷に語った一策とは、「朝廷の力を借りて幕府の政策を変更させ「公武一和」をはかろうとしたものであり、京都の意向で朝幕対決となり、
「幕府の暴威が朝廷におよびそうなとき」には、出兵もありうることを言い含めたと考えたがよかろう」と書いています。
つまり、斉彬は積極的に京都へ出兵しようとしたわけではなく、また、その目的も「公武一和=合体」(同書からの引用)にあったということです。
また、近著から引くと、松尾千歳『島津斉彬』には、「斉彬は西郷に密命を与え、江戸に向かわせた。なにを命じたかは定かではない。
斉彬自ら兵を率いて上京するつもりで、西郷にその準備を命じたといわれている。武力を背景に事態の打開を図ろうとしたのだというような説もあるが、前述のように、斉彬は南紀派の勝利を受け入れていた。
対立を蒸し返し、状況を悪化させるようなことを計画していたとは思えない。むしろ、朝幕関係が悪化しつつある状況を憂い、
内乱状態に陥らないように、抑止力として兵を送ろうとしていたのではないだろうか」とあり、幕府との武力対峙説を否定しながらも、抑止力としての出兵を考えていたのではないかとしています。
ここで少し整理しますが、この斉彬の率兵上京計画において一番重要な点とは、斉彬が西郷に対して、どのような指示を下したのかということです。
この点については、斉彬や西郷が直接書き記した文書等が何も残っていないため、他の史料等から想像する他ありません。
まず、斉彬が出兵を計画したとされる安政5(1858)年夏、西郷と共に京・大坂で活動していた吉井仁左衛門(後の幸輔、友実)の手記によると、西郷は斉彬から、
「鹿城ヲ発セントスルノ日、齊彬殿密ニ隆盛ニ語テ謂テ曰、事成ラサレハ他ニ一策アリ、自ラ闕ニ詣テ為ス所アラン、汝モ亦臨機入京スヘシ」
との指示を受けていたとあります(「考証 吉井友實手記」『鹿児島県史料 斉彬公史料』三所収)。
この話は、豊後岡藩士で西郷とも交流のあった小河一敏の『明烏(あけからす)』という実歴談にも、吉井の談話として同様のことが記されています。
また、この話を補完するものとして、当時斉彬の腹心の一人であった市来四郎が、明治27年に史談会の席上で語った速記録には、
「吉井友實が言ふ所では三千餘の兵を引ひて出かけると云ふことを西郷が密かに云って聞かせたから、唯々飛び立って愉快として聞いたとの話でござりました」
(史談会速記録第二十六輯「島津斉彬公国事鞅掌に関する事実附二十四話」『史談会速記録』(原書房)合本五所収)
とあり、当時の西郷が吉井に対して、「斉彬公は三千の兵を率いて上京する予定」と密かに話したと、市来は語り遺しています。 また、これも有名な文書ですが、西郷が僧・月照と入水後、奄美大島にて潜居中であった安政6(1859)年11月、大久保ら精忠組の同志たちが藩に差し出した
「順聖院様御遺志」の文言が出てくる上書には、「菊池源吾(西郷のこと)が斉彬の腹心であったこと」を前置きし、西郷は斉彬から、
「萬一モ姦策ニ陥紀州エ西上之義相決候ハ天下之禍乱ト相成候ハ顕然タル事候(焼損)被遊御出馬天朝御奉護可被為在」との命を受けていたと書かれています(『大久保利通文書』一)。
つまり、将軍継嗣が紀州藩の慶福に決まり、天下騒乱の様相を呈せば、斉彬自ら出馬して、朝廷を守護しようとの考えを西郷は斉彬から打ち明けられていたと、大久保たちは書いているのです。
ここで少しだけ苦言を呈しますが、今回の『西郷どん』では、上京した西郷が「もうすぐ殿が京へ登ってこられるぞ〜!」
なんて大声を張り上げていましたが、本来このような機密事項を軽々しく口にするはずはなく、何だか西郷の品格を下げる演出のような気がしました。
