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【第三十一回】太平記 part.31『尊氏叛く!』 ©2ch.net
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0002日曜8時の名無しさん2017/04/25(火) 20:22:23.74ID:Gn3g6SgJ
 
◇本編内容◇
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 建武2年7月。いわゆる「中先代の乱」が起こり、北条時行軍は一挙に鎌倉を陥落させ、直義は登子と千寿王を守って東海道を西へと落ち延びていった。

 そのころ京では尊氏が参内し、鎌倉を救うために兵を率いて関東へ下ること、そして全ての武士を統率するために征夷大将軍に任命してもらいたいことなどを後醍醐天皇に要求していた。

帝は関東に家族を残している尊氏の気持ちを分からぬでもないとしながらも、尊氏を関東へ下すことも征夷大将軍に任じることも認められないと答える。それを認めることは幕府再建を許すことに他ならず、公家達もそれを恐れているのだと。

尊氏はあくまで将軍の地位を求め、帝に背く気は毛頭ないと言うが、帝は「分かっておる…それゆえ許せと言うておるのじゃ」と尊氏をなだめ、自分が治めるのは全国66か国、関東8カ国のために他の国に混乱を引き起こすのは避けたいと言う。

尊氏がその8カ国の戦乱が全国に飛び火してしまう、と言うと、「そのときは朕自ら出陣する」と後醍醐。
尊氏は恐れ入り、「帝は神のごとき美しい方」と呼んで戦のような醜いものは武家にお任せをと諫めるが、後醍醐は「尊氏は愚かじゃのう…朕は神でも鬼でもない。人じゃ。」と笑う。

そして「朕の政(まつりごと)を邪魔する者は、たとえ誰であろうと、この手で打ち払うてみしょうぞ!」と言い放ち、関東のことは奥州の北畠に任せ、尊氏は都にとどまるよう命じた。

 尊氏が六波羅に帰ってくると、母の清子や高師直らがとりかこんで首尾を聞く。尊氏が「帝のお許しは出ず、じゃ・・」と告げると一同は落胆する。
清子が駿河・手越河原の合戦で千寿王らは無事だが直義の身が危ういとの知らせを尊氏に伝える。家臣達が「出陣じゃ!」と騒ぐが、吉良貞義がこれを諫め、尊氏も帝の命により動けないと一同に申し渡す。

 楠木正成の屋敷には千種忠顕からの書状が届いていた。尊氏がもし勝手に出陣しようとしたら武家はこれを阻止せよという指示であった。
それを聞いた久子は「むごい」と言い、正成も「千種殿と名和殿はこれを機に一気に足利殿をつぶしておきたいのじゃ・・」と妻に語る。

久子は正成と尊氏はよく似ている、として「足利どのはお発ちになるのではございませぬか?」と正成に言う。「そうなれば、大きな戦が始まる。」と正成。尊氏が立てば反後醍醐の武家がその傘下に集まり、公家と武家の戦いが始まってしまうと正成は危惧していた。

 翌日、内裏では名和長年が他の公家達と、征夷大将軍を望んで拒絶された尊氏のことをあざ笑っていた。
そばにいた新田義貞はそれを黙って聞いていたが、長年に同意を求められたので、たまらずに外へ出る。するとそこに「こわいお顔でござりますな…」と微笑みながら勾当内侍が現れ、帝の呼び出しを義貞に伝えた。

 駿河では直義と登子たちがなんとか足利の拠点・三河へ逃げ込もうとしていた。北条軍は執拗にこれを追い、直義たちは必死の防戦を強いられていた。
 京では尊氏がイライラと庭に水をばらまき、気を晴らそうとしていた。そんな息子を清子が心配そうに眺める。
そこへどこからか笑い声が聞こえてきた。「誰が騒いでおる!」と尊氏は癇癪を起こし、ひしゃくを投げ捨てて声のする方へ向かった。

すると師直たち家臣一同が白拍子など呼んで飲めや歌えと大騒ぎをしている。
「こは何事ぞ!」と怒鳴る尊氏に、師直は赤い顔で「弔いでござります・・」と答える。
せめて酒でも飲んで騒ぐことで、今度の戦いで戦死した親類縁者の弔いをしているというのだ。師直は酒を手に続ける。

「かようにしている間にも我らの兄弟縁者が…!酒でも飲んで南無阿弥陀仏と歌うておらねば……やりきれませぬ!」その言葉に尊氏も一同も黙り込む。

 そこへ三河からの早馬が報告をもたらした。相模の戦いで細川頼貞ら多くの武将が討ち死にしたとの書状だった。そこへいつの間にか一色右馬介が姿を現していた。
右馬介は直義らが三河へ逃げ込んだものの、勢いのある北条軍が攻め込んだら幾日も猶予がないと尊氏に告げ、奥州の北畠勢も奥州の乱を押さえるために動けない様子と伝えた。

