遠憲の上杉景勝★当家の家風★兼続の村上新悟 その3©2ch.net
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遠憲の上杉景勝★当家の家風★兼続の村上新悟 その2
http://nhk2.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1469613688/
※twitterの不平不満を持ち込まないようお願いします!
. いまいちこの頃の関東管領の権威がどの程度なのかわからん
Twitterだと謙信は有難がってるから越後的には大きい意味を持つんだって感じだが……
それを本当にぽんっと景虎に譲渡するかな
譲渡する予定なら、景勝と同時じゃダメだった理由はなんだろうな 景虎の関東管領は北条との同盟、あるいは北条滅亡でしか実現不可能だろう
越相同盟は氏康だから実現したわけで、氏政始め北条一族は乗り気じゃなかったらしいし、謙信も勝頼とは和睦してもいいが氏政とは絶対に和睦しないと義昭の周旋を突っぱねたからな うーん。謙信が北条は嫌ってのはわかってるはずだろうにTwitterの上杉界隈あんだけ盛り上がれるんだ
武田、北条は和睦してもいいはずだから謙信に心変わりの兆しでもあったのか
それこそ、景虎に上野やらないことが御館の乱に繋がったってことになってくな そんなに盛り上がってるか?
自分ツイしないからわからないけど
>>168
為景夫人天甫喜清の父朴峰永浮は上条上杉少弼入道だと森田真一氏が人物比定した
今後はこれが定説になるんじゃないか まるで関係ないが上田衆が屈強と言われてたのは雪深い南魚沼市で雪かきしてたからなのかな まだ、ツイッター乃至燃えてるのか
上杉ファン沈黙するしかねぇじゃねぇか 乃至氏はぐだぐた言い訳しつつボクの著作は研究対象に耐え得るものではありましぇんと実質白旗挙げてるんだけど
論戦の最後だけちょろっと眺めた人や脳死信者には一方的に乃至氏が難癖つけられてる図に見えかねないのが危ういね
まああの人の持ち芸ってぼくのかんがえた最強の謙信とぼくのかんがえた陣形論くらいしかなさそうだから今後も影響及ぼし続けられるかは知らんけど… しかし最初の(伊東潤との共著)読んだ時はこれはなかなかの人が現れたと期待したんだけどなあ… 再燃させたのは全然無関係のおかしな人じゃないかw
馬鹿試合の様相を呈してるからもう読む気もしない
乃至さんの新刊って前書き、後書きが付け加えられただけで中身一緒なのかな
乃至さんは以前、車懸のペンネームで上杉関連のネット界隈でよく見かけてた
例の本にはあれ、これどっかで読んだぞっていうのが結構あった
ネットで他人の方が発言されてたのをそのまま引用してるみたいなのがいくつかあったけど
あれは本人の了解とってるのだろうか 引用削除してほしいって言うの見かけたがそのまま掲載だったみたいだな
信用ガタ落ち >>181
謙信の母虎御前は側室なの?
それとも虎御前が栖吉城主の娘というのが大嘘なのか?
もしかして御館の乱で敗れた古志長尾が、自分たちの正当性をアピールするために謙信の母は古志長尾とかの伝説を作りあげたのか? 平山氏の武田氏滅亡を読んで、謙信も信玄も織田方と戦端開いた後にぽっくり逝っちゃうから景勝も勝頼も大変だよなあと思った
まあ勝頼は大変どころじゃ済まなかったし上杉も武田もあれだけ領国が広がると戦端開いてなくても信長は滅ぼす気だったかもしれんが… >>195
あの分厚いのを読んだのか…すごいな
景勝関連どんな風に書かれてるのか興味あるな >>196
いや御館の乱関係のとこだけ先につまみ読みw
勝頼自身の岐路になるポイントだけあって結構な紙幅が割かれてるよ(近年の景勝後継・謙信死去直後は平穏に継承も〜説が採られてる)
御館方の劣勢により、雪解けしてももはや氏政は景虎を助ける気は無くなっていた、というのはほー、と思ったな
あと織田との同盟交渉を巡っての「お前勝手に織田との同盟交渉してんだろ!黙ってやるなつったよな」「お前のほうも黙ってこっそりやってんだろ知ってるんだからな!」的いざこざもばっちり収録w >>197
