【2012年大河ドラマ】平清盛 Part179©2ch.net
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銀河義経4−平家関係は清盛があっさり出家。義経周りは相当なファンタジー回。
山門、寺門の対立はどの時点のことかはさておき、都合よく罪をなすりつけられた弁慶が(それで解決するような大物だったの?)
比叡山を去り、いよいよ五条大橋で義経と運命の出会いを果たす。
坊主たちの手打ちに従った対応をしただけの平家をなぜそんなに憎むのか、いささか疑問となるが、伝統的な弁慶が誕生した。
他方、源氏サイドから見た平安末期の証言者の役割をもたされた清盛の弁慶は、なにしろこの時点で亡きダメ義さんファンクラブ会長。
常盤の庇護者であり義経誕生にも立ち会い、両者は既に因縁の間柄にある。弁慶の平家嫌いは、一つは源氏贔屓の裏返し、もう一つは
禿を使った平家の強圧政治に怒りを募らせたことに起因しており、より具体的で説得力をもつ。
清盛の大病・出家を扱った回が、現在と過去、記憶と無意識とが往還する、全話中もっとも難解で芸術的香気漂う「白河院の伝言」回。
ドラマ上、ここで死にかけたことが清盛の人生を前後に二分する一大画期となった重要回で、よくある中間的な回想回ではない
(「あなた様を超えてみせまする」と改めて白河に宣言し、残りの人生を突っ走り始める)。
既出以外では、もはや清盛抜きには物事が決まらなくなった京の政界の面子、遠く伊豆で平家の隆盛に脅える頼朝以下の面子たちに、
清盛危篤の衝撃がグラデーションのように伝わり、それぞれの思惑と複雑な感情を抱えた人々が、各人各様のリアクションを示すあたりも面白い
(後白河が駆けつけたのは史実。宿敵でも清盛なしには高倉庇護が叶わなくなってしまう。一門の動揺を抑え結束を訴えるしっかり者時子.。
早くも万一の場合に備えて宗盛を誑し込む時忠。ざまあみろの西光。諦めモードで「昨日も今日も明日も同じ」と自嘲する頼朝。
恩がありながら源氏の魂を忘れられない頼政は隙ができたのではと複雑な表情。) プライド捨てて頑張る落ち目の為義に入れ込んだ弁慶が
巡り巡って九郎義経股肱の臣となる
元祖判官贔屓ってことだね 帰って今日やった31話を久々確認したら、音戸の瀬戸構想は清盛自身の口から出ていた(五十の宴での兼実に先んじて)。
京の近くに博多をもってくるヒントを与えた兎丸が、本気の清盛に「どこにそんな港あるんや」→「作ればよい」。
「あのなーこの辺の瀬戸めっちゃ狭いねん。唐船みたいなもん通れるか」→「広げれば良い」→「おもろい、ええやないか、やれやれ」。
また、蓮華王院献上もちゃんと画像つきでやっていた。ナレ朝「清盛は千体の千手観音像を奉安する御堂を献上した。蓮華王院と呼ばれる
その御堂はそれは華麗なもので、後白河院は狂喜乱舞なさった」。
この挿入がまた恐ろしく巧みで、清盛と兎丸のイケイケドンドンに例によって困難な現実を訴える四角四面重盛→清盛「わかってるよ、まあ見てろ」
→息子二条帝から疎外されてムシャクシャのゴッシーに、緩衝役滋子を通じて面会→御堂をプレゼント→そのバーターが重盛参議昇進
という流れ。
つまり、万事先例の公卿方が許すわけないでしょ、と冷や水をかけた重盛を、じゃあお前が公卿になって働いてこいと送り出すために
後白河を篭絡すべく用いられた手練手管が、このドラマにおける蓮華王院献上であった(ムシャクシャして後白河は仏門に帰依していたと直前にナレ)。
ホント、誰もまともに扱ったことのない平治の乱後の地味な政治過程を、ただ史実を並べてお勉強大河とするのではなく(この辺りお勉強にも最適)、
このようにスラスラと因果が流れる巧みなストーリーラインに整えていく様には唖然としてしまう。 そんで寝る前に視聴率調べてみたら、アララ世界に冠たる7・8%!!!
伊豆の話もむちゃおもろかったのにさ。
ああ無常、ああ無情、おやぬみなさいませ。、::: 「仏の御心により少しでも上皇様が心安くなられますよう」
鳥羽院は崩れるように膝まずき、縋るように観音像を拝んだ(忠盛からの得長寿院献上を受けて)。
「治天の君と崇められてもなお鳥羽院は白河院の呪縛から逃れられずにいる。
忠盛はそんな鳥羽院の心の隙に入り込み、しっかりと支えることで活躍の場を広げた」(ナレ朝→殿上人へ)。
清盛の蓮華王院献上は父忠盛の戦術を踏襲したもので、作劇上も対となっているのがわかる
(前者のロケ映像は実は三十三間堂の観音様たち)。
祖父白河の呪縛に苛まされた鳥羽は仏に縋り、鳥羽の子後白河はその子二条から疎外されて仏に縋り、
平氏忠盛の子清盛は父に学んでそうした治天後白河の心の隙を突き、狙い通りの具体的な対価(重盛公卿)を獲た。
かくして歴史は繰り返しそして進んでゆく。
対比、アナロジー、リフレイン、暗喩、パラドックス、アイロニー・・・なくして大河平清盛はなかった。。。 蔑ろにした「子」崇徳に詫びるため、鳥羽は長者窮子「説是我子」を心を込めて写経して和解を求めたものの、
崇徳は無表情でビリビリとこれを破り捨ててしまう。
しかし、憎き(「謀りおったななりこぉー」)美福門院の真摯で心を込めた勧めにほだされたのか、崇徳は最後の最後の段階で
危篤の鳥羽のもとへ参上し面会を求めた。
ところが時すでに遅し。面会を拒絶された崇徳は、最後に年長の「甥」に対し「チチウエ」と呼びかけてその場を去り、悪左府と合流した。
保元の乱の勃発である。
時は移り、長者窮子を読む仏道に帰依したゴッシー。しかし、「説是我子」のくだりでプッツンして経典を叩き落としてしてしまった。
「おもしろうない。経典を読めば読むほど、あのような親不幸者が国の頂に立ち、政をおこなっておるなど許しがたい!」
これもリフレインとなっている場面だが、それぞれの親子のあり様はずいぶん異なり、後者の親子は最後までいっさい心を通わせないまま
終わってしまった。
後白河は息子の「親不孝」に腹を立てたけれども、ならば自分は少しでも父親らしいことを息子にしてあげただろうか?
まして、統治者意識が旺盛で真摯に政治に向かった「末代の賢帝」二条からすれば、「上皇様に政をとらせてはならぬ」と
退けられても仕方ない自分勝手なゴッシーなのであった。我が子を想う仏教説話を読みながら、自分を棚にあげて親不幸を詰るなど
とんでもない父親だw
大河清盛は、親子の愛憎もテーマの一つとして掘り下げていたが、現代の価値観では理解できないような親子関係の「希薄さ」
についても考えさせられる作品であった。その代表例が後白河×二条の異常な父子関係で、清盛×重盛も、正直のところ
清盛が重盛のことを親としてどう考えてどう遇しようとしていたのかよくわからないところがあった(重盛を重用し頼みにした一方で、
頭ごなしに事を進め傷つけるつれない父親)。
どうも歴史上の清盛もドラマの清盛も、最愛明子腹重盛と主流時子腹の息子たちとの間で日和っていたように見える。 余命を悟った二条天皇の遺言、つまり一番言い遺しておきたい事が
悲壮感漂わせて放った「父後白河を政治から排除せよ」だったことには心が痛む
生まれたばかりの六条に急ぎ譲位することで二条は後白河の院政復活を阻止しようとした
しかもそれは父への怨みや皇統承継以上に、信西が評したところの「比類なきボンクラ」
に政治を委ねてはならないとする為政者二条最後の使命感から発したものだった
歴史にifを持ち込むと、この賢帝が長生きして親政が続いていたらその後の歴史は
随分異なった展開となったに違いない。清盛の政権奪取戦略も変わって行っただろう
それにしても、早死にした息子の弔問に鉦・太鼓を乱打する悪僧どもを引き連れて
現れるとはゴッシーさんよあなた様は一体・・・流石にこの部分は創作だが
ホントにやりかねないところが酷薄さで鳴らした変人後白河の真骨頂でもある そしてこのトンデモパーフォマンスのアナロジーを探せば、誰もが雅仁元服式のときの
白拍子ダンサーズを引き連れてセルフコーディネートした平安パンクロックコンサート
を直ちに思い出す
ただしこれらもはただ漠然と変わった奴ゴッシーを面白おかしく映像化したのではなく
高橋教授が引用し(棚橋)強調する後白河の一大特徴を描写するためのものである
超重要ゆえ再度紹介する(以下で言うとバロック的パーフォマンス)
「政争の修羅場において酷薄と謀略、行動において遍歴と漂泊、神出鬼没。
気質において癇症と躁性。芸道精進において真摯と偏執、美意識において
新奇とバロックを本領とした」
ゴッシー描写のあれこれを思い出せば、これらの本領を活写したシーンが画面から
飛び出してきそうな錯覚を覚える視聴者も多いことだろう どう見ても地でエキセントリックな松田翔太はまんま適役だった
立派威厳を尽くした滝澤御大はあくまでも滝澤後白河として敬意を払うべき
平幹二朗後白河はとっても良かったが翔太後白河を引き継いだ「日本一の大天狗」
と位置づけるのが相応しい 上の感想にあるようにみんな良い人的世界は苦手のはずなんだけど
そして一つ一つのピースは都合よく上手く出来すぎてチョイ臭いのだけれども
ツッコミしようと探せばかなりあるのだけれど
全部合わせると築山事件が家康周りのみならず直虎が井伊谷で積み重ねてきた人間模様
さらに駿河今川館での出来事まで総括した到達点となっていたところが凄い
抵抗感覚えつつも森下さんの統合能力にねじ伏せられてしまい、素直じゃない?感動体験
をいたしやした わ誤爆すんません。ついでに藤本天才、森下秀才と俺は呼んでる。
オツムが素晴らしく切れる女性はステキ ハアト よくよくめでたく舞ふものは 巫 小楢葉 車の筒とかや
やちくま 侏儒舞 手傀儡 花の園には蝶 小鳥 〜〜〜
雅仁・・・・・・!!! >>509
カタカナ語のセンスがダサい。
院がお嘆きだわ。 朝ドラ100作記念のPに磯p!
大河清盛で証明し高い評価を受けた辣腕を発揮して
侃侃諤諤の論争を巻き起こす挑戦作を作ってくれ!
白い粉は朝ドラにはいらないけどw 名前しか知らんw売れっ子なんだな。今の朝ドラに出てた派手な外人顔の美人が姉ちゃんか。
しかし100作目のメモリアル朝ドラを仕切るとは磯P出世したもんだ。
NHK内部での清盛の評価は最高だったから、サプライズでも何でもないがね。
反日磯がーチョン磯がー王家磯がーやってた連中は、終了後も左遷だ何だ中傷していたが
その後もバリバリ仕事してた(チーフ柴田、現大河チーフ渡辺などの演出家も)。
藤本はその後もNHKが最も信頼し重要作品に起用し続けるエースの一人(専属エース)
俳優もマツケン除いて大半がその後ステップ、ジャンプ。特に当時駆け出しだった若手俳優の
活躍ぶりには目を見張る。そのマツケンも映画や舞台で高い評価を受けており、来期は
民放の深キョンドラマにダブル主演が決まっている。落ちぶれてなんかまったくない
(あの難役清盛をやり遂げて干されたままという不条理はさすがになかった)。
さらにCS再放送の盛り上がりを見ても「平清盛は失敗作で評価が低く人気もない」
との言い種はもはや通用しない。
何が言いたいかというと、磯Pとすずちゃん応援するためNHKさま再放送お願いします頼んます、
ちゃんと受信料払ってますからw >>518
名作昼ドラ「明日の光をつかめ」を見ろ。
広瀬アリスの良さが分かる。 いやわろてんか最初のほう何話か見て今でもたまに夜ドラ見る
おてんちゃんより美人やなーって見惚れてたよ。しかも結構お上手でしょ。
ちなみに朝ドラにマジになることはないので陳腐だ何だボロクソらしいが
見た時はおもろいじゃんといつも思うぞw
対するすずちゃんは顔と名前がまだ一致しないすんません
磯&すずちゃん朝ドラはおばちゃんたち並みに眦吊り上げて見るぞ!w 義経ツイッターを覗くと中身の話よりも
おばさまたちのタッキータッキーステキ!