しかも北畠親房が足利無きあとの関東を結城宗広に任せてはと公家に書状を送ったらしいとまで報告する。もはや帝の一人歩きに嫌気が差した公家達もめいめい勝手に動いており、「もはや我が身は我が身で守るほかございませぬ・・」と右馬介は言う。
 
0003日曜8時の名無しさん2017/04/25(火) 20:24:29.67ID:Gn3g6SgJ
 
・・・「三河も猶予ならぬか…奥州も駄目か…やむをえん!」尊氏がそう言ってふりかえると、師直ら家臣一同が庭に出てひざまづき、尊氏の命を待ち受けていた。
「師直、明日、三河へ発つ。明日出陣じゃ!」と尊氏は言い、白拍子の白粉をつけ酒に顔を赤らめた一同に「顔を洗え」と命じる。「出陣じゃ!」と家臣達は一斉に立ち上がり、吠えた。

 そこへ佐々木道誉が訪ねてきたとの知らせが入る。尊氏が道誉に会ってみると、道誉は派手な鎧に身を固めていた。
「そろそろ足利殿が御出陣なされるころと思いましてなw」と道誉は笑い、都の公家たちに茶や花を教えるのも飽きた、尊氏と自分が立てば諸国の武士が馳せ参じようと尊氏に言う。

尊氏がこの出陣は帝の許しを得ていない、と道誉に念を押すが、道誉は朝敵である北条を打ち破ってしまえばあとはどうにでもなると言った。そして「足利殿が天下をとる前に力を削がれては元も子もない」と付け加える。
自分はまず尊氏に天下をとらせ、それをそのまま奪ってやろうと考えている、「それゆえ助けるほかはない」と道誉は尊氏にささやく。「御辺は…婆沙羅よのう…」と呆れる尊氏。道誉はそれだけ言って近江へ去り、残された尊氏はこみあげてきたように大笑いするのだった。

 ついに足利軍が都から出陣した。尊氏は全国の武士に参陣を呼びかけ、新政に不満を持つ武士達がこれに呼応して集まり、たちまち大軍に成長する。
 内裏には名和長年が慌てて駆けつけ、都中の武士が足利に付いていってしまったと公家達に報告する。千種忠顕も坊門清忠も「追討じゃ!」と騒ぐが、長年は「誰にお命じで」と聞き返す。

「名和、そち以外に誰がいようぞ!」と忠顕が叫ぶが、長年は義貞がいつもの暗い顔で「行きたい奴は行けばよい」と言っており、正成も「帝のご意向は」と言うばかりで、どの武士も足利を敵にしたがっていないことを伝える。

公家たちは「拝謁して追討の綸旨をもらうべし!」とそろって後醍醐のところへ向かう。 しかし後醍醐の命は「止むをえん…捨て置け…」であった。
「行って戦って、辛い思いをするのは尊氏ぞ…よしんば北条を滅ぼしたとて、誰が恩賞を与えようぞ…」と後醍醐は言い、「朕が認めぬ戦に恩賞はない!将軍も与えぬ!それでよければ行くがよい」と断言する。これに公家達も一応納得の表情を見せる。

 尊氏の軍は翌日には近江に着き、ここで佐々木道誉の軍と合流して美濃へと入った。
 その美濃では。石と不知哉丸が畑で大根の芽が出た、と喜んでいた。藤夜叉が石に頼まれて家に柄杓を取りに行くと、村の神社で白拍子たちが舞の稽古をしているのを見かける。

新入りらしい娘が座長の女に踊り方が違うと怒られているのを見て、思わず藤夜叉はその娘にこっそりと手の位置などを身振りで伝える。
座長が藤夜叉に気づき、その芸を誉めて、一差し舞ってみよと扇を渡す。藤夜叉は久々に舞を舞いながら、自分の白拍子時代、尊氏との出会いなどを回想するのだった。

 そのころ、畑の石のところに数人の武士達が押し掛け、「合戦の準備だ」と石を目代の所へ引き立てていく。目代の待つ寺の前では、村の農民達が兵士として無理矢理かり出されようとしており、石に救いを求めていた。
目代は反逆した足利を討つために村から兵20人、兵糧米40俵を徴発すると申し渡し、勝手に選んだ徴兵される農民達のリストを石に見せ、そこに石が選んだと一筆書けと強要する。

やらねば代官の首をすげ替えると脅されて、ついに石は切れる。
石は紙を破り捨て、不知哉丸が持ってきた刀を抜いて縛られていた農民達を逃がし、「わしはこの村の代官ぞ!文句があるなら首すげかえてから言え!」と目代の家来たちに刀を向ける。