景勝後継、死去直後は平穏に〜説なのか
今はこれが主流になりつつあるのかね。自分、今福匡氏のでしか見たことないが…
氏政のところはなにを根拠にしてるんだろうなー気になるw
良い掛け合いに見えるなそれww
お互い必死だけどw 御館の乱に関しては、平山さんは今福さんの説を高く評価してるみたいだな 後継に関しては、以前新潟県立博物館の前嶋さんも片桐さんの後継者移行説を支持されてた
ただ謙信の性格が非常に気分屋で(おいおいwww)、後継者も流動的な感じみたいなことを話されてたらしい
平山さんの著書によれば、一度は甲越相同盟を受け入れたらしいしなあ(佐竹らの反北条派の反対で結局はぽしゃったらしいが)
関東の反北条派たちも謙信頼りにならずと、信長に近づく動きを見せたり
片桐さんの言うように謙信が山内家を一分国領主として扱おうとしたのなら、上杉憲政にとって決してはいい流れとは決して言えないし
実際、晩年の謙信と憲政はトラブってたらしい書状がある
決して景勝に平穏で〜とは言えない状況だと思うがな
平山さんも蘆名が謙信死直後から越後に侵攻した史実を取り上げていたが、蘆名は「謙信が死ねば必ず越後は騒乱する」と見てた
平山さんは景勝の上田長尾重視の権力集中を乱勃発の要因としているが、自分はそうは思わない
御館の乱での景勝政権中枢は晩年の謙信政権中枢だし、乱で反景勝派が没落したことにより結果的に上田長尾を中核とする近世的な大名領国制を越後に確立することが出来た
勝頼が運の悪い武将なら、つくづく景勝は運の良い武将なんだと思う
残念ながら関ヶ原では運がつきてしまったが 中央集権化は当時の大名が多かれ少なかれ試行錯誤していた時期だし
景勝はその手段として分かりやすく身内を使ったのと、新発田や上条、藤田といった重臣層の反乱や出奔が合ったという結果から後付した面もあると思うなあ
新発田は確かに反乱したがその他の揚北衆は多くがそのまま景勝に従ってるし(本庄繁長の謙信期との態度の違いは何なんだろうな…)
狩野なんて尼子家臣だったとも言われるくらいだし、会津三奉行だって北信濃、揚北、武蔵衆で上田衆おらんし
その会津三奉行の一人、憲政にしたがって越後に落ちてきた大石綱元が御館の乱では普通に景勝勢で戦ってるというのが
憲政の地位やら何やら示唆しているようで…単に俺らをクニから追い出した北条の下にはつけねぇってだけかもしれないがw
個人的には景勝政権期の非上田衆だと芋川親正が好きです 色んな見方があるんだな勉強になるわ
上田衆の台頭っても勝頼との交渉は新発田兄弟とその一族だし、側近としては上田衆いるが取次は狩野秀治だもんな 景勝が強硬な集権化を進めたのが御館の乱の原因、はわかるけど
別にそこに上田衆への贔屓がどうとか絡める必要ないと思うんだよな
贔屓もくそもそもそも景勝が一番信頼できるのが出身母体である上田衆なのは自明だしかと言って上田衆以外にも様々な出自の人が景勝期でも一定のポジションに付いてたわけで 上田衆の贔屓なら御館の乱よりもその後の新発田重家の離反のほうがよく言われるんだがな 新発田重家が政権中枢から消え、直江兼続が登場してくるのが象徴的だよな 上田衆贔屓というより直江兼続とその一族の取り立てっぷりがすごいだけなんじゃないかって以前スレで書かれてた気がする
その直江も狩野秀治との二頭体制だった時期があったわけだし、能力主義的な人事って感じなのかな 市販本読む程度のニワカだからそもそも御館の論功行賞で具体的にどのくらい上田衆が贔屓されたのか分からない俺
調停失敗で兄が切腹して跡継いだ安田能元が堀江の旧領貰ってるのは詫び料なのか新発田に同心するなよっていう袖の下なのか… 市販本より御館の乱詳しく書いてるみたいだ武田氏滅亡 >>207
上田衆への論功報酬への不満っていうのは軍記物レベルだろ
上杉研究者は新発田の離反は謙信時代の戦国領主中心から、譜代中心の中央集権化への過程での反発としてる
阿部哲人さんの論考でも、新発田重家は天正八年(1580年)夏の景勝書状から、当時の景勝の意思を伝達する側近として御館の乱終結に活躍していたのが明らかにされてる 新発田長敦が死んだことで論功行賞から漏れたのが重家、離反する理由だよな?