一方マツケンステキなんて聞いたことがないw
マツケン良くやったが客を呼び込む主演力はタッキーに敵わないかも・・
しかしタッキーの「新しい国」って、どういう人生経験からそんな遠大な構想が
生まれたんだろ
耽美的な五条大橋の決闘はよりリアルな神木青木と甲乙つけがたい
あと前回鳥羽を白河の「子」と言ったような
また女たちの平家にしては滋子がやはり弱すぎる
偽髭切の件は流人頼朝の描き方を正反対のものとした。初めから虎視眈々
清盛平家への報復を狙っていた頼朝に、長く無気力なスローライフを送る頼朝。
どちらが史実よりかと言えば清盛の方だが、義経の頼朝も十分成り立つ >>522
そう思っているのはおまえだけお前だけ!(笑) ん?
忠盛パパの前世というか後世というか頼朝さんダメ?
孤独なスローライフの中で支援者たちと交わり、徐々にネットワークを広げることで
後の頼朝の人間形成がなされていったのだと思う。
清盛への復讐心を常に心に秘めた頼朝というのは、流人頼朝を反映したものとはいえず、
挙兵は流人生活最終段階での各種情勢に動かされたものだろう。
もっとも岡田マ頼朝は、千鶴丸の悲劇に遭遇したこともあり、孤独をさらに進めて
人生を諦めた廃人のような有り様となってしまい、この点はドラマが誇張したものだろう
(ただ当初は、心穏やかに父母たちを弔い京を懐かしむ京のシティボーイにして貴種頼朝
であり、蝕まれていたわけではない)。
また、頼朝を囲む支援者とのネットワーク形成については、三浦佐々木など登場させて
狭い範囲におけるサークルを描いていたものの、頼朝がそこに入っていくことはなく、
彼らはあくまでも義朝を懐かしむ東国武者止まりであった。
頼朝大河をやるならば、この辺りをさらに充実させて描く必要がある。 滝沢と松ケンに共通するのは
頭がバカで使い道がないってことだよな うむ、まず役の難度が桁違いであった。
義経は、ピュアに演ずる若手はタッキーしかいないということで選ばれたようだ。
基本的に一つの義経をキレイに演じていた。上手くなくても、制作側からの期待はああいう義経なんでないの?
マツケンはクドくなるので略。
確かに言えることは、清盛は、憑依型カメレオン型俳優にしか演ずることのできない役であった。
マツケンは直感派で、杏のようにあれこれ勉強して役作りするタイプではない。本人が述べたように
台本だけに集中したとのこと。今年の浅丘ルリ子や尾野真千子もそういうタイプのようだ。
どちらが優れているとかはない。 >>474
それは不勉強の言い訳のようにも聞こえるな。
演じる人物や時代背景に興味を持って掘り下げていく
杏ちゃんタイプの方が長い目で見たら大成すると思いたい。
朝ドラは黒田家三人衆がワチャワチャやってるだけでも楽しい。 ごめん。レス番間違えた。>>528 は >>527へ。 いわば原典主義だね。美術批評におけるイコノロジー分析の賛否。スコア聖書主義の指揮者に行間を読みアレンジまでしてしまう指揮者。
作者の意図を離れてテクストをモノと見做して構造分析すべしとする文学批評の方法論争等々、いろんな場面で顔を出す対立だ。
社会的・文化的背景まで踏み込んで台本というテクストを解釈するか否かと、役者が勉強家かそうではないかとは別次元の話だろう。
外部からの余計な情報を遮断して、台本を徹底的に読み込むことで、内側から人物イメージやストーリーの構成、流れを掴んでいく。
こちらも立派な役作りに対する姿勢となりうるよ。台本もろくすっぽ読まずに適当に演ずるのとはまったく異なる。
まあ、二者択一の問題ではないと思うが、余計な外部情報が台本の内部構造に対する整合的な理解を歪めるということもありうるだろうし、
歴史的文脈に対する理解があって初めて台本の真意を掴めることもあるだろう。このような意味で優劣はつけられないと述べた。 都市伝説っぽい話ながら
セリフ覚えずに現れカンペ見ながら圧巻の演技をしてしまう
丹波哲郎のような人もいる 勝新太郎のようなのめり込み方をする松ケンも見たかったな。
彼のドラマづくりで特に目立つのが、特異なカット割り。 ストーリー同様、キャラもギチギチに組み立てられているので、俳優の自由度は少ないよ。
勝新なら、その場で好き勝手変えてアドリブしまくっても、誰も文句言えなかったかもしれないけどw >>530
スコア聖書主義がなんなんか知らないけど
単純な中身をこれだけわかりにくく長く書ける才能には脱帽 大河板でトスカニーニvsフルトヴェングラー とか書くのはNGでしょ。ドイツ後期ロマン主義のプリズムを通さない原ベートーベン
(もっともトスカニーニがよりベートーベンのスコアと様式に忠実だというのは、古楽器勢の台頭によりとっくの昔に過去のもの)。
ちょうど500年前ということで盛り上がっている、ルターさんの「聖書へ帰れ」を念頭に入れたものだ(教会の教えを媒介としない)。
また荻生徂徠は、朱子学という「粉飾」を取り去って、古の聖典に書かれた中国の聖人の教えに直接立ち戻れと説いた。
つまりここでは、役者が役作りするにあたって、さまざまなコンテクストよりもオリジナルな原典=台本を何よりも重視して
解釈根拠とすべしとする姿勢の比喩。長いどころか長く書けないので舌足らずとなってしまった。
で、おたくはこの「単純な問題」をどう考えてるの?俺は日和見ぎみに正解はないと書いた。
すまんが寝るのでよかったら書いといて。役者のタイプ論として結構興味深い問題でしょ。 >>533
勝新太郎は好き勝手というより、作り込んだ上で、完全に役に入り込んで区別がつかなくなる(狭い意味での役者バカ)という流れでドラマを組む。
そして、役者バカの自身を、これまた監督バカの勝新が観てやっている。
役の上で必然的に出てくるものを細かく淡々となして、決して無茶なことはしない。 松ケンは単に頭わるいボンクラ
勝新のような芸もないしな
台本読んで分からなかったんで
マンガの顔真似したとか言ってたな マツケンは初期の外見(太り気味、極端な汚しーこれは演出)が問題ありだったのと、
もう一つ発声がイマイチだった気がする。
しかし何度も言うように、トータルでこの清盛を演じきれる俳優は、おそらく彼以外にほとんどいない。
のめり込んだ、なり切ったといった表現は自分にはよくわからないけど(演ずる役を客観的に
突き放して眺めることも必要だろうし)、変わらぬ清盛と変わっていった清盛に対する理解は
高い水準に達していたと思う。この清盛像に対してマツケンは、時代背景や人物像について
資料を博捜して学ぶよりも、台本読み一本から直感的に掴んでいくアプローチをとったようだ、
というのが直近の話題。
勝新と比べるのは畏れ多いが、天才棋士役でも言われたように、マツケンは「のめり込む」
タイプではないだろうか。
一方、パパ盛が担当する青年頼朝の入りは、サラ飯のナレみたいな声とノリで楽しい。
しかし、都人にして孤独な貴種という流人頼朝像からは、好評とは言えなかった岡田マは
自分にはよりらしく見える。もっとも、その後挙兵し鎌倉殿となっていくにつれ、パパ盛の方が
よりらしい頼朝となっていく。野生児政子によって生命力を注入された以降、どんどん精悍さを
増していった岡田マであったが(逆に杏政子はグッと落ち着きを増していく)、線の細さは否めなかった。
でも最後まで良くやったと思う。 サラメシって、女経営者、女社長って出てくるかな?
俺が見た限りない。
たまに極端に偏食の男サラリーマンがいるくらい。 でアホウヨ運営にスカスカババアども、中には双方を兼務する成れの果てもいらっしゃいますが(爆
いじけて泣きべそ、恨み辛みばかり晒してないで、たまには再び、大河の清盛でわろてんか!
お笑い振り撒いてくれよ!
・時代考証デタラメ、歴史無視の捏造ファンタジーー他大河のトンデモは目に入らなくても、
歴史と人物の核心に迫り、あるいはストーリーの論理展開上に現れたエア矢、ホモ、歌もどき、一騎討ち
怨霊、巻き毛は許せない
・無意味で下らない史上最低オリキャラ兎丸ー海賊討伐すら捏造と言い出す始末なので、海賊家人化が
その後の平家にもたらした意味の理解なんぞ夢のまた夢
・(かと思えば)史実を並べることで精一杯の年表大河ー確かに昔は良かったーは俗説を並べて因果連関を
欠く場合が多いが・・
・海賊王がーの漫画パクリ大河ー海賊王の2秒でオツムがパンク。以来オウムのように鳴き続けるのみ
・王家がー、汚盛がー、さらに塵一つ落ちてない王朝絵巻さながらの平安京を行き倒れの病者貧者と埃で汚して
貶めた反日大河ーいやいや古の日本の歴史と文化とそれらを担った人々への愛に満ちていました
・季節感一切無しー平治の乱での雪、鹿ケ谷での蝉・・・
・合戦がショボいー平安の戦いは戦国のそれでもましてや近代戦ではないんですけどぉ
・歴史に無知なためどうでも良い小ネタのシークエンスで誤魔化したーこんなに質量共に歴史情報豊かで
論理的に構造化された大河が他にどこにあるねん?
・真の歴史好きとコアな大河ヲタを激怒させた虚仮威しのサブカル大河ークオリティ高すぎる「王道大河」
ですんませんでした
・清盛と平氏に関心ないので???朝廷昼ドラに逃げたー確かに鳥羽たまなり劇場には魅力されましたけどさ
・線で歴史を繋げることが出来ずすべてが点のチマチマ大河???ー一言で言えばタテヨコ「リンクの鬼大河」ですた
・主人公良い人ヨイショで小さくまとめた小河???ーお点前が生きた平清盛の一生眩いばかりのダイナミックレンジ
でござりますby西行
・登場人物がたちが感情だけで動く女脚本???ードラマを動かしたのは歴史の動態そのものでした
・奇を衒った清盛と頼朝で大失敗ー無頼ではなくお行儀の良い清盛、孤独なシティボーイではなく、
娘御とイチャイチャしつつ復讐心満々の頼朝が「正統」なんだって!
・とってつけた常盤側室話ー脱線恋バナしかオツムにないため、本質のみをむんずと掴み出した描写を腐す一方で、
同じ口でルソン助左衛門と真田十勇士の凄まじくとってつけた顔見世出演なんかを礼賛
・時代劇なのに身分の違いを完全無視ー「身分外」兎丸のタメ口は許せないが、武家の娘きりのタメ口は「斬新」
・女のくせして女性描写がなってない特に時子ーミタニンのきり梅松稲春スゲーには分かるまい
・真田丸は真摯に歴史と向き合ったギリギリの緊張感があったが、清盛はそんな緊張感はゼロー痛快真逆言説!