事実、市来四郎はこの率兵上京計画が藩の「一大機密」であったとして、西郷がその計画を話したのは、岩下方平、大久保利通、吉井友実の二、三人に過ぎなかったと書いています(「考証 吉井友實手記」『鹿児島県史料 斉彬公史料』三所収)。
毎回感じるのですが、『西郷どん』で描かれている西郷像は、大きな志を持った情熱ある男であるのは、すごく伝わってくるのですが、何だか人物的に軽すぎるような気がしてなりません。年を重ねるごとに風格が備わってくるという演出なのかもしれませんが……。
閑話休題。
以上のような事実から、斉彬の率兵上京計画は存在したと考えられますが、この出兵計画をいわゆる「5W1H」、つまり「Who(だれが)、What(なにを)、When(いつ)、Where(どこで)、Why(なぜ)、How(どのように)」
から考えると、最初の4Wは容易に想像がつきますが、最後のWhyとHowが問題となります。
まず、先にHowについてですが、「斉彬はどうやって出兵しようとしていたのか?」、つまり「斉彬の出兵の名目は何だったのか?」という点です。
これについては、『鹿児島県史』第三巻や前述の市来の談話等に出て来ますが、市来は史談会の席上で、
「齊彬が内命を蒙って守護の為め多数の供方を引連れて上京云々の計畫は此年の八月琉球人を引連れて参府の積でございましたから、其名を以て多数の供方で参府の計畫は確乎とした事でござりまする」
と語り遺しています。
つまり、斉彬は琉球使節の江戸参府を口実(名目)にして、京都への出兵を考えていたということです。
このことは『斉彬公史料』に収められている他の文書でも確認できます。
例えば、『斉彬公史料』三の「参考 寺島宗則自記抄」には、「安政五年戊午齊彬公此年ノ秋琉球人ヲ率ヒテ、東観スヘキニ決シ、其準備アリ」とあるほか、
『斉彬公史料』二の「丁巳閏五月御下国之事実」には、「此年八月、琉球王ハ家定公将軍宣下賀慶使ヲ従ヘラレ御参府ノ予定ニテ」と、
安政5年8月に琉球王使節が将軍・家定の慶賀使として江戸へ参府する予定であったとし、
「然ルニ此回ハ朝廷ノ密命ヲ奉セラレ、其実ハ御滞京、大ニ為スコトアラセラレムノ御計画ナリシ」と書かれています。
つまり、斉彬は琉球の慶賀使と共に江戸に参府する予定であったが、それはあくまでも表向きのことであり、実際は京都に滞在する計画であったということです。
また、『斉彬公史料』三の「江夏干城記事抄」にも、「安政五年ノ秋八月末、琉人被召列御参府ノ賦ニテ、琉球ヨリモ其手当ナリシニ、内実ハ京都迄御出掛ノ御密定」とあり、同様に琉球使節を口実として、斉彬が京都への出兵をはかったとあります。 この琉球の慶賀使については、結局8月になって延期されることが決まり、家老・新納駿河の名でその旨藩内に布告されています。
その達書には、「御国事多端ノ折柄ニ付、琉球人参府ノ儀ハ先被成御差延候旨被仰出候」とあり(「中山王使参府猶予達書」『斉彬公史料』三所収)、琉球使節の参府中止は、
将軍家定の病気や異船来航が原因との記述がありますが、7月16日に斉彬が急死したことが大きく関係していることは間違いないでしょう。
以上のような記述から考え合わせると、斉彬は琉球使節の江戸参府を隠れ蓑として、京都への出兵を視野に入れ、計画を練っていたと考えられますが、では斉彬がそこまでして京都へ出兵する目的とは一体何だったのでしょうか?(つまり、Why?です)
冒頭において、『照国公感舊録』の武力対峙説を紹介しましたが、斉彬の京都出兵の目的が幕府と武力で対峙することにあったのかと考えると、やはりそれは懐疑的にならざるを得ません。
芳即正『島津斉彬』において詳しく検証されていますが、斉彬は常日頃から内乱の発生を強く危惧しており、幕府と武力で対峙するような強攻策を取るようには思えないからです。