 そこへ「神社に白拍子…」と楽しげに言いながら藤夜叉が走ってきた。石は「来るな!」と手を振るが、石の背後から目代の家来が石に斬りかかる。
それを見て藤夜叉は慌てて石に駆け寄る。石は寸前に気配に気づいて身をかわしたが、目代の家来がふるった刀は駆け寄ってきた藤夜叉の肩を切り裂いた。血を散らして倒れる藤夜叉。
石は激昂してその武士を斬り捨て、他の武士達は恐れて逃げ出していく。

 「藤夜叉ーっ!」と叫んで石は藤夜叉に駆け寄り、不知哉丸は「おっ母…」と呆然と見つめる。石が抱き上げるが、藤夜叉の顔はすでに出血のために青ざめていた・・・。


◇太平記のふるさと◇
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 福島県白河市。結城氏の拠点となった白川城、関川寺の結城宗広の肖像画などを紹介。小山家の分家である結城氏などが後醍醐に従った背景に本家からの独立の夢があったことを解説し、白河藩主だった松平定信が結城宗広・親光父子を讃えて作った岩壁の碑を映す。
 
0004日曜8時の名無しさん2017/04/25(火) 22:27:30.72ID:biWrZyxG
(尊氏)
南無八幡大菩薩…!
我らに御加護を!
(右馬之介以下・足利兵)
エイっ、エイっ、おおぉ〜〜〜っ!
0005日曜8時の名無しさん2017/04/27(木) 00:18:03.40ID:Us8WS8Ua
前スレ終了age
0007日曜8時の名無しさん2017/04/27(木) 07:57:49.14ID:e6fjJLZ7
いちいちあらすじテンプレにすんなよー長文ばっかでびっくりした。
0008日曜8時の名無しさん2017/04/27(木) 12:41:19.49ID:gYBqjjV/
石と藤夜叉の退場フラグ回

端役なのに中先代で死んだ岩松さんも少し前の回で1カットだけ再出果たせたのは誰か贔屓なスタッフでもいたのか…
0009日曜8時の名無しさん2017/04/27(木) 12:47:08.58ID:1m2z9qNB
ましらの石が海を渡って後醍醐天皇脱出を助けたのは
やりすぎ
0010日曜8時の名無しさん2017/04/27(木) 17:50:02.76ID:kMbjwy4J
>>8
人の良い役が多い役者さんだけど、岩松はなかなかキレ者の演技でしたね
0011日曜8時の名無しさん2017/04/27(木) 20:31:58.21ID:Us8WS8Ua
>>8
岩松って、建武政権パートで京都にいたのに、いきなり中先代で戦死だったな。
0012日曜8時の名無しさん2017/04/27(木) 23:12:20.52ID:C0j1g1T3
当たり前のようにどこにでもいる一色右馬介が怖い
0014日曜8時の名無しさん2017/04/28(金) 01:27:35.33ID:fSZgZhc/
>>13
しかも、昼の明るい時も黒装束なのがいいね。
0015日曜8時の名無しさん2017/04/28(金) 01:42:25.25ID:oYzXBzpm
忍びにしては体太くて重そうだな
0016日曜8時の名無しさん2017/04/28(金) 07:03:07.15ID:wDV0khAb
戦国時代は基本的には近隣諸国の戦いだけど
南北朝は同じ武将があっちこっちいってるからな
0021日曜8時の名無しさん2017/04/29(土) 01:39:29.60ID:WsttXEyW
>>16
ただ戦国時代の地方で起こる戦いも、16世紀の半ばくらいまでは、
明応の政変以降の将軍家の分裂・抗争に連動して発生している要素が結構あると、
最近はいわれているようだけどね。
0023日曜8時の名無しさん2017/04/30(日) 03:25:04.60ID:FLwxzFKc
>>19
放送時幼児だったが夢中で観てたよ。セル出た時高いと思いつつ即買いした位。
大人になって観て初めて内容が分かったけどねwなんか意味も分からず毎週必死で観てた。
0024日曜8時の名無しさん2017/04/30(日) 11:30:58.82ID:3Tbje858
というか自分もそうだが、ここにいる太平記ヲタの人達の大半は、幼少期にこの大河を見て、
そのときの強烈な印象が忘れられない人達なんじゃないの?
0025日曜8時の名無しさん2017/04/30(日) 13:49:20.56ID:Dh1VSoKP
>>24
いやソフト化もされて無いのが話題になってる時があるから、リアルアラカン以上も絶対居る
0026日曜8時の名無しさん2017/04/30(日) 19:32:42.66ID:evOYaSBk
>>24
大河ドラマの花形は戦国時代と言われるけれども、
初めて認知したのはこれで、「持明院統」だの「大覚寺統」だの頭に残っているだもん。
0029日曜8時の名無しさん2017/05/01(月) 01:02:31.29ID:uDQAellE
>>26
「太平記」で初めて大河の魅力にとりつかれた人間からすれば、
戦国が大河の花形という認識すらないけどね。