一般でちゃんと御館の乱関連読める本ないのがな… 本来長敦が死んだ時点で御家断然になるはずだった新発田家を五十公野重家に継がせたのが恩賞だって聞いた
俺も一度しっかり勉強したいなあ 平山さんの本は御館中心で読んでるけど、結構誤謬というか誤植があるな
景勝が記載されたのは「御実城様」じゃなく「御中城様」だし「弾正曲なき」じゃなく「少弼曲なき」
特に少弼は、景勝の自称ではなく敵方の景虎も少弼と呼んでいたことで、後継問題にも関わる重要なことだ
景勝方の打診に対する武田方の最初の返答書の宛名にある五十公野右衛門は五十公野宗信ではなく、後の新発田重家のはず
平山さんの本にも思いがけない申し出に武田方の対応が遅れたとあるが、勝頼の方向転換はよく言われる大金とかじゃなく、想像したより景勝が国衆から支持されていたことかもな
信玄の駿河侵攻みたいに簡単にはいかないと思ったのかも
特にその連名書状には新発田、加地、中条、安田、水原、色部、斉藤、毛利と言った錚々たる国衆に混じって、謙信晩年の側近中の側近、吉江信景の名前もある
信景は謙信最後の遠征となった能登にも同行し、河田長親らと違って最後まで謙信の側を離れなかった
景勝の家督継承を宣言した書状には全て信景の副状が添えられてたらしいが、多く武将たちは信景の副状=謙信の遺志と考えたはずというのを何かで読んだ記憶がある >>212
おお!詳しくサンクス
専門外の人だから仕方ないし景勝はあんま研究されてないからな
読むの楽しみ >>212
自分はまだそこまで読み進めてないが御実城様だと謙信になっちゃうなw
権力を握ってまだ間も無く、目下内乱中の景勝に武田が圧力掛けたら四分五裂になるんじゃないかとたかをくくっていたら思いの外一枚岩で、
あまり長期滞陣や消耗戦は避けたい武田側が和議仲立ちに傾いた、というのは確かにありそうかも 景虎勝利のifというのは夢のある話なだけに論ずる人に取って理想的な展開になることが常だけど(甲相越三国同盟で関ヶ原で織田軍と決戦とかねw)当然それ以外の経過を辿る可能性だってあるわけで
景勝勢の抵抗が存外に頑強だった場合武田軍消耗で遠江・駿河徳川勢が跋扈し易くなったり
景勝方残党が織田やらと結び付いて更に抵抗する可能性もあり、そもそも戦局不利だから他国に助けを求めた景虎がそれに対処しきれない可能性
救援に向かうにもただでさえ遠地なのに北関東衆とも対峙する北条は越後に兵送れても流石に揚北までとはなかなか行かないだろうし
武田が景虎について勝利させても結局勝頼に厳しい情勢には変わりなさそう 簡単に景虎が勝利するとも思えないな
景虎が北条だの蘆名だの武田などの外国勢力を呼び込んでくれたおかげで、むしろ危機感が利害を超えて景勝側を一枚岩にしたのかもしれない
かの新発田長敦たちもこう叫んでいる
「謙信公墓所のため、そして越後のために俺たちは戦ってるんだ!」 武田氏滅亡の御館の乱読んだがこれが正しいのかいまいちわからん
詳しくないからこれが御館の乱でいいのか? 乱の経過としては合ってるだろうけど人物の行動理念の面ではどうかな?といった感じを受けたな>平山氏の御館の乱
まあ何が正解という確たるものもないんだけど…
上杉の研究者じゃないからどうしても上澄みだけ掬ったような感じというか…まあ平山氏がこんな詳述しなきゃアカンほど他の上杉家研究の人しっかりして〜って話なんだけど >>216
そんな熱い感じだっけ
景勝はおろか謙信からも恩を受けてない俺らですら働いてるんだからお前も動けよって感じだったような
武田と北条だ南の方を犠牲にして全力で景勝を潰せば景虎勝利はあり得ると思う
ただ権威も力もない景虎じゃ織田の攻勢から生き残れるとは思えない 景虎を勝たせるより勝たせた後の方が大変そう
恐らく越後が安定するには結構な期間武田北条の助力が必要だろうけど
特に武田にとっては重い負担だよね、人の手当てしてる場合じゃない状況だし 反景虎の国衆たちは、関東の反北条が織田と結んだように織田に走るかもしれないしな
信長は喜んで越後に介入してくるだろう
一気に織田軍が北上し、武田と北条は織田の脅威に晒された可能性もある まあ、武田も北条も他方を犠牲にして全力で景虎を支援する気はさらさら無かったでしょうな 去年6月の「人物叢書」の続刊予定書目一覧見ると、山田邦明氏の「上杉謙信」が予定に入ってるな
平山さんのツイだとやっぱり「上杉景勝」は難しいのか 正直上杉研究者でもここまで御館の乱詳しいのいるのか?って内容だったな