事実、安政5年6月5日付けで斉彬が近衛忠煕に宛てた書簡の別紙には、
「京師近海江異船渡来仕候ハヽ、防御之儀相心得候様尊命之趣奉承知候、此義乍恐關東嫌疑御座候間、充分之手当は御請難申上、勿論御奉公之事故可怖訳ニは無御座候得共、か様之事より内乱之媒ニも相成候間被聞食置度」とあり、
「京摂への出兵は幕府の嫌疑をこうむり、それが内乱のきっかけともなりかねないので、お引き受けすることは出来ない」と述べています。 しかしながら、斉彬は同書簡の中で、次のように続けています。
「尤様子ニより難差置儀到来仕候ハヽ、早速御奉公可仕心底に御座候間、御内々奉言上候」
つまり、「差し置きがたい事態(容易ならざる事態)が到来すれば、直ぐにでもご奉公に駆けつける所存でおりますので、その旨内々に申し上げます」と、斉彬は書いているのです。
私は、当時の斉彬の考えを表現するのは、この近衛に宛てた一文に尽きるのでは無いかと考えています。
この文言は単に摂海の異船対策だけを意味しているのでは無く、これ以上朝廷が幕府に大きな圧力をかけられるような緊急事態が生じれば、京都へ出兵する考えがある、という斉彬の内心が表現されているのではないかということです。
斉彬がこの近衛への書簡を書いた二日後の6月7日、西郷が薩摩に帰国しました。
そこで斉彬は、今回の『西郷どん』でも描かれたように、西郷から将軍継嗣が紀州の慶福に決まったことを聞かされます。
そして、その4日後の6月11日、斉彬は再度近衛忠煕に対して書簡を書いていますが、その中に「以後関東より之申上ニ相成候て、万々一御不満之御都合ニも御座候ハヽ早々伺度奉存候」との文言があります。
つまり、斉彬は近衛に対して、「以後、幕府からの申し出について、万一不満や不都合があれば早々に伺いたい」と述べており、それは前述した6月5日の近衛宛書簡内の「差し置きがたい事態が到来すれば、直ぐにでもご奉公に駆けつける所存」と繋がっているように私は考えます。
以上のようなことから考えると、前述の松尾千歳氏の「抑止力のための出兵」という言葉が、当時の斉彬の考えを表現するのに一番適している言葉のような気がします。
あくまでも私見ですが、大老・井伊直弼を中心とした幕府の圧力が日に日に強まっていく現状を憂慮した斉彬は、近衛に対して、朝廷に不都合なこと、つまり容易ならぬ事態が生じた場合は早々に報告して欲しいとの書簡を送ると共に、西郷に対しては、
「これ以上、幕府の大きな圧力が朝廷にかかるようであれば、琉球使節の参府と併せて、兵を率いて上京することも考えている。そのことを暗に含んだ上で行動せよ」
と指示して、西郷を送り出した。
斉彬の目的は、後年島津久光が行ったような、幕政改革の詔勅を得るためと言うよりも、まずは公武間の周旋を目的として、上京しようとしたのではないかと考えます。
そこに斉彬が兵を引き連れて行こうとしたのは、やはり幕府と政治的な駆け引きをする以上、ある程度の武力による背景が必要だと考えたからではないでしょうか。
当時の斉彬は、幕府との交渉がこじれた場合、幕政改革の詔勅を得ることも視野に入れていたかもしれませんが、その前にまずは公武周旋に力を注ぐことを目的としていたような気がします。
ブログ 敬天愛人 前スレで西郷のチョンマゲのはなしがでてたけど 幕末の写真とかみると髪の毛をアタマの上で束ねただけ というのが多いよね
風間俊介の橋本左内の髷とかリアルだよね これまでの時代劇のような額を剃るのは身分の高いひとたちだけなんだろうなと >>8
その辺が井伊と薩摩の政争、南紀派の勝利という風に描かれていて、結局それが
国内外にどんな反応があったのかが薄いから、どうして薩摩がしょげてんの?