>>28
このスレの番号に対応させているつもりなんでしょう?
ただ>>1に貼り付けなくても、そのサイトからのコピペが>>2-3にしっかり貼られているわけで。
0030日曜8時の名無しさん2017/05/01(月) 09:56:33.36ID:jlxVF6i6
>>29
いちいちあらすじ書くよりあらすじのurlのがいいわ。ながいもん
0032日曜8時の名無しさん2017/05/01(月) 22:27:46.59ID:uDQAellE
>>30
じゃあ次スレは貴方が立てて、そうしてくれ。
そもそもこの形式のスレ立ては、元々スレ住人の了解なく誰かがフライング気味にやったのが、
何故か定着してしまっただけだし。
0033日曜8時の名無しさん2017/05/02(火) 14:08:22.25ID:VyMP+MO2
>>19
おばさんもいるで
放送当時女子高生だった
日本史の教頭が鶴ちゃんの北条高時をべた褒めしてたなー
高時が臨終間際に母上に向かっ鼓?をぽんぽん打つとこが好き「くたくたになり〜」
0034日曜8時の名無しさん2017/05/02(火) 14:56:54.75ID:+hgB0Yhh
>>32
だいたいあらすじいるか?観たファンなら全話ある方が思い出しやすくて良いと思うわ。
1話1話のあらすじ要ると思うなら1人頑張って貼れよ。もう今ので定着してんならそれで良いじゃんw
0035日曜8時の名無しさん2017/05/02(火) 19:29:28.39ID:PJfo2ig5
苦い、口が苦い
0036日曜8時の名無しさん2017/05/03(水) 12:05:41.64ID:lMz53rrn
>>34
とりあえず、そういう話は毎回のスレ立てをしている奴に言ってくれ。
そしてスレ立てに疑問があるなら、次回は自分で立ててくれ。
0037日曜8時の名無しさん2017/05/04(木) 19:00:45.71ID:hSIdyHqZ
この回だけでも
もっとじっくり3回くらいに渡ってやって欲しかった
0039日曜8時の名無しさん2017/05/04(木) 22:48:36.68ID:AC3RIu22
>>37
他にも何話かに分けて欲しいのいっぱいあるから1年じゃ終わらないw
0040日曜8時の名無しさん2017/05/05(金) 02:06:43.05ID:FTFiCkur
その手の話では、よく「大逆転」の回が蒸し返されるけど、結果的にはこれで良かったと思うよ。
0042日曜8時の名無しさん2017/05/05(金) 09:40:16.71ID:Fx2WEiDw
>>41
親に頭があがらんのも普通なのにどんだけコンプレックスの塊よって思ったなあ
0044日曜8時の名無しさん2017/05/05(金) 11:47:30.03ID:1SFnwf2U
きょうの13:00から時代劇専門チャンネルで総集編だね
0046日曜8時の名無しさん2017/05/05(金) 13:30:44.91ID:qxKEHt3h
でもさぁ得宗家て
義時ー泰時…時頼ー時宗ー貞時
スーパーな血筋すぐる。

鶴ちゃんかわいそう…
暗君じゃなくて凡君レベル程度だったんじゃね?
0047日曜8時の名無しさん2017/05/05(金) 14:32:22.30ID:1SFnwf2U
高時は病弱だったとも。
時宗もたまたま蒙古襲来時の執権だったから後世顕彰もされたが、
得宗専制を推し進めたとも、禅宗に傾倒してたとも、何とも全貌をつかみにくい。
貞時は酒飲みだったという。
古典太平記では時頼、時宗、貞時はりっぱな人だったと書く。
有名な青砥藤綱は時宗の時代の人(鎌倉の川に銭十文を落として、50文でたいまつを買わせて探させた人)。

滅んだためにダメと言われることも多いので、高時についても考慮しないと。
古典太平記では後醍醐、護良親王、新田義貞・義興はともに女色に溺れて没落したとされてるのだから。
0048日曜8時の名無しさん2017/05/05(金) 16:46:17.55ID:FTFiCkur
>>47
高時が病弱だったのは、多分事実だろう。