個々の行動理念は別としても参考にした史料の多さはすげーよ しかし謙信の取次である、吉江信景や三条信宗(後の五十公野信宗)が景勝家臣〜として初登場するのはなんか新鮮というか
平山さんは景勝が家督を当初から継承との立場をとるから当然なんだけど >>227
五十公野宗信だから違うと思うんだよな
信宗なら重家の後の五十公野家継ぐけど御館の乱の頃だとまだ五十公野じゃない
重家だと思うが誰なんだ? 武田との交渉に出てくる五十公野右衛門は重家だよ
重家は五十公野右衛門尉として上杉家軍役帳に登場している
戦国人名辞典(長谷川伸氏執筆)でも御館の乱では終始景勝方として兄長敦のもとで武田との交渉にも活躍したと書かれてる
三条信宗も「武田氏滅亡」では鯵坂が景勝への起請文を送った取次として登場してる
「武田氏滅亡」で武田との交渉に出てくる五十公野宗信は三条信宗とごっちゃになった重家のことでしょう 武田との和睦の際に多額の賄賂があったとか言われてるの否定されてたな
金で釣られたってのはこれからはなくなって上杉の方も研究変わっていくかね 上杉研究者も昔から多少の金品の贈呈はあっただろうが、巨額の賄賂は甲陽軍鑑の捏造というスタンスだったんじゃないかなあ
史料として武田側が500両要求した書状が残ってるけど、菊姫の結納金だとする人もいたし
しかし御館の乱の勃発を景勝の国衆への統制強化の反発とするのはどうなんだろうね
じゃなんで独立志向の強い揚北衆の多くが景勝派になったんだよってなるな
上田長尾の権力の乱用っても、初期の景勝政権の中心は新発田長敦、斎藤朝信、竹俣慶綱の三人ってされてるからな
新発田家の継承は許されても、長敦の政権中枢としての権力の継承は許されなかった重家が反発するのはわかるんだが 乱の一番の原因は景勝の後継者としての不安定さだと思う
諏訪家から入った勝頼がさいごまつた 途中になっちゃったw
最後まで勝頼が真の武田家当主と認められなかったように
上田長尾家出身の景勝も当時、同じように見られたんじゃないかな
おまけに勝頼には弟も幼くライバルがいなかったけど、景勝にはいた
北条氏というバックつきでね もしかしたら、景勝は景虎が丸め込まれるとは思ってなかった?
たとえ、バトルになったとしても神余、上杉憲政あたりと踏んでたのが景虎が加勢したことで更に悪化したとか 景勝が上田衆を贔屓したというよりは、中央集権を進めたい景勝に一番協力的なのが出身母体の上田衆だから
家督チェンジした当初は重用されたという話で、重点が逆のような気がしてならないんよね
協力的な人は出自に関わらず重用されてるんだから 景勝は家督継承した頃は側近の奉行衆は謙信晩年の奉行衆をそのまま引き継いでる
景勝が独自の路線を明確にするのは御館の乱後だと思うね
あと乱後の論功行賞で上田衆に厚かったのも、ある意味上田衆が血と肉を犠牲にした者が多かったということかも
上田は坂戸城を除いて景虎方の手に落ちたから、家族が犠牲になったものも多かっただろう
佐藤甚介は乱後、栃尾城代に抜擢されてるが、上田衆だからというより妻と二人の子を人質にとられても景勝への忠誠を貫いた甚介の行動への褒賞だろう(家族は結局全員殺害された) 「武田氏滅亡」の御館の乱の勃発は今福さんの研究に基づいてとされてるが、乃至さんの「関東戦国史と御館の乱」の影響も感じられるんだよな
だからよけいにう〜んってなるw 乃至政彦氏からの後教示って表記もあったな
そっち読んでないからわからんが違和感はそれか 上田衆贔屓が云々というのは近年だととりわけ乃至氏(と、伊東潤w)の推してる話だね
とはいえ無条件で何でも採用ってことは当然ないだろうけど
二度目の甲相越同盟が流れた理由が北関東衆の抗議じゃないかというのはちょっと弱い気もするし、上杉絡みのはまだまだこれからの研究って感じかもね
ていうか片桐氏でも矢田氏でも、研究成果もっと世に出してほしいな本当に… 御館の乱後、樋口与六を直江氏に入れたり、子飼いの上田衆を小国氏や山岸氏に養子入りさせて伝統的な国衆中心の政治から中央集権化を進めたのは事実なんだよ
まあ、謙信も譜代の吉江から中条氏に養子入りさせてるけどね
でもそれを御館の乱の原因にするのはなあ
まだ片桐さんの謙信が築こうとした家格統制が謙信の余りにも早い死によって崩壊した説の方がしっくりくる 平山優氏は武田氏滅亡しか知らないのだが上杉関連はなにかで言及してるのか?