負けたから?って詰まらんドラマになってしまっているんだよな 井伊をあれだけw
悪代官に描いたのにその辺がアンバランス 井伊も薩摩も幕閣大奥もみんな軽い
んだよ >>19
そんな詰まらん詰まらん言うもんじゃないぞ
心を癒した方がいいの
里アンナ聴け まあね まあ自分としては、って事で、本編そのものはアレで井伊とは思うけどね
スレでの不満なんて結局客観的な多数意見を装っているだけで個人の感想
に過ぎないからなあ 大河史上初、深夜に再放送『西郷どん』第15回「殿の死」
https://www.oricon.co.jp/news/2110177/full/?utm_source=Twitter&utm_medium=social&ref_cd=tw 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1777ba470a0705a8ff6b3177e04ccfb6) 台詞とか入れればいいのにね。外人が日本をボロカスに侵略しようとか話してるシーンとか。
今はそういうの描けないのか。八重も花燃も描けなかったな 麒麟がくるが発表されてからここに棲みついていたアンチが消えたような そういう「ネット反響」とか「早くも〇〇ロス」ってNHKが使うと
ああねつ造だよなーという感想しかない
とりあえず言いっぱなしの言ったもんがちって感じ 出来るなら俺だってロスになりたいが
そこまで誰にも思い入れをさせてくれてないからな
斉彬もなんかふわっと存在してるだけでよく分からんままあー退場かで終わったわ ネット上で大きな反響のあった番組をアンコール放送する枠を4月から新設したんだってよ
とはいえ、よりによって第15回かよ
今までの放送分の中で一番粗が目立ってたような印象だったんだが >>19
なぜか薩摩と井伊の政争みたいに描かれているが薩摩なんて外様は政争相手にもならんだろ 幕末大河をやりたいなら
両方2回目だろうが幕府側の暑姫かcome onの神をやった方が視聴率取れそうだし面白そうだ また井伊、井伊と同じ書き込みばっかりやってる奴がいるなww >>33
ヒーと静岡で親しかったという次郎長がいいなあ 景気公は静岡時代が意外に面白かったりする
チャリンコ乗って散歩しているだけだがな >>11
アメリカは日本との不平等条約で吸い上げた銀で、アラスカを現金で買った。って話しがあるんだよ
(当時は金より銀が価値あったらしいが)
江戸時代の日本は金も銀も豊富だった。
それに鎖国で禁止したのはカトリック関連のことだけだったそうだが 歴代の大河でロスが一番大きかったのは多分
「秀吉」の時の渡哲也の信長 大河の美術って建物関係しか生き残ってないんじゃないの?