だだ、貞時が嘉元の乱の結果に失望して執権辞職&出家する経緯と、
高時が嘉暦の政変の結果に失望して執権辞職&出家する経緯は、よく似ており、
こうしたところは、やはり親子だと思える。
0049日曜8時の名無しさん2017/05/05(金) 21:02:14.66ID:eOXCNvf+
>>47
得宗というのは所詮、将軍の下で同列である御家人の
比較第一位の勢力である一族の宗家に過ぎないのだから
そういう中途半端な立場で並みいるライバルを抑えて
権力を維持し続けなければならないプレッシャーは半端ないだろう

そのプレッシャーが代々優秀な当主を生むとともに、その当主を
酒や女や宗教に走らせ、寿命を縮めたのだろう
0050日曜8時の名無しさん2017/05/05(金) 21:51:48.34ID:FTFiCkur
そういえば、時宗の二月騒動への対処と、貞時の嘉元の乱への対処も、やり方がよく似ている。
0052日曜8時の名無しさん2017/05/06(土) 21:08:00.09ID:J/RAs40Q
吾妻鏡が鎌倉時代の途中で終わってるからか、鎌倉後期はどうにも断片的に言われてしまってる印象。
貞時は「酒を控えなさい」と勧告された(金沢貞顕からだったかな)から、晩年は酒ばっか飲んでた〜みたいな。

鎌倉幕府の特徴はどうにも政権が不安定だったことで、
そんな時代に最高権力者だったなら、得宗当主がそんなにふぬけとも考えにくいけどねえ。
筧雅博(歴史学者)は、鎌倉幕府に「衰退期はない」「最後の30年が最盛期である」という(講談社『日本の歴史』蒙古襲来)。
幕府将軍も、最後の守邦親王は幕府滅亡まで廃位されなかったんで、鎌倉殿として最長在位なんだそうだ。
高時が得宗だったのは幕府最後の20年ほどだから、彼が病弱でも最盛期だったなら、官僚機構がよほどしっかりしてたんだろう。
長崎円喜・高資はとてもがんばっていたのかも知れないね。
円喜高綱(盛宗との説も)は平頼綱(北条時宗の八公)没落で内管領になった人だから、幕府最後の40年を支えたことになる。

女というけれど、得宗当主は意外に子供が少なかったり。
時宗の男子は貞時しか名が伝わらないというし、高時の男子も邦時と時行が知られる程度(昔だから夭折したら記録すら残らない可能性も)。
時政・義時が多産だったことを考えると、得宗家は生殖能力が衰えていたのかも知れない。
0053日曜8時の名無しさん2017/05/07(日) 12:37:16.60ID:CCZelHAz
いつが全盛期かはともかく、鎌倉幕府は明確な衰退期のないまま突然滅んだ感があるのは事実。
0054日曜8時の名無しさん2017/05/07(日) 18:20:49.99ID:snEUU/Ua
まあ、身内殺しでぐたぐた→離散一家の源氏ってある意味様式美みたいなもんだ
0055日曜8時の名無しさん2017/05/07(日) 18:56:53.59ID:pAllk/11
>>53
昔はその辺、
御家人への元寇の恩賞が大してなかったことと分割相続で社会不安が起きて鎌倉幕府が倒れるって説明だったな
今考えればモロに社会経済史史観なわけだがw
0056日曜8時の名無しさん2017/05/07(日) 20:22:54.31ID:ynIvbAcZ
南北朝対立だって、根は経済的利権をめぐる抗争だろ。
直義の貨幣経済、資本主義志向を指摘してたのは石井進だっけ。
0057日曜8時の名無しさん2017/05/07(日) 22:44:00.32ID:CCZelHAz
>>55
元寇後の社会不安といえば、霜月騒動に対する見方も、最近は一昔前とは大きく変わったよな。
0058日曜8時の名無しさん2017/05/08(月) 07:49:17.46ID:xpk0amJW
>>56
直義の貨幣経済志向って、『建武式目』に土倉保護の条文がある件とかか?
0059日曜8時の名無しさん2017/05/08(月) 21:07:55.12ID:5PHPQ5bd
鎌倉幕府はずっと内紛が続いてて、最後の最後で最大の北条氏が倒れて終わってしまった感。
「これは終わったな」という必然性、特に歴史学者が考えるような必然性を感じさせる間もなく倒壊した観。
徳川だってあれ以降も続く可能性はあったと思うんだが、足利・徳川は「一応ここが頂点」という時期があった観はあるのに、
鎌倉幕府はほぼ一貫して成長し続けた権力だったせいか、泰時・時頼のころが幕末より最盛期だったという気もしない。
だって最初期は関東ローカルの政権でしかなく、鎌倉時代いっぱいは朝廷うあ大寺社も勢力を保ってた。
幕末の足利家が所領35か所というのに、天皇家は800か所も持っていた(つまり、単体では足利は天皇に全く対抗できなかったと思われ)。