・役者が若すぎる。学芸会ー役者が年寄りすぎるとたまには他大河に物申してくらはい
まだまだあったヨロシク!さすがにスイーツ、戦は嫌じゃ、主人公美化といった「昨今の大河はー」
に不可欠のお気楽批判はなかったと言いたいところが、結構あったんですよこれが(苦笑。 義経でそれこそとってつけたように経ケ島人柱拒絶伝説が出てきた(「工事遅れてます。人柱立てますか?
バカヤロウそんなもんいらん」)
義経大河なので悪くはないが、清盛では、長年に及ぶ盟友兎丸との交流、決別と兎丸の無残な死、
そして功労者兎丸への供養ーこうした息の長いドラマ展開の終点にこの著名エピが巧みに摂取されていた
(「人柱を立てずとも兎丸の名を刻んだ経文を書いた石を沈めれば良い。兎丸の志と共に」)。
偽髭切創作エピも悪くない。ただ、頼朝は初めから心の奥底で復讐を誓っていたというのでは、池禅尼が浮かばれない
(上西門院殿上始めの際に、目の前の清盛に圧倒された中川頼朝のような経験をもたない池松頼朝が、
渡頼朝を恐れなかったことは理解できるが)。
さらに、仮に頼朝の心に期するものがあったとしても、それは清盛平家への一方通行にすぎず、
絶頂期にあった平家の公達たちが、清盛を騙した事実を知って挙兵の10年以上も前から強い警戒心を抱き、
加えて存在すら忘れていそうな都の義経の動向にもピリピリし始めたという創作は、義経主人公ならではの
「あり得ない平家物語」だろう。
そういう無理はあっても、どうしても必要な清盛平家ー頼朝ー義経の関係性を導くためのエピとして、
偽髭切の創作は理解できる。 劇場には魅力→劇場には魅惑
渡頼朝→渡清盛
他に
・終盤迷走してやる気をなくして回想を垂れ流すだけとなったーうむ49話は回想で清盛の人生を
振り返ることでドラマは起承転結の結に入った(「清盛物語」は清盛の肉体的死では終わらない。
それが最終回)。しかも、後白河との「最後の双六」はいよいよ平安の終わりが近づいたことを告げ、
しかも、そのことは頼朝との決戦の時がついに訪れたことを意味した点で、助命回いや殿上闇討ち回
にまで因果をもつ源平物語をさらに先に進める回想だった(回顧即展望)。
・ペース配分をしくじり、因果応報、輪廻転生の世界観を打ち出せないまま終わったー躍動する平安、
未来への礎を築いた清盛をコンセプトとする清盛でやりたかったのは、平家物語的仏教思想だったのか???
・とっちらかった挙句、最終回はジャンプの打ち切りpgr(おんなネトウヨ)ー○○先生助けてえー
・自分探しがないと話し作れないのは二流。武士の世?何をトンチキな目標をpgrー冬眠した清盛が
起きたらそこには武士の世の世界が広がっていたのだそうです
・情念のドラマ?昔の信玄を見習ったらpgrー別に義信を殺したように重盛を殺してませんがね >>536
役者論としては興味深いが
いちいち知識ふりかざして長々書かなきゃ気が済まんのかね
クラシック好きの高校生程度の知識はあるらしいが知性は感じられん
例えはわかりやすくするためのものなのに
誤用かも知れんが引喩失義の典型 >> 548
まあまあわたしゃクラヲタ高校生ですので、高校生に噛んで含めるようなご見識をご教授くださいよ。
もしかしてルター派の主張も古文辞学派もフルヴェンも知らない大先生。
ずーっと不思議に思ってるんだけど何で自分の意見を述べないのかねこの連中。
俺みたいな闖入者を呼び込んでしまい、平清盛は駄作ということで決着つけたところがそうはなってない状況に
怒り心頭なのはご愁傷様なんだけど、「長文(の)批評」しかないなんて寂し過ぎないかおたく? 普通にまったりと清盛について語りたいだけなのに
なんでこのスレはこうも荒れるのか >>550
高校生というか小五くらいに見える
指揮者ならビューローくらいの名前は知ってるし
徂徠先生なら思想大系で政談読んだよ
関係ないからいちいち言わないだけ
それほど博識の大先生なら愚管抄ぐらいは読んだのかね 大先生、わかったから高校生の僕に役者のアプローチ論おせえて
清盛が駄作たる所以をもう一度ご教授いただければなお幸いです >> 549
マッタリ会話が成立しているところにシャシャリ出ることはございませんので
大いにやってくださいませ この展開も歴史は繰り返すなのだけど
おばさん、2ちゃん大河板しかも過去最大級で激しい誹謗中傷に晒された
清盛関連スレで、同人誌のようにファンたちの麗しい交流が成り立つことを
見せてください
幸い連中は俺を忌み嫌ったのかもはやほとんどダンマリを決め込んでますから
僕はそのための露払いで結構です。 >>553
貴殿が高校生とは思えんがこちらの質問に答えてくれるか
愚管抄は読んだのかね
なぜ私が清盛駄作と判断したのかね
なぜダンマリ決め込んでる連中に露払いが必要なのかね ただいま
大河をほとんど見たことがなかった、他のドラマに至っては今でも滅多にみない俺。
何しろ、次やる大河が清盛と知ったのは年が明けてからのこと。役者で知っていたのは深キョンほか2,3人。
そんな俺がなんでこうなってしまったかといえば、2ちゃん大河スレを見て唖然としたから。
トンデモない卑劣な誹謗中傷と根拠を欠く言いがかりが支配する世界に愕然としてしてしまった。
しかもそれらは組織的に行われており、おまけにこいつらがリードする「ネット世論」にマスコミが飛びつく結果、
あたかも一般世論のように高められ、かくして作品の評価が定められていく。
マスコミのバッシングもそれはそれは酷かったが、ネタ元が2ちゃんであることが何と多いことか。
しかも2ちゃん与党たちは、ツイやらブログでも「活躍」する連中だ。
こう頭に血が昇り防戦しているうちに、すっかり清盛に魅せられてしまった。
そういう次第で、義憤にかられて闖入した何もかも素人の俺は、連中にとって鬱陶しい虻、薄汚いゴキブリとなった。
そーゆーことだ。 なんで俺が愚管抄読んだかどうかこだわるの?んなこと何の関係があるんだ。
大隅先生の解説つきのやつを電子書籍化して持ち歩き、必要に応じて参照しているが?
よろしい?では答えてね。聞いているのは役者のアプローチ論。 ついでに駄作でも傑作でも良いから、上に箇条書きした連中がやってきた批判についてのご意見はどう?
それらは、ほとんどがとんでもない誹謗中傷を除いたもので(ほんとは読むに耐えないたぐいのもたくさんあった)、
内容面についてのものだから論評に値する。 中でも2人のリーダーによる大傑作
2ちゃん大河軍司令官でもあられる北の将軍様が自らの大発見を太字赤書で記した
・なぜ清盛は変わっていったのか、そのプロセスがすっぽりと抜け落ちていた
2ちゃん情報担当取締役として日々優雅に研究しておられるザ・執念のおじさん作
・和歌もどきは平安文化に対する脚本家の教養の無さを露呈した
こちらは即刻2ちゃんへ投下され愉快な仲間たちに共有されました
あまりの傑作ゆえ、御本人さまからも是非コメント欲しいなー、頼んますよ
おばさんたちのマッタリ楽しいお話始まらないし・・・ >・真田丸は真摯に歴史と向き合ったギリギリの緊張感があったが
今日一番笑ったギャグだわw
お前センスあるよwww ツイ見たら、非常にこの時代に詳しそうな女性清盛ファンが義経への違和感を。一番のそれは女君の髪ということ。
自分はこの手のことには不案内なので気にならない、というか気がつかない。
人によって見る視角が異なるなーと感心した。
むしろ、美術・映像面では、内容的に心理ドラマの色合いを深めつつも、決して歴史劇からは離れていなかったのに、
映像面で福原と大輪田泊のイメージを表現することをほぼ放棄してしまい、狭苦しい「四畳半大河」となってしまったことが、
予算上の制約があったとはいえ残念だった(もちろん厳島ロケなどは頑張った).。
このことを、義経のロケを多用した拡がりのある映像から再認識した。大河清盛の大きな弱点を一つあげろと言われれば、
自分は開放感と拡がりに欠け、海が出てこない福原・大輪田泊の描写をあげる(始まったばかりの義経はここに金を投入できた)。
違和感といえば、義経が目指す「新しい世」」とは清盛が夢描いたそれを継承するもので、憧れの福原を見学に訪れ、辞去の際には
清盛と面談に及ぶ。平家一同、12、3歳で超人ぶりを発揮するガキ義経の動向にピリピリ。うつぼ他オリキャラ大集合・・・
みたいなファンタジーには目を瞑っても、何年に何があったという基本中の基本がどうにも大雑把なこと。
徳子入内とほぼ同時に3年後の義経出奔が出来したり、、鹿ケ谷の事件の頃結ばれた頼朝と政子のラブアフェアが既に始まっていたり
(清盛はまさに鹿ケ谷回で結ばれた)、時政がずいぶん前に大番役であったり、70年代初頭から清盛の福原構想がすでに現実化して
都建設が始まっており、貴族たちが不満を抱いていたり、時系列どうなってんだろうとイライラしてしまう。 「義経」のラスト、弁慶に防ぎ矢を頼むシーンはBGMと相俟って、冷徹な俺でも泣きそうになる。
松平健の顔合成のハリネズミはちゃちなんであれだが。 >>1
義経千本桜で、弁慶が義経をそのまま撲殺したのと同じ程度の演出だった大河ですな。 平清盛vs真田丸w
平治の乱>>>関ヶ原の戦いw
保元の乱>>>>>大阪の陣wwwww >>559
貴殿が清盛と無関係な指揮者などひけらかすような物知りなので愚管抄ぐらい読んだのかと思っただけ
誰にでもきくわけではないよ
愚管抄はあれ見てて原文も読んでみたいと思わなかったの?
伊豆の頼朝と都の遮那王が組めばことは剣呑、にはあっけにとられたな
さすが伊勢の平氏は心も過敏て思ったよ いつまでもヨタってんなよ
指揮者の名まで出してやるのはNGだから挙げずに
しかし原典に集中するか社会的文化的歴史的文脈を重視するかのアプローチの違いは
いろいろな分野で見てとれる広がりをもつ問題であることを指摘した
おたくが絡んで来たのでしょうがないので出して説明しただけ
あと言っとくけど俺は歴史素人で原文を精読するほど熱心な学習者ではない
だから愚管抄にしても長崎浩の政治哲学的読解本(平凡社新書)持ち歩いており
こちらを見ることの方が多い
歴史に詳しくないと愚管抄を原文で全文読んでないと清盛を語ってはならないのか
でいつになったら自分の意見を言うのだ?ハンス・フォン・ビューローさんよ そうそう、昼間視聴率スレで汚盛がーが、今注目の最終回延長なしネタに絡めて、
ザ定番「清盛最終回ジャンプの打ち切り説」をご開陳していたので一筆差し上げた。
地下鉄内でコピペできないので、拙文読んで「私の清盛最終回」を語ってくれ。 この問題は、役作りに関するマツケンvs杏の対照から派生したものだ。
なぜそこから提起されたアプローチ論について語らず(マツケン不勉強の証拠というレスがあったので、一般化して問題提起した)、
愚管抄を原文で読めなんて話にもっていくのだ。それこそスレチではないか。全文原文で精読していない以上読んだことにならない
というのなら、読んでない。
頼朝挙兵は清盛にとって青天の霹靂であったことがキモだと思うのだが、10年も前から頼朝のみならず少年義経の動向にまで
ピリピリして常時監視、圧力を加えていた大河義経は、そうなりそうもない設定。
実際どうだったか忘れてしまったので、この機会に確認したい。 清盛と花燃ゆは、ふつうの不評ではない、最低評価を下す視聴者が圧倒的に多かったため延長なしとなった・・・
なる珍妙なご意見を直虎スレで読んだので、昨日レスした↓(一部修正)。
NHKは延長あるなしを視聴者のアンケート調査とやらから判断してるのか?