前に黒船と大砲が得意な人は引退したって噂を聞いたような気がする >>37
晩年の慶喜に会った事があると言うさくらももこは慶喜公は気さくな老人だったと語っているそうや 慶喜ではなく >景気公
変換ミスなんだろうけど面白い
>>38
慶喜さんは写真撮影にもこってたよ
東京にいた正室の美賀子の危篤の報を受けても
写真撮影に出かけたという逸話がある 大河板では慶喜を「けいき」と読んでるやつがいるんだな… >>46
静岡では「けーきさん」とか「けーき公」とかと呼ばれてるが
それって全国区じゃないのか? 坊さんじゃあるまいし音読みにするかよ
お里が知れる >>46
もっくん主役の大河で、慶喜が市中におけるお忍びの姿でそう名乗っていたはず。 >>53
慶喜自身がそう親しげに呼ばれるのを好んだらしい
「ヒー様」みたなもんだな >>46
ケイキさんという読み方、普通にすると思うが
よく歴史人物をそういう読みにする例は多々あるぞ
「おんな聞き書き 徳川慶喜残照」とか
「徳川慶喜家の子ども部屋」なんて本でも
ケイキさん、ケイキ公呼びしてる部分はあるしね
よく最後の殿様と言われる浅野長勲も「ちょうくん様」とかね
>>51
篠田鉱造の「幕末百話」「幕末明治 女百話」とか「明治百話」とか読んでみ 加藤清正を「せいしょうこう」や「せいしょこ」と呼ぶのと同じだろ 俺はもう随分前から名前を音読みにしてて、
パスポートもそうしてるぞ。 >>53
ナレの大原麗子がそもそもケーキさんって呼んでた 豚好きのヒー様を翻意させるために、トンコツ料理をふるまって・・・とかじゃなくて、よかったじゃん マニアックすぎるだろネタが
お前ら中高年には当然の事実らしいが けいき、音読みが正しい
よしのぶ、訓読みは現代的なものだな 田原総一朗とかもそうだけど、年配の人って伊藤博文をいとうはくぶんって言うよね >>65
漢文の方が上という意識があるんだろうね。古くさい。 とりあえず>>49が恥ずかしい奴という事は分かった あ、失礼
Wi-Fiエリアに入ったからID変わってるが>>69ね
恥ずかしい奴は>>49じゃなくて>>46 はらけいで間違いないよ
たかしなんて呼び方は昔はしてなかった >>75
単にたかしと読めなかったから誤魔化していただけ。 おそらくテンプレ管理、更新を一番多く、あとおそらく一番多くスレ立てをしている者です。
>>68があるなんて気づきませんでしたが、そのスレはスレ立て宣言、誘導とかしましたか?
過去スレ確認してますが、していないみたいですね?それとも私の見逃し?
さて、どうしましょう?
夕飯食べてきますので、またあとで >>79
そういう場合もあるが慶喜をニックネームである「けいき」と発音するのは割と普通だわ 静岡には「葵と駿府のけいきさん」なんていう菓子があるんだな >>80
>>68にあるスレの方が宣言されて立ててますね。 84です
ごめん、宣言はされてなくて誘導されてるだけですね。 「葵」って菓子と「駿府のけいきさん」という菓子と別物か
「駿府のけいきさん」の方は自転車に乗ってる慶喜がパッケージだ >>68は48スレ目の最後の方で49を立てて誘導しているが
前スレの最初の方で重複していたから先にある立った方を使ってくれと再度誘導してるんじゃないか? >>84
今、再確認しました。
part48が終わる寸前だったので自分も焦っていたせいか
先に立ったスレにテンプレ貼りをしてしまったようです。
申し訳ありません。
今後のスレの使用方法ですが、このスレのpart50を使い終わってから、
>>68のpart49を新たに実質part51として使うか
または>>68に今から移動して実質part50として使い終わってから
このスレに移動して実質part51として使うか、どうしたらよいでしょうか?
皆さんのご意見をお願い致します。 >>88
訂正
やはり、自分がテンプレを貼ったほうがpart49で良かったのですね。
では、改めてどうしましょう? 畏まりました。
では、>>68を【実質】Part51で使うことでよろしいでしょうか。 >>41
本能寺後の「秀吉」の
つまらなさはきつかった
あと真田広之の石田三成はまさしく役不足 家康公カレーはあるのにケーキさんの豚一カレーとか慶喜公の豚肉ケーキとかはない 言うほど酷くなくね?西郷が成長して斉彬の上を行く、挙兵上京計画を西郷が立てる。この辺の描写は上手いだろ。
BUSHOO!JAPANの論評とか真田丸ベタ褒めして西郷どんボコボコに叩いてるけど、真田丸だって戦の演出や演出がクドイ所とか西郷どん以上に酷いだろ >>99
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