たぶん、蒙古合戦の恩賞への不満でつぶれたわけじゃないと思うんだよな。
弘安の蒙古襲来は1281で、幕府倒壊は1333なんで50年も開きがある。
筧雅博は、御家人と同じ負担をさせてるのに、御家人の身分を認めてもらえない勢力がいて、その不満が幕府倒壊の根底にあったのでは?と言う。
確かに、鎌倉幕府で偉かった人はほぼ全部が頼朝以来の功臣の末裔で、長崎氏も北条の家来だから、突然浮上したわけでもない。
恩賞への不満は、足利・徳川の時代でも考えられる。
徳川時代も、アイヌの乱、島原の乱、各地の警固(特に江戸時代後半)などで諸藩は負担が課されたが、
必ずしもそれが幕府への不満にはつながらなかったろうと思う。
古典太平記では、桃井直常が高師直に合戦の功績を無視されて怒ったって記述があるけど、
必ずしも恩賞はもらえるもんではなかったはずなので(負けたら逆に所領を取られる恐れもあった)、
北畠親房「所領安堵してやるからありがたく思え」という考えもそんなにはひどいもんではなかったんでないかと思う(無論、保証できればの話で、親房・南朝はそれができなかった)。

結果的に、鎌倉幕府がつぶれて、その余波という感じで公家も力を弱めてしまったから、「武家一統」とも言える世になって、
幕府倒壊はずいぶん歴史を進めたのだろうけど、だからって、これと言った必然性は見出しにくいのが正直な所。
0060日曜8時の名無しさん2017/05/09(火) 00:14:04.02ID:CU0Q9NIj
得宗権力の絶頂は貞時期でよいと思う。
高時も強大な権力を手にすることは十分可能だったと思われるが、
高時のキャラ的に長崎らにお委せ状態になってしまったのだろう。

>>59
別に筧氏の論に限らず、元寇以降、幕府が動員した非御家人の処遇について、
幕府自身の方針が定まらなかったというのは、日本中世史の研究においては結構常識では?
さらにいえば、これに単を発する鎌倉御家人vs新興武士の構図は、
建武政権下での尊氏と護良の対立や、観応の擾乱にも影響している。
0061日曜8時の名無しさん2017/05/09(火) 22:36:24.92ID:M65bixSw
長々と独り言を書いている奴は何なの?
0062日曜8時の名無しさん2017/05/09(火) 23:24:32.15ID:eBwiC1dM
玉ねぎの皮を剥いたらk空みたいな駄文長文
0063日曜8時の名無しさん2017/05/10(水) 00:19:42.85ID:rtu3Codz
偶々ある歴史学者の本を読んだ奴が、その説にどっぷり漬かって分かった気になって、
得意気に書いている感じかな?
このスレではよくあること。
0064日曜8時の名無しさん2017/05/10(水) 13:35:18.27ID:3AHzaTDZ
wikiっ子、付け焼刃っ子、んなこと聞いてねえんだがっ子、そして三河屋
この時代ってあんまり知られてないからドラマが面白かったから「ぼくのしってるあしかがかんけい」を披露したいんだよ。

三河屋は別か
0066日曜8時の名無しさん2017/05/10(水) 16:17:46.62ID:2sZgpm+y
三河屋だとわかったらもう反射的にNG指定するようになったわw
0067日曜8時の名無しさん2017/05/10(水) 22:18:04.97ID:GGoCEnLT
>>53
政子が全盛期
0069日曜8時の名無しさん2017/05/11(木) 07:20:46.95ID:ixKxCfWf
でもさ宮方も勝てるチャンスは何回もあったよね
@九州落ちの時にさっさと追撃する
A湊川の時に楠木正成の献策に従う
B新田義貞と北畠顕家が青野原の後に合流する
C正平一統の後余計な波風を立てずに尊氏が鎌倉で幕府を開くのを追認する
みたいな

でもそもそもそれ以前の問題で後醍醐天皇が大塔宮を皇太子に指名してれば何の問題も無さそう
阿野廉子も大塔宮の生母も別に身分に差があるわけでもないし
0070日曜8時の名無しさん2017/05/11(木) 13:55:02.96ID:oPbC7tsK
でもそもそもそれ以前の問題で後醍醐天皇が大塔宮を皇太子に指名してれば何の問題も無さそう