何年も準備して総力を結集した渾身の作品。NHKの事後の総括でも高評価を受け(素晴らしかったが時代の先を行きすぎた)、
将来Pは記念すべき100作目の朝ドラを担当することになる作品について、
ドラマ部門自身の評価ではなく、またドラマの質だけの力学からは決まらない編成の都合でもなく(最低視聴率では冷遇されても仕方ない)、
王家がー海賊王がー汚盛がーで大騒ぎした声のデカいお前らのような特殊ネット人種や、昔は良かったーから一歩も抜け出ない
これまたお前らのような大河保守層たちが、クレーマーよろしく皆さまのNHKに寄せた「圧倒的低評価=とても不満」の声により、
延長なしかを決めるのか?そうではないだろう。
ちなみに花燃ゆの内部評価は知らんが、おそらく高くない。また、関心をもたない層、失った層は分厚くても、
(それでも後半の鹿鳴館ダンスへ向けたセレブ物語は直虎より視聴率は高い)、冷笑記事は多数あっても、
とても不満だとする熱心なアンチ層は、清盛の特大アンチ層と比べれば一桁少ないだろう。
だから、花燃ゆについては、単純に「とても不満だ」とか、終盤大失速したので早く閉じたい、とかいった理由では説明できない面がある。
そこで個人的な印象論にすぎないが、年末押し迫った編成の圧力が一番の要素であるような気がしている(著しく低視聴率の場合は、
この圧力に抗して枠延長を勝ち取ることが困難)。
もちろん、延長なしと最終回のクオリティとはまったく別問題であるし、そもそもすべての作品が延長するに相応しいかと
いえばそんなことはない。作品の特性ごとに判断すべき問題だ(清盛は延長に値するが、結果的に無くても良かった)。 ビューローのファーストネーム紹介してくれてありがとう
この場にふさわしくないわかりにくい表現で書いておきながら
絡まれたらもっとわかりにくいこと書いて相手を威圧するのが貴殿のやり方か
そういう衒学で相手を黙らせるのが常套手段か
貴殿は虻やゴキブリなんてかわいげのあるものじゃなくてスカンクだな >拡大ではなくても【主役の死後を適当にまとめて】最終回1ケタなんてダサい最後もあったからな
清盛物語を締めるべくギリギリまで厳選された素材〜
挽歌となった後白河最後の「遊びをせんとや」、清盛無念の熱病死、宗教者西行からの慰撫と餞の言葉
(お点前が生きてこられた《面白き※》平清盛の一生、眩いばかりの《美しさ》にござります)、
一門との感動の別れ、壇ノ浦までのダイジェスト(平家メンバーの退場させるための舞台装置、
見せ場は碇知盛と時子&安徳入水に特化)、武士の世造りは頼朝へ襷渡し〜志の承継と髭切を手にした
頼朝の力強い決意表明(23話為義→義朝のリフレインでもある)、
頼朝覇権確立のため避けて通れなかった義経抹殺、武家政権を樹立した頼朝は久々の上洛と後白河謁見、
交易への志は同志兎丸の遺児小兎丸に受け継がれ、民間の手によって連綿と担われたことが示唆され、
他方、国家間貿易再開は義満を待たねばならない旨解説された。
こうして波乱の人生を「面白く」駆け抜けて(遊びをせんとや生まれけん)、武士の世と交易国家の礎を築いた
高平太清盛は、一門が待つ海の底の都へ降りて行く・・・
45分の尺で、これらの素材を軽重考え抜かれた一分の隙もない構成とハイテクで配し(西行が肝)、
ロングパスとパラドックス、アイロニーを駆使して一つ一つのシーンの意味を充填させ
(助命時の「見ておれ、眺めてろ」から敗者となった「継承式」での「見せて見よ」。さらに
母池禅尼の願い通り平家の血脈を継いだ、平家内離反分子頼盛が認めた「一連托生」を凝視しつつ、
弟義経討伐を決意する頼朝。)、
最後は、哀れ盲人の琵琶法師に身をやつした禿のリーダーが語る諸行無常・盛者必衰の族滅物語から、
一気に希望の物語へとトーンを転調させて(サバサバとした表情で頼朝へバトン、大海に漕ぎ出す小兎丸、
そして笑顔の一門との再会)、ついに清盛物語は大団円を迎え、そして冒頭へと回帰した
〜平清盛なくして武士の世はなかった〜
以上、御影石のような硬質な密度と構成、驚異的な完成度を誇る最終回が、アホウヨたちや漫画脳たちには
ジャンプの打ち切り!に見えたのだそうだ。 清盛見て少しでもググったらいろいろ文献踏まえているのがわかるはずだし
より理解を深めようと原典にあたるのも十分あり得る話だ
実際俺は清盛見てから愚管抄が気になって初めて読んだよ
古文そのものは難しくないから(別の意味で難解だったが)苦労しながらなんとか読めた
貴殿は真摯に清盛に挑むのではなく
稚拙な長文に衒学趣味をちらすというなんとも臭い屁を放つ
相手が逃げ出すのは当然だな
あらためて言うがもちろん清盛論に愚管抄は必須ではない
貴殿の衒学に一言いいたくなっただけ
大河はほとんど見たことないが義経は見たのか
どういう人物設定かよくわからん 最終回にはただただ圧倒された
兎丸のオリキャラとしての意義もよく理解できた
しかしドラマの最終回として面白いとは感じられなかった
清盛は総じてそういうドラマだったな ※≪面白き≫は付加したもの。しかし、直前の西行の賛辞は、遊びをせんとやの歌に関する「母舞子自身による解説」(1話)を
ほぼそのまま援用したものであり、これこそが「面白き人生」の中身である。これもまた得意のリフレイン。
【舞子】
「子どもが遊ぶときは、時のたつのも忘れて、目の前のことに無心になっておりまする。生きるとは、ほんとうはそういうことに
ござりましょう。うれしいとき、楽しいときも。また、つらいとき、苦しいときさえも。子どもが遊ぶみたいに夢中になって生きたい。
そういう歌だと思って、私は歌うておりまする」
【西行】
「うれしいとき、楽しいときも。つらいとき、苦しいときさえも―いついなかるときも、子どもが遊ぶようにお手前は生きた。
生き尽した。お手前の生きてこられた平清盛の一生。まばゆいばかりの美しさにござります」
また、23話義朝に対する為義の「それがお前の選んだ道。源氏の栄華へと続く道じゃ」を受けたフレーズが、頼朝の
「これが私の選んだ道。武士の栄華へと続く道じゃ」。これもまたスーパーロングパス。
零落から武士の頂点へ上り詰めた源氏三代の帰し方を、たったこれだけで総括してみせた。 だから何で中身を語らないの?少なくともおれは中身に即して具体的に論じてるんだけどさ。
面白いとかつまらないとかそんなの勝手だし文句ないし興味ないよ。 またぞろオッチャンが流して話題となってる長瀬清盛流産咄し
しかし清盛よりスケボーに夢中のジャニーズさんが片手間でやれる役ではありません
役の幅がどんだけある人なのかは知りませんがそれ以前の姿勢の問題として
ただ当時30代前半であったスター長瀬に白羽の矢が立ったことはありうる(清盛役最適齢)
しかし長瀬だったら清盛息子たちが若手だらけとなる「弊害」は免れたとする批判は
彼が不惑を超えた中堅役者であって初めて成り立つもので単なる思い込みにすぎない 歴史鑑定ゴッシー録画し忘れたΣ(-᷅_-᷄๑) 最後頼朝との双六では、わざわざナレ朝から「やる気なし」と言われてしまうほど
精気を失ってしまったゴッシー。
双六の相手はあくまでも清盛でないと、「ゾクゾクするぜー」とならないのだろう。
ライバル清盛が生きているうちはさして歳を取らなかったゴッシーだが、清盛死後は
急速に老けていったのだろう。最後の老醜は単なる加齢によるものではない。
このように清盛役者陣の老けメイクは、自然のエイジングよりもその時の精神状況を
反映させる場合が多かった(公達から時代遅れの老兵となったことを告げられて以降
一気に老けた忠清、壇ノ浦船上で早生ける屍状態の清盛股肱の臣盛国など。幽霊聖子は
特殊。時子など女性陣は大河のお約束通り最後ちょこっとだけ老けメイク)。
もっとも、このゴッシー像はあくまで大河清盛が設定した「40年に渡る宿命のライバル」
によるものであり、歴史上の後白河が大天狗の本領を発揮するのは清盛死後のことだから、
後白河を主人公としてトータルに描く別の大河は十分成り立つ。
しかし、若き雅仁から綿密に人物造型された清盛の後白河を超えるのは至難の技だろう。 なんと言ってもトップモデルだったという堀河リョウさんが大敢闘賞
完全老婆姿で再登場した西行とのシーンのおかげで
黄昏れ感を深めていった雅な平安の世がいよいよ終焉を迎えることを
視聴者はひしひしと実感することができ、堀河さんと共に去り逝く平安に
オマージュを捧げたのだった スッキリしたわーと丸めた頭を照れ臭そうに撫でた入道に、老いの陰はまだない。
それが闇落ちして祇王祇女、仏御前を嬲る辺りになると、沁みだらけの老醜を無残にも晒す
清盛へと変わり果ててしまった。表情もだらしなく弛緩していく。
清盛については、自然のエイジングも頑張ったが、ここでも外貌の変化は清盛の内面を写す鏡
の役割をもたされていた(出家後は非情・冷酷、そして精神の荒廃。立ち直った後は再び引き締まる)。 ググれ何とかとは言わないけど、ふつうわかるでしょ。
オマージュの意味ではなく、何へ向けてのオマージュということかな?
