真田昌幸の方が黒田官兵衛より上だろ
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家康が最も怖れていたのは昌幸
なぜ評価が低いのか? 官兵衛も昌幸も名将だろうけど、昌幸の場合は限られた手駒の中から、最終目的に沿って最善の一手を打って、勝てないまでも負けない弱者の戦い方が得意なイメージ
家康にしてみたら、目的は達成できるけどこういうのを相手にすると味方にもある程度の損害も覚悟しないといけない分イヤだったんじゃないかな 恐れてたレベル越えて息子幸村には殺されかけたし(笑)
愛刀の村正なんかは江戸時代を通じて銘を入れるのすら
憚られた位 結果から考えて官兵衛の方が上だったと思うけど、
考えてみれば、官兵衛は、徳川軍と戦ったことがないよね
家康が直接指揮してなかったとはいえ
地域的な事情とかもあるし、秀吉の死後のそれぞれの立場や石高がどんなんだったか分からないけど
黒田家が関ヶ原後に、52万石になったとは、どっちかというと息子の長政のおかげな気がするし >>245
そして実は家康もこの二人とあまり年の差が無いという事実w >>280
まぁ 九州で火事場泥棒してたけどね
関ヶ原長引いててても勝てかは怪しいしね 歴史上の重要度
徳川家康・豊臣秀吉>>>小早川隆景>>黒田長政>>>>黒田官兵衛>上杉景勝>
>>武田信玄>上杉謙信>>滝川一益>>>真田昌幸>>真田信繁
程度だろう。
重要度と能力は関係ないと思う。 >>285
長政と官兵衛の間がちょっと広い気がするが評価する どう考えても武田信玄、上杉謙信が低すぎる
戦国初期を軽んじて考えすぎ 信玄と謙信も評価されてるだろ
三傑との間にまだ入ってくる重要人物が存在してるってだけで 黒田官兵衛が重要とか笑わせんなw
秀吉からも途中から疎まれて飛ばされたのにwww 北条を降伏へと導いたのは官兵衛という事になってたな >>291
その書き込みが笑われてる事に
気付けるようになればいいな でも戦国時代の当時は越後兵と甲州兵は強いっていうわれてたのは事実 子供の頃、歴史の教科書には、信長・秀吉・家康以外に、
武田信玄と上杉謙信と川中島の戦いは載ってた
今はどうか知らんけど
少なくとも、当時は黒田官兵衛も真田昌幸も、全く知らなかったな
真田幸村は知ってたけど、テレビかなんかからの知識だった >>297
まあ 昔は竹中半兵衛>黒田官兵衛だったしね 黒田官兵衛の業績で一番歴史に影響を与えたのは、天正9年の淡路・四国調略だと思う。
これで、織田が親長宗我部路線から親三好に切り替わり、長宗我部派の明智光秀を追い詰める
ことになった。
その次が、永禄12年の青山の戦い。織田軍が播磨から撤退し、親織田派の宇喜多直家と赤松政秀
が降伏したことで、織田勢力の西進が数年遅れた。 >>298
いやでも、竹中半兵衛も知らなかったけどね
二人とも名前を知ったのって、大河の「秀吉」だったし 歴史かじりはじめた奴が誰しも通る道
武田や上杉って知名度の割に地方だけじゃんって
イメージとのギャップで逆に過小評価をはじめる
その辺一通り過ぎて時代の状況で相対的に見られるようになって
初めてスタートライン 武田や上杉の過小評価じゃないだろう
それ以上に戦国末期の歴史において黒田親子の働きは重要性が大きかったってだけ
幕末で例えれば薩長の中枢にいた桂小五郎や西郷隆盛たちが三傑ポジションなら
それを支援した土佐の外郭の坂本龍馬や岩崎弥太郎たちが黒田親子
強かったが旧政権側の立見鑑三朗や土方歳三たちが武田信玄や上杉謙信 地域限定なら甲州三法等の「信玄」の業績は大きいが(実際には大久保長安の業績が
信玄の業績にすり替えられている事例が多いそうだが)...
