鳥取環境大学紀要 第8号(2010.6)
仏を超えた信長 −安土城ハ見寺本堂の復元− 岡垣頼和・浅川滋男
https://www.kankyo-u.ac.jp/f/845/1089.pdf

ルイス・フロイスの『日本史』第3巻55章に、総見寺に関する記述がある。
 神々の社には、通常、日本では神体と称する石がある。
 それは神像の心と実体を意味するが、安土にはそれがなく、信長は、予自らが神体である、と言っていた。
 しかし矛盾がないように、すなわち彼への礼拝が他の偶像へのそれに劣ることがないように、
 ある人物が、それにふさわしい盆山と称せられる一個の石を持参した際、彼は寺院の一番高いところ、
 すべての仏の上に、一種の安置所、ないし窓のない仏龕を作り、そこにその石を収納するように命じた。

信長は「盆山」というご神体を自らの化身として、本堂ご本尊の上に「仏龕」を造って祀ったとフロイスは書き残しているのである。
仏像の上層に自らの化身を祀るという行為は、比叡山や本願寺を壊滅的状況に追い込み、
中世宗教社会を解体した信長の思想を露骨にあらわすものと言える。
さらに、境内の立地に目を向けると、最も背の高い三重塔を本堂よりも低い隣接地に配し、
「盆山」を安置する本堂の2階から見下ろせるようレイアウトしていた。
以上のような伽藍内部の空間設計を通して、信長は己が「仏を超えた存在」であることを誇示しようしたのであろう。

さて、フロイスのいう「仏龕」とは何なのであろうか。「龕」とは、洞穴の壁面や厚い石壁をくりぬいた棚状の施設をさす。
そこに仏像を鎮座させれば、その棚は「仏龕」となるわけで、東アジア圏においては石窟寺院内の「仏龕」がよく知られている。
総見寺本堂に、石窟寺院のような「仏龕」があったはずはなく、本尊の真上に造られた小型の2階部分(楼閣)を「仏龕」に喩えたので
あろう。それはおそらく「厨子」に似た施設であり、常時扉を開いており、境内の地面から直接盆山を遙拝できたのではないだろうか。
『信長公記』巻十五に以下の一文がある。
 正月朔日、隣国の大名・小名御連枝の御衆、各在安土候て、御出仕あり。百々の橋より惣見寺へ御上りなされ(後略)
このように、隣国の大名・小名はみな総見寺を経由し天守に出仕したとされるが、それは「盆山」の遙拝を義務づけたものと解釈できる。
また、フロイスの『日本史』第3巻55章には、信長が「庶民」に対しても総見寺に関する御触書を出し、信長の誕生日を「聖日」と定め、
総見寺を参詣するよう指示したことが記してある。町民が安土城天守閣で信長にお目通りすることはかなわないが、
その代わりに総見寺で信長の化身たる盆山を礼拝せよ、という意図であろう。
こうしてみると、総見寺そのものが織田信長という権力者の代替物として機能していたことがわかる。