それだったら、王朝文化ないし王朝文化を花咲かせた平安という時代また時代精神
と言ったところ。
堀河「西行殿。こうして恋の歌など読み交わす世は、もう長くは続かぬかも
しれませぬな。雅の花開いた平安の都はもはや・・・」
そして、この御歳うん十歳の貴婦人を生臭坊主西行が口説くw
言うまでもなく、堀河局は王朝文化を代表する女性歌人だ。
王朝文化を体現したその人とともに去り逝く平安を感慨を込めて愛惜する
そのようなシーンがアレ。 日本語にピッタリ移せる語彙がないのでふつうそのまま使うので
どう化けて出そうな堀河さんの再登場? 清盛は、個別でみるといいとこたくさんあるけど、ドラマ全体でみると、バランスがいびつな作品なんだよね。
帝と女官のハナシに尺さき過ぎたり、源氏に比重おいて、後半戦の平家の公達が稀薄だったり。開き直った群像劇かと言われるとそこまで舵を切ってないっツーか
源平モノの大河なんて、次作ってもらえるのが、何年先かわかんねえし、むりくり、あれもこれも、ぶっこみすぎた感は否めないし、
作り手も上からそういう指示がくりゃ、そのオーダーに合わせなきゃいけないし、色々、苦しい部分はあったんだろうと、推察はする。
恐らく後半戦で回収するつもりだったんだろうなって伏線が、広げ過ぎた大風呂敷みたいになってしまい、竜頭蛇尾なチッポケな収め方にとどまっちゃったのは、
アイツも出せコイツも出せって、上からの要請に抗いきれず、尺使っちゃったからなのかなと邪推してる。
「平清盛」って、タイトルにしてんだし、いっそのこと、源氏サイドは、ほとんど出さないぐらいの思い切った英断をしてほしかったよな。
ただただ、純粋に平家とそのファミリーとプリンスに焦点を当ててほしかったよ。藤原とか源氏とか諸勢力がわちゃわちゃいるのは、よくわかるんだけど。
戦国ものなら知名度高いから、本筋とかかわりの薄い秀吉一切出さない!とか許されるけど、源平じゃ、そうもいかねえんだろうな
脇役に魅力的なヤツ多すぎて、中盤以降、主人公の清盛のキャラが薄くなってったし、タイトル的にもまずいんじゃねえか?とは思った。
「平清盛」って、タイトルにしてんだし、いっそのこと、源氏サイドは、ほとんど出さないぐらいの思い切った英断をしてほしかった
恐らく後半戦で回収するつもりだったんだろうなって伏線が、広げ過ぎた大風呂敷みたいになってしまい、竜頭蛇尾なチッポケな収め方にとどまっちゃったのは、
アイツも出せコイツも出せって、上からの要請に抗いきれず、尺使っちゃったからなのかなと邪推してる。
壇ノ浦とか、清盛死後の出来事こそ、最終回初登場の琵琶法師が語っておしまい。ぐらいの唐突さの方が、諸行無常感あるし。
源氏の御曹司が来るぞ来るぞって台詞の中で出てきても、その姿は出さないほうが、怖さが引き立ったと思うんだよ。
「驕る平家」やカムロの話だけでも、じっくり話数使って、描いてほしかったなあと思うし、惜しい気がしてならない
親、妻、子供、部下、ライバルから見た、それぞれの清盛像のズレみたいなところから、人間の評価っていったいなんだろうね。見たいなのをやってほしかった気もする。
清盛も、番組発表のときは「平安のゴッドファーザーやるで!」ってぶち上げてた割りには、ファミリー間の相克やグダグダ愛憎劇とかじゃなかったしな。
フタあけてみたら、やっぱ、できませんでした。って感じが、したんだよ。
★いやはやいやはや、タグまでつけて突如発狂してやした。たぶん、とりあげてもらいたいのでしょう。2ちゃんでたらふく見たことがあるものばかりですがww
かわいそうなので、ご紹介だけに止めます。しかしこんな眩暈がしそうなバカでも凄いフォロワー数がいるのね。。。 見えぬ!見えぬ!
860年の昔に哀れを誘った近衛帝が大がつきそうなブレイクの気配
今度
子作り方面では夫婦憂い無し、なかなか授からない娘徳子の方に頭を痛めてた
清盛と時子の妊活ドラマに出るんだな
しかもミカドが妻帯坊主(官兵衛の顕如)と今世はゲイで同性カップルとか
全然関係ないのにどちらも変テコな因縁を感じる 若かりし頃、日がな一日歌いまくって帝王教育すらろくすっぽ受けていなかった方とはぜんぜん違いますよw
平和を愛し人権尊重の理念を貫く責任感の強い今上陛下は、政敵に謀略を仕掛けたり、その息子を虐待したり、
都合悪くなると臣下に罪をなすりつけてトンずらしたり、アハハハハハと悪魔的に咆哮したり、双六盤ひっくり返したり、
ダダ捏ねたり、鐘太鼓鳴らして息子の葬儀に現れたり・・・そんな無茶なこと間違ってもしませんよ。。。
しかしそんなゴッシーであっても、芸道精進に関しては真摯かつ粘り強かった。大河清盛の功績の一つに、天皇をかくも
(歴史上の後白河に近づけて・・・)エキソントリックな人物とすることに躊躇なかった一方で、後白河の真摯と偏執が生み出した
+の価値創造をきちんとフォローしていたこと。それが、執念でやり遂げた梁塵秘抄編纂のシーン。
何度か紹介したが、「わしは清盛のような(形をもつ有益で後世に残る)泊は作れない。だが、わしは(無益な流行歌)今様が好きじゃ」と、
やや自虐的となって滋子にしんみり語りかけるシーンは、マイ・フェイバリットの一つ(「はかなき歌」回)。
今日まで伝わる貴重な文化財産である今様の編纂は、我々が敬意をもって語り継がなければならない、後白河畢生の文化事業である。 あ、書き込んでよく見たら白河院化か??!
これはいよいよ難しい論点だ!w ああ、もしかして「院政」の弊害というか懸念「ここはわしの世じゃ」化のことね(現役天皇であったゴッシーは、鳥羽に対して
「法皇よここは私の世じゃ」と冷酷に言い放ち鳥羽を葬り去った〜いったん統治意欲を成人となった天皇が示すと「院政」は危うくなる。
そして、ドラマでもっとも強烈かつ重要だったのが、言うまでもなく、闇討ち清盛が発した「ここはわしの世じゃーーー」(白河の再帰)である)。
賢明なお方なので、平城太政天皇の変を教訓に、賢慮に満ちた振る舞いをされた嵯峨太政天皇のように
「存在感を発揮しつつも国政上(今でいえば「象徴」)の邪魔はしない」上皇様となられるだろうから、大丈夫だと思うぞ。
ただし、個人の意思や振る舞いだけではどうにもならない事態も生じうる(権力による政治利用など)。
民主主義の世にそんなことがありうるのか疑問であっても、制度的措置をきちんと整える必要がある。
偉い人たちが加わって政府が今やってることは、「二所朝廷」が生じないような制度設計だろうね。 「平清盛」って、タイトルにしてんだし
「平清盛」って、タイトルにしてんだし
言いたいことはわかりました(藁) 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 40話「はかなき歌」(ノベでは「儚き歌声」)
このサブタイは、もちろん『梁塵秘抄』からとったもの。
・梁に積もる塵の如し〜取るに足らない、吹けば飛ぶ、役に立たない、後世に遺らないby後白河
これを
・清盛の偉業である大輪田泊建設〜今に伝わる有形固定公共インフラ〜と対比し、
さらに
・まもなく訪れる滋子の死がもった喪失感、空洞感〜清盛と後白河との間を取り持った滋子の存在は大きく、
したがって、滋子の死は直ちに両者の決裂をもたらした。時代は雪崩をうったように鹿ケ谷の破局へと
突き進んでいく〜
を込めたものだ。
オーソドックスにして含蓄に富むセンス溢れるサブタイ んー・・・今様は最初から流れていたでそ
♪遊びをせんと生まれけむ
聖子ちゃんに歌って欲しかったがあのダミ声では興醒めだな んん何のこと?
以下、「遊びをせんとや」を歌った人(opの少女除く)
・舞子→忠盛に歌の極意を語り生き方を教え、さらに海賊船のピンチから清盛を救った。
(乙前=舞子師匠から伝授された雅仁が超美声で歌うそれを聴いた清盛は、
「あの時、母が歌うこの歌が聞こえてこなんだったら俺は生きてなかった」とシミジミと述懐)
・女御=乙前→白拍子界のスーパースターにして白河寵姫の歌姫。舞子に伝授。青墓では美声で歌う
この歌により要らぬ皇子雅仁はボーンアゲイン、帝位を手繰り寄せた。
さらに、生死の境を彷徨う清盛の枕元で歌って生還を誘った。出番は少なくても決定的な役割を
果たし続けた聖子ちゃん。清盛と後白河双方を等距離で見守り続けた集大成が、
あの忘れがたいリフレイン「いかがでござりますかそこからの眺めは」であったというのは悲しい。
・パパ盛→想い出アイテムである鹿爪露見と同時にこれを歌う場を押さえられ、正妻宗子を苦しめた。
忠盛にとっても舞子が語る極意は人生の指針となったが、最終段階で迷いを生じてしまった
(舞子はあの歌に関してああ言ったけど俺は何をしてきたのだろう)。迷える自分に変わって平氏がなすべき
決断を下した清盛によって太刀を振るう目的を諭され(武士の世を目指す)、名実共に平氏の棟梁は
清盛に引き継がれることとなった(「さらば父上」回)。
・ゴッシー→即位直前で歌った言わば決意表面〜生まれたこと自体既にバクチだ、面白く生きてやろう!
その後もしばしば口ずさみ、返歌のように歌う滋子とフォーリンラブ。乙前から免許皆伝。
最後となった朗唱は、「生命の歌」でありながら、あたかも死にゆく宿命のライバル清盛に対する
エレジーのように響いた。
・清盛→実はほとんど歌ってない。和歌下手同様、清盛はあくまでもガサツなところがある
散文的な男だった(私は和歌も舞もダメだが、その代わり息子たち、孫たちには仕込んでおるゆえ
ご披露いたします、とのスタンス)。保元か平治の乱後の宴席で確か一度、洗練されてないそれを
披露しただけのような。
しかしながら、最後西行が慰撫したように、志半ばで死なざるを得ない清盛の人生を突き動かし、
西行をして「生き尽くした」と評価させた(美しい!)のは、まさに母舞子から受け継いだ「遊びをせんとや」
の精神と生き様ゆえであった。
清盛が貫いた「面白き人生」は、明確に意識されていたというよりも(したがって積極的に歌うことはない)、
いわば母舞子からのDNAとして清盛に深く刻印されたものだろう(父白河の血の支配に相当する)。 こうやって見ると、少なくとも祇園女御=乙前と雅仁=後白河の2人については、
歌手か歌手並みの力量をもつ俳優が必須であったと改めて痛感する。
白拍子という芸能民から専制君主の寵姫まで上り詰めた女性に、
現代の代表的なセレブ芸能人であり歌姫である聖子は、これ以上ない適性をもっていた。
どんなに上手い女優でも歌で魅せることが出来なければ、この祇園女御=乙前は務まらない。
また、マツケンと松田翔太はチェンジした方が良かったという意見を読んだことがある。
しかし、ほろ酔い気分で下手な「遊びをせんとや」を歌うのがせいぜいっぽいマツケンが、
「誕生後白河帝」回において、高貴でエロチックな表情と歌手さながらの歌唱力と美声により、
視聴者のみならず清盛をも魅了した翔太後白河に取って代わる姿を想像することは、
ほとんど不可能に近い。マツケンの顔、表情、声に置き換えてあのシーンを再現してみてね・・
つまるところ、マツケンはゴッシー無理だし、役の幅が広くない翔太も清盛の一生をやるのは無理。
結局、キャスティングに関する磯Pの並々ならぬ鑑識能力と選択眼に感服してしまうのだった。 最終回何で清盛は幽体離脱してワープしたの?