落ち着きのない後醍醐さんに無理を言うなw
0071日曜8時の名無しさん2017/05/11(木) 15:51:01.94ID:+LnlAvuw
いったん仏門に入った者が還俗して帝位を継いだ例は、平安期以降の先例にないから難しいよ。
もし仮にそれをやれば、“また後醍醐の先例無視”ということで、
本来天皇を支えるべき公家社会から、後醍醐がますます孤立するw
0072日曜8時の名無しさん2017/05/11(木) 17:17:43.67ID:ixKxCfWf
>>71
平安期以降は無くても大海人皇子っていうクソメジャーな先例はあるんだよなあ
あと奈良期の称徳天皇とこちらは悪例だけど立太子の例としては早良親王がある
それに功績は抜群だしね
0073日曜8時の名無しさん2017/05/11(木) 20:36:31.52ID:2gvKJfgV
最大のチャンスは中先代のときの三方挟撃だと思う

竹ノ下先に抑えて守ってれば北から顕家が来るし
東山道からも部隊が突入するまさに必勝の陣
0074日曜8時の名無しさん2017/05/11(木) 21:09:23.87ID:ixKxCfWf
でもさこの時代人気が無いのがわかるわ
尊氏は言わずと知れた躁鬱病だし
自分の息子に後継がせる為に、右腕の同母弟も
一番の忠臣も両方ともバッサリ切り捨てるし
後醍醐天皇は大塔宮は言わずもがな
阿野廉子との間の子供でさえあっさり見捨ててるし
自分の子供も含めて自分以外全員コマってのが露骨過ぎる
両方とも精神の構造が他と違いすぎるんだよな
精神破綻者(後醍醐天皇)vs精神病患者(尊氏)の争いなんて
そりゃ後世の常人から見たら理解出来るわけない
0075日曜8時の名無しさん2017/05/11(木) 21:59:05.78ID:QUqe+pfE
>>69
1番と2番は、可能性がある。
3番は、プライドの為に実現不可能。
4番は、勝つどころか、完全に白旗。
0076日曜8時の名無しさん2017/05/11(木) 22:11:19.29ID:2gvKJfgV
この時代戦前は大人気だった
歴史小説家というか司馬遼太郎が戦前とのからみで嫌っただけだと思う
更に戦前とのからみで下手なことを書くとマジで脅迫が来た

ネタ切れで謎大河やるくらいなら
北条時行とか北畠顕家とか佐々木道誉とか楠木正成とか
いくらでもやってほしい奴がいる
0077日曜8時の名無しさん2017/05/11(木) 22:46:50.29ID:v2SIPSEL
還俗した宮が皇太子になれない訳では無いんだから、後醍醐天皇は上皇になって権力を掌握したかったんでしょ。机上の空論の理想を実現する為に。
大塔の宮はカリスマ性も行動力もあるから後醍醐天皇の傀儡にはならんだろうから、まだ子供の宮を帝位に付けたかったんじゃね?
後醍醐天皇さん自分勝手だもんw
0079日曜8時の名無しさん2017/05/11(木) 23:36:52.90ID:yxJAo9NY
>>74
>尊氏は言わずと知れた躁鬱病だし

無知丸出し
バカさらけ出し
の軽薄なコメだな
0080日曜8時の名無しさん2017/05/12(金) 07:22:05.41ID:Jm5CZyLR
>>72
一般に中世・近世の公家社会で「先例」と見なされ得るのは、平安期以降の先例なんだけどね。

>>77
おいおい後醍醐は院政否定派だろう?
平安中期以降の摂関政治・院政・幕府をすべて否定して、
天皇に全権力を集中させる独裁政治が後醍醐の政治思想の根幹なわけで。

実際後醍醐は、最終的に跡継ぎにした後村上に対しても、
かなり臨終間際になるまで譲国の儀を行っていない。
0081日曜8時の名無しさん2017/05/12(金) 21:20:19.38ID:8heR22im
真田さんは演技がうまかったなあ
最近の学芸会とはレベルが違った
0082日曜8時の名無しさん2017/05/12(金) 22:29:25.43ID:TDbhwfwk
>真田さん

さん付けだとどうしてもヤマトの方が浮かんできてしまうw
そういや実写版では石だったな
0083日曜8時の名無しさん2017/05/12(金) 22:51:22.24ID:RmrKIsUp
>>81
4、5歳から子役やってたし、中学上がって親が引退させたら自分でJACに入ってた位子供の時から俳優しか考えて無かったってインタビュー読んだ。
それでも日本舞踊の名取になって空手黒帯取って、大学では殺陣同好会やってストレートで卒業(この頃既にアイドルスター)して修士取ってんだからバケモンだ。
0084日曜8時の名無しさん2017/05/12(金) 23:31:49.14ID:XsONqND5
>>76
司馬がとりあげなかったからってのは屁理屈だと思うぞ

