今回、さいたま地裁は、ワンセグ付き携帯電話の所持は、放送法64条の「設置」に該当しない、「携帯」を設置に含めて考えるのは文理解釈上無理があるとして、「ワンセグ携帯の所持には受信契約義務はない」との判決を下した。
NHKは、裁判所は誤った「設置」の解釈をしている、として、さいたま地裁が、あたかも国語時点的意味の解釈に拘っただけの表面的な判決をだしたとでも言いたげな報道をしているが、
「設置されたテレビ」とは、恒常的に受信可能な状態であり、一方、「携帯端末」は必然的に映らなかったり映りが悪くなる状態が頻繁に発生するという、使用者にとって、使用形態上最も重要な部分でその性質を異にする受信機器である。

なので、今回、裁判官が「設置」と「携帯」を分けて、「携帯」には受信契約義務がないと判断したということは、それは単に「設置」の国語辞典的に意味に拘ったという表面的な判決ということではなく、
「映ったり映らなかったりするデバイスに対しても、恒常的に映る受信設備と同じように課金するのはさすがに無理がありますよ」という判断が、「設置」を巡る文理的解釈の背景にあると考えるのが自然だろう。
だから、原告の自宅で本当にワンセグが映るか映らないか、または受信状況がどの程度のものだったかを個別に判断することは無意味だとして判断を避けられたんだろう。ほんとは自宅で映ったとしても、携帯して外出すれば映らない
状況も発生するわけだから。だから、結審前に裁判長は「家で映るかどうかは関係ないんだよね」という意味の発言をしたんだろう。
いうまでもなく、このような経緯を考えても、「自宅で映らなくても受信契約義務は発生すると司法が判断した」などという倒立した解釈が導き出されないことは、まともな判断、読解能力のある人ならば、自明のことだろう。