枡一つにしても、全国に京枡を使用させ、度量衡を統一させたのが秀吉(&官兵衛)、
甲州限定で甲州枡を使用させたのが信玄。 >負けた相手に重要性を見いだせない
関ケ原の戦いに西軍が勝っていたら、真田昌幸の歴史上の重要度は急上昇だろう。
才能があるのかどうかの話ではなく、歴史上への影響力が大きいかどうかの話なので
負けた側が低い傾向になるのはやむを得ない。
まぁ、明智光秀は敗者でも影響力が大きいし、信長も敗者なんだけど。 負けた側にも重要性はある
ただ相対的に低いのは仕方の無い事
武田勝頼や豊臣秀頼の敗北は非常に重要な事だが
勝っていれば今の日本の首都が東京では無かったり乱世が続いていたりと
大きく異なった歴史を生産し続けていただろうしそういう意味で重要性が高まっていた 関ケ原で籠城して大軍を足止めした人でも、勝敗の貢献度でいうと
京極高次(西軍のエース級を足止め)>細川幽斎(西軍の烏合の衆を足止め)
>真田昌幸(東軍の別動隊を足止め)
の順になっちゃうんだろうな。 >>309
西軍が勝っていれば勲功第一等なんだろうけど三成のせいでw
あと徳川軍として見た場合は秀忠の方が本隊なのでは >>312
まぁそうだ武田信繁は江戸時代でも真の武士って評価されてるくらいだし
兄を助けた弟でもあり一国の太守の器でもあると評価されてるからね 仁科盛信も兄のために武田の意地のために玉砕したのに評価が低いね そもそも映像化作品で仁科盛信が出てきたのっておんな風林火山くらいしか思いつかない
評価以前に扱われること自体が稀
まあ名前だけは高遠落城の報告の際に出てくるんだけどね >>229
他の奴を中国方面軍の司令官に選任したら
官兵衛はそいつの寄騎になってただけの話。 >>317
もしもの話だけど中国に光秀が派遣されてたらどんな立場になってたのかね? >>319
あぁ、そうか秀吉だから長政は助かったわけだったね
つか厳密には半兵衛だけど 武田信繁といや「武田の副将」と称された名将で
その名にあやかったのが幸村
今回の大河でようやく本来の名前の信繁で出たわけだなぁ・・・長かった(小並) 負けた武将は江戸時代に講談で拡大解釈。
近世大名として勝ち残った家はだいたい過小評価。
加藤清正も竹中半兵衛も殆ど実像がわかっていないにもかかわらず。 >>316
>そもそも映像化作品で仁科盛信が出てきたのっておんな風林火山くらいしか思いつかない
へうげもの。
ちなみに真田信繁も九州征伐で登場している。 >>319
そもそも村重が裏切らなかったかもしれないけどね。 >>313
武田贔屓の徳川治世下のことを偉そうに言われても 官兵衛の業績は、どう見ても昌幸以上だろ。
小寺が信長に付く前でも、播磨に侵攻してきた2万の織田軍の猛攻を耐えきったり、
宇喜多直家&小早川隆景と組んで信長に播磨・備前・美作三国の支配を認められた
浦上宗景を追い落としたり、結構やっている。
軍師官兵衛で触れていないだけw 真田の館が忍者屋敷で笑った
黒田も家臣にかなり忍者っぽいエピソードが多いんだが
そういうセットは無かったな >>339
なんでその話 ドラマ内でやらんかったんだろう? >>349
信長から浦上庶流の浦上宗景が備前、美作、播磨の守護とする朱印状を貰う
それに赤松や小寺と言った播磨の殿様たちが不満を抱いて
預かってた浦上嫡流の子である浦上久松丸を
宗景家臣だが備前の半独立勢力でもあり、やはり不満を抱いていた宇喜多直家に渡してしまう
久松丸を擁立した直家の反乱により宗景は追い落とされた
この久松丸の母親は官兵衛の姉妹か養姉妹という可能性があるので
官兵衛が関わった可能性もあるって話し
主体的に動いたのは殿様たちの可能性が高いだろうね その話で思い出したが
官兵衛の初恋相手が黒田家との身分違い悩んでたのに
黒田より更に格上であろう浦上家に嫁ぐ設定にしたのは当時テレビの前で笑ったな >>351
もっと恐ろしいことに、本物の浦上久松丸は幼い頃に既に死んでいたという記録が
あるんだな(書写山に過去帳有り)。
おそらく母親と一緒に浦上宗景に殺害されたのであろう。
官兵衛の周囲で養育されていた「浦上久松丸」は誰なのか?
どこの誰ともわからない子供を引き渡して、宇喜多直家はそれを旗印に... 小寺家の養女としてじゃないの。
黒田職高は小寺の姓貰ってたし。 そうだよな。関ヶ原でわざわざ西軍につく程の恩も受けてない
結局引き抜いた石川数正より石高低いしな。外様だから、
蔵入地もなかったろうし。織田には沼田城没収されたしな 大河ドラマでは、昌幸の方が官兵衛よりも先に本能寺の変を知っていて笑ったw
せっかくの情報の有効活用ができていないので
官兵衛>>>>超えられない壁>>>>昌幸
じゃないかwww ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています