この年の秋、西郷吉之助、大久保正助、両人とも徒日付に任ぜられた。
西郷吉之助は従来の庭方役を兼任となり、江戸詰を命ぜられた。慶喜世子擁立を推進するよう直命を受けていた。
大久保正助のほうは、相変わらず国元勤務である。
失望を顔には出さない正助だが、彼の心中は吉之助が察していた。
藩の許可を得て、二人は肥後熊本まで同行することになった。熊本藩家老長岡監物に会うためである。
吉之助に誘われた正助は「ぜひとも、連れて行ってくだされ」と喜んだ。
長岡監物は徳川斉昭、藤田東湖、佐久間象山、吉田松陰らとも親交のある人物で、ペリー来航に際しては浦賀警備の総指揮に任ぜられた。
熊本藩家老だけあって、長岡家は立派な門構えの屋敷だった。西郷吉之助とはすでに面識があって、長岡監物は大いに歓待してくれた。
三人は深更に至るまで時の経つのを忘れて、時局を論じ合った。学識経験共に豊かな監物は、話術も巧みだった。
初めて藩外の論客から受けた感銘は、大久保正助にとってひときわ強いものだったろう。
監物の子息である米田虎雄男爵(米田は監物の実家の姓)は、当時まだ少年だったが、「西郷と大久保は、江戸への行き帰りにしばしば立ち寄り、泊まっていった」と回想している。
父の監物は、「西郷は創業の大材、大久保は守成の大材」と評していたそうである。人物鑑定眼は確かだった。