理由は至ってシンプル
・ここで死ぬわけにはいかないと死を拒む清盛に、運命を受け入れさせきちんと成仏させなければならなかった。
・その役目を担える人間は、北面以来の友人であり宗教者である西行をおいて他にいない。
しかし
・源平争乱が始まり西行は高野山から伊勢に移っていたため、京の清盛を訪ねる時間的余裕はもはやなかった
(清盛は熱病で急死)。
そこで
・(無意識で救いを求める)清盛の方から、伊勢で庵を結ぶ西行を「訪問」する必要があった。
こうして、厳しい審美眼を誇る、当代一の歌人にして宗教者西行による気高くも優しい餞の言葉〜
「平清盛の一生まばゆいばかりの美しさでござります」が、伊勢の地で生まれた。
大河清盛は、誰がいつ何処にあったかといった基本的な史実を安易に取り扱ったりはしなかった。
伊勢にいる〈人間〉西行が京にやってくるのではなく、京にいる人間清盛から幽体離脱した〈霊魂〉が
伊勢の西行のもとにやってくる形をとったのは、大方の見方(あり得ないファンタジー)に反して、
そちらの方が「史実に反しない」からだろう。
1181年のその時、西行の肉体が京にあったとしたら、明確に史実に反することとなってしまうのに対して、
その時、清盛の霊魂が肉体から離れ伊勢へ飛んでいったとしても、清盛の肉体は京にちゃんとあったのである。
西行を最終回のキーマンに据えたドラマならではの優れた設定であった(もう一つの「超常現象」は、
イタコとなって清盛を召喚して頼朝との対面をセッティングしたこと。このシーン無くして清盛物語は
完結しないと断言できるほど重要なミッションを、東大寺勧進僧西行〜鎌倉入りは史実〜は最後の最後で遂行した)。 よく◯◯のムダ遣いと言われ方をする。
モノとカネに関しては、どうしても費用対効果の点で疑問符がついた海賊船を挙げざるをえない。
しかし、この高くついた船はその後、おんな城主に精霊にと大活躍するレガシーとなっている。
昔の大河の合戦は凄かったーなる嘘っぱちにあって、『葵三代』が関ヶ原に異例とも言える
資金を集中的に投下したのは、この合戦シーンをその後「使い回し」する意図があったからだ。
清盛の海賊船も、当初から「使い回し」を前提とする物的インフラ造りだったのだろう。
人的に良い意味で「ムダ遣い」されたのは、相撲節会に駆り出された長門こと豊真将。
当時現役力士だった豊真将が、信西による古儀復興政策の主要イベントに参加してくれたのは
大変有り難いことだ。
ただ、『清盛の大一番』で最も重要だったのは、和歌よりも今様、古典よりも流行歌が好きな後白河が、
清盛の狙い通り、途中から関心を相撲=古典ではなく、宋伝来の高級茶器(新しいモノ、珍しいモノ)
に向けてしまったことにあった。
途中から相撲はどうでもよくなってしまったゴッシーは、信頼の「勝者にお言葉を」をガン無視して、
このパーフォーマーは誰かを訪ね、待ってましたとばかりに清盛をプッシュした信西に応えるかのように、
清盛を念願の太宰大弐に任命した。
「組まずにゴシラに勝ちおった(by信西)」清盛の作戦勝ち。保元の乱後の政治の有り様を見る場合に
重要となる信西の新政策と、西国並びに博多交易支配を目論む清盛にとって決定的な意味をもった
太宰大弐職ゲットという重要史実が、驚くべき精度でドラマ化された回こそ、神回『叔父を斬る』
に続く「箸休め回」ならぬ相撲節会回であった。
かくも意味で充満した相撲節会において、ゴッシーからシカトされる役回りでありながら、渾身の
取り組みを披露されたお相撲さんたちに、心からのお詫びと敬意を表したいと思います。 市川海老蔵による清盛が見たい。
今やっている信長はなかなかよい。セリフが少ないからだろうけれども。
相撲好き、美丈夫好き。冷徹。
こんな清盛がみたい。 良い胸毛の平清盛
1167年 平清盛が太政大臣となる 海老蔵信長は、歴代でも屈指の所作だけで周囲を圧する怖ーーーい存在感と、
指摘されているセリフの(失礼ながら)棒読み感のギャップに困惑してしまう。
一つ言えるのは、清盛は怖いところ(少年頼朝を圧倒し、原田を黙らせ、祐親をビビらせた)
もあったけれど、また晩年激しく逸脱堕落した権力者の面も見せたけれど、
根本的には生涯情感豊かで人懐こく優しい人だった(高橋先生の指摘する人物像にほぼ添う)。
この「活動的で情感豊かそして人懐こい」清盛を海老蔵でイメージするのは甚だ困難です。
スンマセン。 そう言えば本郷先生も
「清盛が悪人のわけないじゃないですか。あの頼朝を助命しちゃった人ですよ」
言うてはった。 バルトが俳優でNHKデビューだと!
豊真将さんも大人しくしてないでゴッシーに
「あんたのために汗流したのにその態度はなんだ!
一言勝者にお祝いの言葉をくれよ、あんた主催したミカドなんだろ!!!」
と激オコしてもらって異議なーーーしでしたw 思えば
・「侮辱」された悔しさで面を上げたその先にあったのは、ニッコリ微笑む清盛さん
・原田恫喝は品行方正であるはずの盛国と本領発揮兎丸と共に演じたまさにヤクザ「芝居」
・祐親は親しげに声をかけた清盛に勝手にビビったうえ、今流行りの「忖度」を
伊豆に持ち込んで千鶴丸を殺めてしまった。清盛のせいでも何でもない
ほんと出家以前の清盛殿はイイ人オーラに満ち溢れていた 大晦日の朝って、朝ドラの総集編を流すのが通例だったような。
ところが今年は、新枠土曜時代ドラマ第1作の光栄に浴した『みを尽くし料理帖』。
たぶん、時間帯から推測するに視聴率は5、6%。いつもの藤本作品同様、はなはだ
芳しくない視聴率だっただろうに、この優遇措置。
どれだけこの作品に対する内部評価が高いかがわかるだろう(原作の世界観を崩さず、
短い尺に切り詰めて再構成する方面でも半端でない力量をもつことを、
このオリジナル得意の天才は証明した)。
ここから先はただの妄想ながら、引き続き清盛BS再放送、みを尽くし続編、
そして大本命たる朝ドラ、大河再登板という流れを期待してしまう。 しかしいつも通り、アホウヨとババアたちが押しかけて
・テレ朝版に遥かに劣る
・愛する草刈昌幸さんが出てる武士メシを見習え
・ただの江戸料理バラエティへと原作を貶めた
大変お元気で何よりでした。。。 同じ歴史場面を源平正反対の立場から描いたシーンの比較は興味深い。
富士川の戦いなんかもそう。
どちらも「大軍が対峙した状況」描写はたいしたことなく、とくに清盛はスタジオ感満載で終わってしまった。
しかし、たとえ予算的に余裕が残っていたとしても、清盛不在かつ寄せ集めの軍隊らしく脱走兵が相次いで寡兵と相成り、
ついには合戦を回避して逃げ帰ったことが核心であった「富士川の戦い」を、誇張された軍記物よろしく
壮大な合戦絵巻へとでっち上げることはなかっただろう。
この富士川を「ショボかった」と貶すことはそもそもナンセンスなのである。 【義経】
・黄瀬川で頼朝との対面。頼朝たちから疑心暗鬼に晒された主人公義経は、早くも軍才を見せつけ
存在感を示した(戦後の対面が戦前に、居なかったはずの義経が情報戦大活躍というファンタジーだったが、
兄弟間のその後を暗示するようなビミョーな対面シーンは見応えあり)。
・危機感無しの平家は飲めや歌えやで浮かれまくっており、水鳥の羽音に呆気なく逃散。
・京から連れてこられた白拍子静と再会。
・維盛叱責。何と鬼界ヶ島送りを清盛が宣告。アレアレとなったところに経子(母ではないのだが・・・)が時子に嘆願。
ゴッドマザー時子「あいわかった」。入道に掛け合うのかと思いきや、ナレ「かくしてこのお沙汰は取りやめに」でオシマイ。
【清盛】
・維盛と忠清との日柄論争〜吉凶を占う忠清は軍配者としての性格も。合理的思考をもつ維盛は兵の士気を問題にする。
・混乱する指揮系統ゆえ一体感を欠き、兵士の士気は低下し弛緩する一方の平家軍(舐めてるのではなくやる気がない)。
・遊び女を現地調達し陣へ招き入れようと提案する維盛に、とんでもないと激しく諌める忠清。ここでも維盛は
油断して浮かれ遊んでいたのでは決してなく、戦意維持という切実な課題に対処していたのであり、歴戦のveteran忠清が
正しいとばかりは言えないところが非常に面白かった。
・結果的になすすべなく逃げ帰った維盛に清盛は大激怒、折檻に及びボコボコにする。
・そして忠清による死を賭した諫言「平家はもはや武家ではなく殿はもはや武士ではない」の悲痛なシーンがやってくる
(海賊退治の際、胸をど突かれてビクともしなかった(軸の定まった)盛国から、立場変わって「これまで通り武にて殿をお支えせよ」
と胸ドンされた忠清がビクともしなかったシーンが素晴らしい)。 朝ドラで落語崇徳院がかかったのは懐かしかった
清盛では後の近衛天皇誕生祝いで西行になる前の義清があの歌を披露して
一気に場が不穏化したんだよな 富士川の戦いという著名エピも、清盛ー維盛―忠清の分厚い人間ドラマへと昇華されていたことに、
とりわけ侍大将忠清の悲哀にスポットを当てたことに、あらためて感銘を受けた(富士川合戦は忠清がキーマンであったことに
疑いはない)。
怒られれるが、大河における藤本隆宏氏のベストは、軍神として直ちに政治利用された広瀬中佐でも、信繁に殉ずるだけの
関係描写に欠けた堀田作兵衛でもなく、脳筋マッチョから時代に取り残された老兵の悲哀まで味わった、しかし最後まで
平家に殉じた侍大将伊藤忠清だろう。 重盛が経子じゃなかったお初と堂々デート
しかも同じかわいそキャラの家盛くんから掠奪しただと!
そんぐらい図太く生きてりゃ現世では早死にしないわ 現時点で話題を集めている大河は、当然現役おんな城主。
ただ当然そうなるわけではなく、12月の今頃、関心が次に移ってしまうような大河もある。
この点、直虎は立派。
次に真田丸。直虎と話題が被ることもあり、SNS上の高い人気をなお維持している。
そして3番手の位置を占めているのは、信じがたいことに数年前の作品であるこの清盛ではないだろうか。
今なお、清盛以上の話題を提供している過去作が、直近の真田除いてあるだろうか?