丸島氏もたまに上杉のことツイートしてたが… >>240
山田邦明氏と片桐昭彦氏がともに編纂委員を務める六日町史通史編第1巻もそろそろ発刊されるはず
南魚沼市六日町といえば上田長尾氏の本拠地だからな 勝頼側に主導権のある同盟なのに景勝側からは人質提出された記録がないのが謎
もともと北条と手切れするつもりでタイミング計ってたんじゃないかってレベルでとんとん具合に同盟結んじゃうし
御館の乱はまだまだ謎が多いな… 人質になるのかわからないが、菊姫の代わりに、上杉は景勝の姉と上条政繁との間に出来た娘が勝頼の兄に嫁いでるらしい
丸島さんの甲越和与に関する論考によれば、謙信生前から越相同盟破綻後に上杉からの働きかけで、北条に対抗するために武田に同盟を持ちかけた動きもあったらしいし、実際謙信と勝頼の間には甲越和与が結ばれてるからな 上条政繁の娘を嫁がせるみたいなことを上杉氏年表にあるがあれは頓挫したのか? 上条の娘が嫁いでたのか
基本資料なのに上杉氏年表読んでなかったわすまん… 上杉氏の研究だけ読んでもダメみたいだな
武田北条方面もか…… 流れぶった切って悪いんだが、伊達や島津が景勝のことを長尾と呼んでたりしてるがあれは格下として見てるのか?
丸島先生のtweetでも理由わからんってあったが 伊達は普通に上杉呼びしてた記憶があるが
島津は何故かわからんね
もしかして京都にも長尾町って地名があるから、普通に長尾呼びされてたのかも
景勝は正統性をアピールする系図作りもしてないので(研究グループによれば上杉歴代では異例のことらしい)、案外無頓着なところあったのかも 政宗に関しては友好な頃は上杉だったけど外交関係が険悪になったら長尾呼ばわりになったとかどこかで読んだような… それはよくあるパターンだね
北条も越相同盟までは長尾呼びで、同盟中は上杉
越相同盟破綻後は再び長尾輝虎になってたな 景勝が上洛するしないのときに島津が長尾殿が上洛してこないのが問題になってると書いてるらしいが遠くの島津まで長尾知ってるのはその呼び方が浸透してたんかな >>253
三郎景虎が長尾謙信の養子と記されてる北条系図もあるな
江戸時代の書物に長尾謙信とよくあるのは、文楽の本朝二十四孝の影響もあるのかね 話ぶったぎってすまないけど上杉景勝を大河ドラマの主役にって動きは無いのかな
今福先生や平山先生が時代考証やって今までの景勝像を覆して欲しいんだが 時代考証は矢田俊文氏、片桐昭彦氏、山田邦明氏、今福匡氏あたりでお願いしたい(+上杉博物館全面協力)
平山優氏は武田研究だから上杉景勝向きじゃないかなと 兼続やったからまずないでしょうね
大河で今までの景勝像を覆すってのも、今のファンタジー大河直虎みてたら期待する方が間違いかも
地元の利権が絡んでるからでしょうけど、史実としては疑義のあることを平気で史実として広めようとしている
研究者としての矜持があるのか疑うわ
真田丸が異例だったんだと思う
まあ、天地人の時も小和田が考証してたけど新潟大の矢田教授を中心に講演会、出版物で真実の兼続と景勝を伝えようという動きはあったし、それなりの効果はあったと思う 真田丸は最近主流になってる学説取り入れてはいたけどほぼファンタジーだろうあれも。俗説だって多かったし
上杉はしばらくはないだろうというかもうないんじゃ? 大河は史実のみを書いてほしいよね
作家の創作部分も俗説部分もいらないよ
大河ドラマを史実と勘違いするにわかもいるんだし
謎の部分はよくわからないでナレ処理すればいい 真田丸もドラマはファンタジーだったけど、随所で歴史クラスタを喜ばせる場面があったし、何より考証の方がSNSに出てきてたから面白かったし、一応史実へのリスペクトが感じられた
大河はドラマとしての面白さが追求されるから史実重視は無理なんじゃない