人物が入り乱れて
東北から九州まで兵乱が動き
都をとったのとられたの、回復したのまた後退したの
勢力内での内訌に親子兄弟分かれての争いも勃発し
・・・の複雑さもあるだろ
0085日曜8時の名無しさん2017/05/12(金) 23:54:05.25ID:GVOu8tib
碑文谷バラバラ殺人事件って、覚えてる・・・?
小池百合子と鳥越が争った都知事選挙の直前に発生した

犯人は長期の引きこもりニートのはずなのに、腕のけんすいだけでマンション外壁を三階まで
よじ登って侵入したというあの事件

どうやらガチの対日工作員だったらしく、パチンコ利権から完全な報道統制が敷かれたらしい
http://hayabusa8.2ch.net/test/read.cgi/news/1469615198/137-
https://www.youtube.com/watch?v=YEGNqOkpPP8
0086日曜8時の名無しさん2017/05/13(土) 00:06:08.55ID:EnVMHkIu
司馬談話 「南北朝などは、人間が醜くて小説にならないんですよ」←軽薄な歴史感
「皇国史観があってめんどくさいんですそれに長いし調べるだけで嫌になる」←逃亡w

よって売れ線狙いの戦国幕末好きの流行り作家だった
0087日曜8時の名無しさん2017/05/13(土) 03:21:15.82ID:8mnmqZeh
司馬が南北朝を避けていたのは、結局のところそれが、
歴史小説家としての司馬の限界ということなのでしょう。
0088日曜8時の名無しさん2017/05/13(土) 11:03:41.66ID:V1klIE+6
南北朝時代は北畠に限らず掠奪が当たり前なので
まともに描くとドン引きなことだらけなんだろう
仕方がないよ

戦国はカオスと言いながら領国統治のこと考えれば安易な掠奪はできない
0089日曜8時の名無しさん2017/05/13(土) 12:15:32.81ID:8mnmqZeh
上杉謙信のように、毎年略奪ツアーをやっている大名もいたけどね。
0090日曜8時の名無しさん2017/05/13(土) 19:05:06.06ID:EnVMHkIu
>>89
だな
総大将から足軽大将・雑兵まで戦国時代も略奪・強姦・奴隷狩り・殺生が頻繁に行われた
禁止令なんて絵に描いた餅で大名も暗黙状態

戦国は略奪なしなんて戦国が美化され洗脳されたヤツの戯言
0092日曜8時の名無しさん2017/05/13(土) 22:40:04.78ID:DCzWy9lt
>>86
司馬遼太郎キュンが逃げたのは、南北朝に踏み込めば三河を語る必要があるからだろう
すると、何で濃尾三州記で三河と足利一族を語らなかったんだと詰問されてしまう
特に、直線距離でたった5キロの細川郷の細川氏と松平郷の松平氏は、セットで語る必要価値があるにも関わらず、遼太郎キュンは意図して避けた


所詮、遼太郎キュンも自分の願望が優先する小説家だわな
0093日曜8時の名無しさん2017/05/13(土) 22:46:03.89ID:DCzWy9lt
>>68
マサコちゃんの意思を代弁する男こと安達景盛の補足説明はいるかい?


頼朝やその息子孫がいなくなって、政子が頼りにしたのは三河で繋がる人々だったのは明白だろう、政子の葬儀奉行は三河守護の足利義氏だった


金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)

・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める


・源実朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝

・葛山景倫(願性)
藤原実範(三河守)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)

・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)

・足利義氏
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護)
0094日曜8時の名無しさん2017/05/14(日) 00:30:41.66ID:E6Mv+lom
>>92
>所詮、遼太郎キュンも自分の願望が優先する小説家だわな

所詮、三河バカも自分の捏造が暴走する妄想家だわな
0096日曜8時の名無しさん2017/05/14(日) 15:12:24.45ID:2VznhTur
三河…さんてまだご健在だったんですね。そっちに驚きました
0097日曜8時の名無しさん2017/05/15(月) 07:36:15.61ID:5RdgEz5J
三河屋ってジジイなの?ならコテの付け方が分からんのも納得
0098日曜8時の名無しさん2017/05/15(月) 20:53:34.30ID:dhWiFAfo
なんでも三河に絡ませないと気がすまないあの執念深さは三国人に通じるものがある
0099日曜8時の名無しさん2017/05/15(月) 22:36:22.51ID:p3oJqwTd
なんでもってw
源頼朝と足利尊氏以外に偉人はいないのか?
一貫して、鎌倉将軍家と足利将軍家の話しかしていないだろうが
0100日曜8時の名無しさん2017/05/16(火) 00:43:56.10ID:6WrZuU/e
たまに徳川将軍家の話も出してくるかな。
もっとも“日本の歴史は三河が作った”という例の論法には変わりないがw
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