実感からはどうもありそうにない(ツイの盛り上がり、CS再放送での熱狂、待望されたDVD再発売等)。
>>634はこのような「現実」を認めずに、需要なんかあるはずないと主張したいのか? 本日銀河は殿下乗合事件
清盛の意を忖度した時忠主犯説には何度見ても唸りまくる 直虎はいろいろひどいと思うけどな
完走できそうな分、江よりマシだが、骨太のところがまるでない
知らない話だったから、粗が見えにくく完走できたとも言える
遠江の田舎の情報の疎いところからだと、あんな風に見えるのかもしれんが
突然武田が降って湧いて、突然滅んでた、みたいな感じ 義経は、清盛には出てこなかったジュニア達の嫁達が良いね。 女たちの平家という視点は否定しないが、「清盛とその時代」という「王道大河」清盛の視座から見ると、
時子、滋子以外は正直のところどうでも良い存在。
しかも、既に出来上がったゴッドマザー時子は平板。キーウーマン滋子は、女たちをたくさん出したことが
災いしたのか、見逃すことのできない歴史的意味を担うことはなく、ワノブゼムで終わってしまった。
清盛では深キョン時子の小一代記が成立していたこと、清盛と後白河を仲立ちした滋子がいかに政治的に
重要な存在であったかその所以を鮮やかに切り取って見せたこと、については既述。
清盛でもクローズアップされた経子は、出さないと歴史を描けないというほどの重要な女性ではない。
しかし、政略結婚でありながら(「清盛の大一番」回で、ゴネる重盛は清盛から豪快に放り投げられた)、
疎外された夫の苦しみを誰よりも理解し、重盛と比翼連理の睦じい夫婦仲を築いた糟糠の妻経子は、
一服の清涼剤のような存在であり、沈鬱な物語の中で大きなアクセントとなっていた。
舞子、宗子、祇園女御、明子、時子、滋子、たまこ、得子、堀河、由良、常盤、政子・・・
白拍子、儚き女、嫉妬で苦しむ賢妻、夢見る乙女からしっかり者の棟梁の妻へ、あっかんべーから国母へ、
ファムファタール、九尾の狐、ツンデレ娘から武士の妻の鑑、野駆けする未来の尼将軍・・・
ノーマルとは言いがたい異能異色な女性陣の中にあって、一貫して良き娘、良き妻であり続けたことが、
かえって経子をユニークな女性へと引き立てていた。 男大河だっつーのに、「良妻賢母」型含めて、大河清盛が見せた女性たちの性格類型の多彩な表現を、
他の大河で見いだすことができない。
今年は、さすがに傑出した女性脚本家らしく、女性(と男)の心理を深く掘り下げる大河であったが、
直虎始め3、4の女性キャラに集中しており、清盛のような「様々なタイプの女の品評会」とは言えなかった。
まして去年は以下ry(嫉妬指数を示すにすぎない嫁による障子の穴開けを、安徳の穴開けエピから展開させた
「そこからの眺め」に比肩した清盛オバさんたちにはビックリした。深度も広がりもまるで次元が異なる)。
にもかかわらず、「清盛のオンナはおざなりで皆ステレオタイプ。魅力ない女ばかりで愛するミタニンとは大違い!」
なる超目が・級のババアたちの大合唱が澎湃したのである。現世はやっぱ不条理劇ですのぉ・・・ さすが2ch世論をリードする長文殿のご明察には頭が下がりまする 2ちゃん与党たちによる「ネット世論形成」に異を唱え、少数意見を反映させるべく
対抗言論を提示しているだけだ。勘違いしないようお頼みもうす。 重盛と経子って政略結婚でありながらも理想的な夫婦像で
もうあんた達プライベートっでも一緒になっちゃいなよ
なんて思ってたこともあったけど経子はお笑い芸人と結婚して
重盛はこの度年上女優との同棲報道。
まぁお似合いと思ってた共演俳優の結婚離婚というのはよくあること
なのでお互い今が幸せであるなら良いことなのでありましょう。 常に斜め上をいく上司の振る舞いに胃に穴を開けながら仕える
クールビューティー堀河女房局長 榊原康政の中の人の演技に魅せられた
維綱は家盛を追って髷切って去った印象しかない
もっと大役に相応しかったかも 榊原康政格好いいよね。
中の人はあまちゃんパパのくせに。
鬼平じゃうさぎのくせに。 重要オリキャラは退場のさせ方も難しい。
歴代の中にはいつのまにか消えてしまったのもいるし、何かと議論の的となっている龍雲丸も、
最後まで引っ張っただけにいっそう苦労しそうだ。
この点で兎丸は、グッドタイミングかつ無理なくスムーズに退場できたと思う。
元海賊兎丸の属性を京の盗賊(義賊)朧月の遺児そして孤児としたことが、終盤大きく効いていた。
大輪田泊完成を急ぐ清盛はブラック企業主と化し、民の命と安全を顧みないそうした清盛の非人道的な姿勢に
激しく反発した兎丸は、持ち前の庶民的正義に訴えることでついに主人と決別した。
一方、清盛を邪魔立てする者たちを取り締まるべく、恐怖政治の走狗として組織され訓練された孤児たちが
赤いカムロであった。ここに至り、兎丸はカムロのターゲットとなったのである。
しかし、屈強な元海賊兎丸は、襲いかかる子どもたちに警戒心を持たず、無抵抗のままやられてしまった。
なぜ油断してしまったのか?
それは、自身孤児の境涯から這い上がってきた兎丸にとって、カムロたちは「ゲシュタポ」ではあり得ず、
出自を同じくし仲間意識で結ばれる「ミウチ」だったからだ。人間性を奪われ殺人マシーンと化した
子どもたちが不幸な孤児集団であることを知っており、彼らがこの不幸な境遇から抜け出て更生することを
心から願った故の油断であった。
こうして、大輪田泊建設現場責任者兎丸が反清盛に転じ、秘密警察カムロによって殺されるプロセスが
完璧にストーリー化され、最後はその名を石に刻んだ経文を人柱に代えて沈めることで、海の先に広がる
広い世界を共に夢見た同志兎丸の志は、大輪田の地に永遠のものとなった(人柱エピとの見事な接合)。
ホントに素晴らしい有意で生きたオリキャラであり、惜しまれるしかし完璧な退場物語でありました。 「始末せよ」の意味を巡って勃発した解釈論争は、ひどく懐かしい記憶だ。
その場限りの解釈としては、清盛「全員抹殺し痕跡の残らぬよう処分せよ」→時忠実行、赤い衣装を焼却
とするのが今でも魅力的。
しかし、最終回、羅刹が盲の琵琶法師と変わり果てて再登場し、平家物語冒頭の諸行無常の響きを奏でたことが、
陰惨な族滅物語を未来へ開かれた希望の物語へとメタモルフォーゼする上で決定的な演劇的作用(暗から明へ)をもった
ことに鑑みると、単体ではやや拍子抜けながら、「カムロを解散せよ」と解釈することで納得するしかない。 何度も言うが若年から老年までやる作品と
老年しかやらんでいい作品の差だ 当時71,2歳の平幹二朗氏が、まだ32,3歳の後白河を平治の乱直後から担当。
遊び惚けていた青年雅仁時代を経て、ちょっとした偶然が働き即位してしまったものの、
信西から「比類なきボンクラ」と揶揄されたそのお方は、最初からまるで天下を操るかの大天狗のごとく登場しました。
ほんとピッタリの年相応感ですね。。。
とはいえ、松田翔太演ずる若き雅仁&後白河が発するエキセントリックな魅力とは異なる、大天狗後白河の魅力において、
平幹二朗さんは歴代屈指の演者であったことに異論はございません。しかし、それは「歳相応」となってからの後白河像
なのです。
そして渡清盛。当時64,5歳の御大は、清盛40ちょっとの時に起こった平治の乱において、大河のお約束通り
前線でチャンバラして奮戦する姿から入りました。ちょっと痛々しかったです(大河清盛は、大将のチャンバラを断固排して、
後衛にて双六を進めながら戦況をコントロール清盛に集中。そこをちゃんとやってからの一騎討ち)。
そして、晩稲の政治家清盛は平治の乱後、まだまだいくつも相貌を変えつつ上昇、下降、衰退、滅亡していったことが重要であって、
登場当初から入道然として老成している渡清盛は、決して歴史上の清盛を投影するものではないことを強調しました。
もし、歳相応感をもったとしたら、それはたかだか入道となった以降、死ぬまでの10年程度に限られます。
というか、「若すぎた」批判にいろんな角度から弁明してきたのに、それにまったく答えることなく、なぜこの爺様は
同じことを100万回繰り返すのでしょうか?認知症を発症されていないことをご祈念いたします。 たった2行で端的にご説明いただいておりました。すんません。 しかもマツケン清盛は上の方に書いたように入道になってからも変わっていったところがキモ
これが「年寄りすぎる壮年清盛」と「年相応の入道」どちらも同じ一つの清盛を演じた渡との違い 現世で日本一美しい顔に選ばれた時子さんに
「もうそなたで良い!」
なんてロマンもへったくれもないプロポーズを870年前にしちゃったもんだから、
今になってどこぞの八幡様が祟りじゃーとお怒りなんだよたぶん。
キヨモリ「見よ、やはり厳島の社の効果はてきめんじゃ。時子が他所で百日祈ってもご懐妊
されなかったものを、わしが月詣を始めたところ、わずか六十日でこの喜ばしい報せドヤーーー」
深キョン「まあ殿ったらニコッ」
こうなったら835年前の徳子懐妊の験を担いで、八幡宮へのお参りから始めませふ。
時忠「科学にあらずんば妊活にあらず。しかしながら、正しすぎるのはもはや誤りでござります。」 族滅物語(暗)から希望物語(明)へ。
この鮮やかな転調を音楽面から演出したのが、前者については琵琶法師となった羅刹が奏でるj平家物語の調べ、
後者についてはかのタルカス噴火ということだろう。
タルカスの力強い躍動的な調べに合わせて、小兎丸は海へ向かって咆哮=噴火したのであった。
世界のタルカスが、日本の平安大河にこれほど効果的にフィットするとは予想だにしなかった。 さっき週刊文春立ち読みしたら、
生命保険の偉いおじさんが連載してる日本史講座・ザ保元の乱編で、ふつうに「王家」使ってたわ。
ネタ元が大河清盛に「激怒」されたw両M先生のホンなので、当たり前と言えば当たり前なんだけど。
しかし、2ページ読んだだけでも、実にキチンと上手にしかも面白く保元の乱への道行きをドラマ化
していたことを改めて痛感した。これだけ分厚く保元の乱を扱ったドラマなんぞどこにもないのに、
ホント何がご不満だったのでしょうか?東への怨念はさておいて・・・オレの最新研究によればーなんて
野暮なことを大先生が血相変えて言い募るのは大人気ない上に、ドラマ批評としては誤っているし、
それでいて基本となる史実すら無茶苦茶な改変をやって憚らない新平家を、この先生たちは、さらに
客観的であるべき教科書検証本において、場違いのエンタメ大河をしかも清盛たった一つだけを
差別的かつ侮蔑的に取り上げ、「最新の史実」の観点から〜落胤説は論証抜きで俗説と切り捨てる〜
(ドラマ批評ではなく)しかも曲解に基づいて憎しみも露わに腐しまくった、例の「国家教科書検閲官」殿は、
賞賛しまくるのである。
播磨守の妄言は、調子に乗ったド素人のタチの悪いリップサービスぐらいで済ませたいのだが、
なんつーか狭い世界でいがみ合う日本中世史学者たちの拗けた反応は、ホント怪奇現象だわねこうなると。 まず中世(除戦国後期)を好きになってしまう時点でアレなので(自戒) いやー、今夜の白虎隊の再放送、なかなかよかった。
大河常連が続々と。
「平清盛」のつながりだと平資盛の堤大二郎が山川大蔵で。これは準大河「武蔵坊弁慶」の資盛だが。
西田敏行の切腹なんて珍しいシーンも見られた。 源氏の一族はあちこちに散らばってるのに、なんで平家一族は固まってるの? >>662
おまいは何を言ってるんだ?
平家は伊勢平氏のことで桓武平氏なら全国に散らばってるだろ 刑事ゆがみで、稲森いずみと神木きゅんが出てる。
ちょっと前は常盤と牛若の親子役だったのに。。。 頼朝へのバトン渡しと西行のオシャレな退場場面はアクアタルカス ・経盛(元々教盛【武】と対比された【文】キャラ)は維盛、資盛に舞を仕込む
→後白河五十の宴で青海波披露【文】。後に維盛は脆弱な【武】を露呈することとなる。
・さすがは公達。知盛、重衡は見事な弓の腕前を披露して忠清を喜ばす【武】
しかし
・天真爛漫重衡はあっけからんと
「こんなに父上が平家を強くされて、もはや戦さなど起こるわけないっしょ」
・知的でクールな知盛は気の毒そうに
「平家はもはや武だけでは立ち行かぬのだ」【文武】
それを聞いた
・侍大将一筋、平家の【武】を支えてきた古武士忠清は、ショックで薄っすら涙
本日放送のコメントを読んでハッとさせられたのは、この直後に頼政が後白河の
今様合わせのために参上し、忠清と会話する場面も見事な対比となっていたこと。
言うまでもなく、頼政は鵺退治で名を馳せた源氏の猛将であり第一級の文化人でもあった【源氏版文武】。
時代の潮流を的確に掴み、巧みに処世する術に長けた人だったのだろう。
しかし、この頼政こそが「起こるはずのない戦さ」を仕掛け、平家に挑む張本人となったのである。
何というアイロニー・・・源氏頼政もただ何となく登場させたのではなかった。
本当に見る度に新たな発見があり、また他人の批評に教えられる汲めども尽くせぬ大河だ。 大人気足ガールのチーフ演出は
清盛3番手だったおんなディレクター中島さん
清盛では鬼才型だったね いやはや、この終わり方は続編ケテーイだなw面白かった。
「みをつくし」みたいな江戸人情物は、大らかな気持ちでリラックスして見たかったのだが、
何しろババアたちが押しかけて凄絶なバッシング、ネガキャンするのが目に見えていたゆえ、
心ならずも介入して大顰蹙を買った「みをつくし」スレ。
最終回については、これで終わりなら羊頭狗肉もいいところ、だがしかし、シーズン2へ
向けたエンディングとしては最高に素敵な中間総括となったと書いて、
女のくせにアタシの100万倍高性能なオツムをもつ藤本の野郎許すまじ!