大河よりいつか藤沢周平の密謀をやって欲しいな
個人的にあの主従二人は天地人や真田丸よりも人物像が史実の二人には近いと思う >>260
それじゃドラマである必要がなくなる
そういうのはドキュメンタリーでやれば良い 密謀は原作古いがやれるかね
2時間ドラマくらいならいいけど視聴率あんま取れなさそう ドラマは期待薄かな
今は山田邦明氏の「上杉謙信」の出版を待つぐらいか
「天地人」の前後は復刊本も含めて研究書、一般書がかなり出たんだけど
武田氏研究者から、「上杉研究は遅れている」なんて言われる日が来ようとは思わなかったな
こうなったら武田からの軍事侵攻もどうぞ宜しくお願いしますって感じだな 今福匡氏が4月か5月に総数13名の論文で上杉謙信の本出す予定らしいぞ
メンツわからないが結構な数 それ知らなかったな
しかしメンバーにもよるな
いつもの居多神社の神主さんとかだったら…
いつものですね…になるw 今回ばかりは期待したいw
謙信も重要だがやっぱ景勝の良本がもっと出て欲しいぞ
一般人が手に取れる書籍ないからファンも増えん… 今福さんなら宮帯かな
黒田さんの「北条氏康の子供たち」みたいな感じだろうか
通説を覆し義将の真実にせまる、みたいな真面目な研究書ならいいけど
歴史街道や歴史人の謙信特集の著者みたいだったらガックリする 平山優氏期待してるの前嶋敏氏と福原圭一氏なんだな
この二人はどんなふうなのかあまり知らないや 前嶋さんも福原さんも天地人講演会で名前を見かけた記憶がある
新潟県の研究者の中では景勝時代にも詳しい人たちだと思う 説得力には欠けるけどストーリーとしては面白そうに見える乃至政彦氏による歴史人解説
あれを信じるかどうか悩むが… 小説としたら有りかもしれないけどね
相変わらず乃至節が炸裂してるww
今福説が最近取り上げられるようになったけど
平山氏も乃至氏も自説の都合の良いように取り上げてるようで、しっくりしない
ここはやはり上杉研究者がきちんとしたものを出すべきだろう
特に上杉研究者の中で景虎と景勝の家中での地位について継続して論考を発表してる片桐昭彦氏に期待したい 本じゃないけど
新潟県立歴史博物館の5月常設展示ワンポイント解説予定みたら
5月21日、前嶋敏氏解説の「上杉景虎と御館の乱」がある
景虎と景勝が対立するまでの流れを解説されるらしいよ 高野山の過去帳の研究で知られる丸島氏が謙信が妻帯してたかもと言ってられるらしい
あれかな、越後過去名簿の為景妻天甫の死後に登場する「府中ご新造様」の記載のことかな
他にも上田長尾との抗争時に登場する、「ご新造様」
仙洞院のことにされてるけど、素直に文書を解読すると「政景はご新造様の近い親戚だが、恕すことは出来ない」と読めるんだよね
謙信時代の文書を精力的に解読している某ブロガーさんはこの「ご新造様」を謙信の妻か?とされてたしなあ
謎が多い謙信、上杉研究者が手をつけようとしないなら丸島さんも早く軍事侵攻して欲しい 新しいことがわかるのはいいけど、正直武田研究者は公平に見ようとしてるが上杉にいい感情ないんだなってのがわかるのがな…
上杉研究者もがんばってくれ。色々大変だろうが武田に負けないでほしい こっち誰もいないな
謙信の妻帯に関して講演あるみたいだが誰か行かないかね 謙信が妻帯してた可能性とか、すげーキャラ崩壊w
でも>>275の過去帳の件をみると、なるほどと思うね
謙信に妻はいない、その思い込みで仙洞院のことにされたんだろうか?
史実に少しづつ近づくためにいろんな説が出るのはいいことだね
5月の前嶋氏の御館の解説も凄く聞きたかった
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