で終結したババアたちを発狂させたのであった。 右も左もわからず、過去作についてもほとんど知らなかった本放送時、とりわけ馬鹿馬鹿しく思ったのが、
(2ちゃん除き表向き雲隠れ中の)ゆうじんあんが常に持ち出した「瞬間移動」批判。
他を知らない段階でもアホらしくてならなかったが、その後他大河を見るにつけ、「瞬間移動」は別に珍しいことでもなんでもないことを知った。
昔もいくらでもあったし、真田丸の信之は信濃と浜松を頻繁に瞬間移動していた。また、行動範囲の狭い直虎もこの間、堺へ瞬間移動していた。
これらの何がおかしいのだろうか?厳しい尺で描くべきことが山ほどある中で、道中をえっちらこっちら描くバカがどこにいるのだろうか?
視聴者の側で「間」を想像して補えば良いだけであり、またそうして補うべき「瞬間移動」の場合がほとんである。
清盛については、後半となるにつれ、捏造がー、漫画がーが成り立たなくなってくる。そこで、何が何でもケチつけるには内容なんかどうでも良くなり、
本日放送された兎丸の死回など、「なぜ兎丸は抵抗しないのだ?ありえなーい」、そして「清盛が福原から京へ瞬間移動した、ありえなーい」
なんてレベルの批判しかなかった。
今回の「瞬間移動」は、京に出奔した兎丸がいなくなったことを知った子分たちが、福原に戻り探索。その旨報告を受けた清盛が、
次の場面で京での探索に加わったという設定だった。兎丸は福原にもいない。だとしたら探索場所は京に決まってるだろう。
清盛の目はただちにそのことを察していた。だから、視聴者は容易に次の場面で五条大橋にいる清盛が「上洛」したことを了解し、
「ただちに駆けつけたであろう」ことを想像で補うことができたのである。
もちろん、遠隔地からの行軍自体がテーマとなりうる官兵衛の中国大返しのようなシチュエーションもある(素晴らしかった)。
これに該当するのが、信西救出を決断して長躯熊野詣から引き返す馬上の清盛のシーン。わざわざロケまで敢行したこのシーンは、
「清盛が遠いところから危険を顧みず駆けつける」こと自体が、平治の乱における「清盛大返し」の核心部分だったからだ。
さらに、雅仁が異界の地=青墓入りしたあの幻想的かつ劇的な「誕生後白河帝」回において、一番の感想は、京から岐阜までの道中をやらなかったpgr
だというのだから、もう涙が出てくる。特段事情がなくても、青墓にいくぞーとなれば次のシーンは青墓入りするゴッシーに決まってるではないか。
しかも、後白河の真骨頂は、予期せぬ形で(芸能者との出会いを求めて)庶民の前に現れるその神出鬼没さにあるのだから、
「突如青墓に現れた」感の演出は不可欠ともいえる場面であった。道中えっちらこっちらを描いていたら、この神出鬼没感は完全に台無しにされて
しまっただろう。 「清盛が福原から京へ瞬間移動した、ありえなーい」
って思った人間なんだけど、ただちゃんとドラマとして
成り立つようにして欲しいだけなんだ。
兎丸失踪の知らせが京から福原に届く。
福原から駆けつけた清盛が兎丸を発見する。
遺体の損傷、それまで収容もされずに放置されてたことを思うと
死後まだ間もない様子ではあるんだけど
福原と京との距離を考えるとそう早く移動できるはずない。
別に道中まできっちり描けっていうわけじゃない。
ただ違和感を感じることなくドラマの世界に没入させて欲しい。
こまけぇこたぁいいんだよってすませることかも知れない。
しかし精緻なミステリー小説のようにこの伏線がここにつながるのかと
唸らされた場面もたくさんあっただけに、ここの杜撰さは残念に思う。 点と線がつながらない
アリバイ工作が成り立たない
出来損ない松本清張 >>673
そういう真面目な残念感をもったのならば尊重する。つまり、想像で補えない矛盾があるということだろう。
移動自体が特段の意味をもたない場合は、あくまで想像に委ねて「無理なく」シーンが繋がればそれで良い
ということであり、ドラマで流れる時間だけではなく、想像された「物理的時間」までもが極端に歪んでしまって
それで良いと主張するものではない。
逆に、徳子懐妊の報を聞いて大喜びで駆け出すシーンに見られたように、「移動する」描写がモノを言う場合がある
ことを否定するものではない。さらに、京と福原との絶妙な距離(京にあらずしかし遠からず)がもたらす
清盛と後白河及び宗教勢力との「政治的・心理的距離」という問題をトピック化さえした
(福原から睨みを利かせ、京の政局が行き詰まった段階で「間髪入れず」上洛し、歌舞伎の花道を歩むかのように
清盛が登場したシーン〜真打ち清盛が「出現」しないと、もはや政治は立ち行かない)。
ところで、京と福原は早馬で1日あれば十分の距離だ(確か他のシーンで言われたはず)。
以下、兎丸の死後の子分たちと清盛の動きを、時間軸に沿いつつ、映像とノベを参考にしながら「想像」してみた
([]はノベでの描写)〜「物理的時間」の歪みについて。
兎丸がやられたのは真冬[2月]の夜。季節柄そう腐敗が進む状況ではない。
酒を買ってこいと命じられその場を離れた子分たちが、兎丸がいないことに気づき、
(多少周辺を探したが暗闇で見つからず、桃李の願いを聞き入れて福原へ戻ったものと判断したのだろう)、
慌てて夜を徹して(兎丸を追い)福原に戻り清盛に報告。(早朝)知らせを聞いた清盛は[懸念]を抱き、
[とるものもとりあえず]出発、その日のうちに(まだ日は明るい)京へ駆けつけた。
探索の結果、兎丸を発見した場所は冷たい[雨露に濡れた茂みの奥]。時間的には死後間もなくではなかった。
容易に発見される場所ではなく、発見が遅れてようやく人が集まってきたところだったのだろう。
こういうところで「精緻さ」を求めるのは疑問だけど、こうして見ると、十分「あり得る」時間の流れ
と清盛の動きだと思うぞ。 早馬で半日だったかな。
兎丸にしても子分たちにしても、庶民であっても最高権力者にして大金持ちの清盛に仕える上級の郎等なのだから、
秀吉の中国大返しの時の雑兵のようにマラソンしなくても、馬を調達して早朝福原に戻ることは容易いことだっただろう。
どうでも良いような穴埋め話ながら、こういう指摘を受けて改めて振り返ってみる作業も楽しいものだ。 >>675
すまん雑魚にもマジレスすんのが俺のポリシ。
点と線はどのようにして繋がるのだ?点と点ではなく。
ミスプリなら、点と点を挙げてそれらが繋がってないことを説明してみなよ。
これは大河清盛の核心に関わる問題ゆえ。
拙者は「リンクの鬼」と呼んでいる(時系列=タテの「伏線回収!」ばかりが話題となるが、
同時代、同世代で空間的に対立するアクターたちの力関係の在りようとその推移=ヨコの立体感がこれまた凄い)。
これをババアたちは、その場限りの「感動ポルノ」、「小ネタのシークエンス」と貶し、
2ちゃん与党を率いるリーダー某は、「清盛は何故変わっていったか、そのプロセスがすっぽり抜け落ちてました」
と赤面じゃなかった赤い太字で大強調しているのだから、そろそろ堂々と「証明」してみたらどう? >>678
昔、学生の頃に地下鉄の終電逃して真夜中に御所から京都駅の
周辺まで歩いたことがあるんだ。
たかだか市内の移動だし当時はまだ若かったけど結構疲れた。
道は烏丸通りを南に下っていくだけなので間違えようがない。
この時の経験があるんで一晩で京都と神戸を往復したって設定が
おいおい、ちょっと待てよって思うのかもしれない。 >>679
タブレットとPCとでレスしたからID変わっちゃたけど>>675の雑魚も
ふっと思いついたこと勢いで書いちゃったオレだ。
線は鉄道だったり馬だったりつまり動線、点は事件現場。
鉄道使って目撃者準備した上で完全犯罪を企てるのが
松本清張の「点と線」。
兎丸殺害のようないい加減な時間軸でドラマ作られたんじゃ
「点と線」のような作品は成り立たないんじゃないかって
思って書いたの。 第3回「源平の御曹司」で清盛は忠盛の言う「浅知恵」で海賊から民の米を守りつつ、自分たちは干物ばかり食べていた。
それでも家の飯を食べる生活よりも満足していた。そんななか、ひょんなことから源義朝と出会い、馬競べで敗北する。
それから時が流れ、第27回「宿命の対決」ではやはり熊野への道中干物ばかり食べていて飽き飽きしていたという清盛。
「やはり家の飯はいいのう」と変化が見られる。そして終盤、源義朝と決着・・・
干物と家の飯、源義朝と平清盛という対比がおもしろい そういうノリで嫌いなところを指摘してもらう分にはこちらも血相変えないよ。
全体を全否定したものと受け取ってしまいスンマセン。
清張の点と線って時刻表ミステリーであったこと以外、内容忘れてしもうた。
軽い読者にすぎないが、砂の器、Dの複合、或る小倉日記、ゼロの焦点、波の塔
あたりの有名どころは忘れがたい。 >直虎、ワースト「平清盛」上回る
>視聴率は苦戦したが柴咲コウや高橋一生らの熱演が視聴者を魅了し高く評価された
拝啓マスコミ様
ハイハイ良かったですね。ワースト1の座はこれからも譲りませんよ!(文ちゃん大河はなかったことでいいです)。
それにしても、最終回直前は好意的な記事で盛り上げてもらって、終わった途端、ワースト2という結果からは、
マスコミの格好のバッシングネタとなるはずのところ、反対に擁護記事だらけとなる「おんな城主」は、幸せな大河でした。
ところで清盛は、終盤すでに消化試合となり果て、最終回に期待を寄せる者などいなかった大河だったのでしょうか?
最終回直前も、一桁視聴率を揶揄し侮蔑するネガキャンばかりでした。
また、作品のクオリティと俳優たちによる数々の怪演に魅了された視聴者はいなかったのでしょうか?
現象的には応募が殺到したパブリックビューイングなどに見られたように、限られた範囲とはいえ、
1年間夢中になって見続けた視聴者の熱狂ぶりをしかと視認することができたのですが。
そいて、ツイ界隈の熱狂は、SNS時代における大河視聴のあり方の先鞭をつけるものとなりました。
ところが終了後も、マスコミはごく一部を除き、川に落ちた犬のごとく大河清盛を棒で打ち据え、史上最低視聴率に相応しい
駄作大河と総括したのでした。
幸い、深甚なダメージを被った大河平清盛並びに制作者、出演者たちは、浅薄無責任で興味本位の記事に終始した
あなた方に抗するかのように、その後力強く自力更生を続け今に至っておりますのでご安心ください。
敬具 >>684
> (文ちゃん大河はなかったことでいいです)。
ってのに物凄い悪意を感じる。
確かに「花燃ゆ」は世間一般の評価は低いが
見るべきところも多々あったし
「アシガール」の黒島結菜ちゃんをはじめ
「あさが来た」の瀬戸康史や「わろてんか」の大野拓朗など
若手俳優の知名度を押し上げた作品でもある。
「平清盛」の低評価にイライラさせられている人間として
どうして「花燃ゆ」ファンの心情を慮ることができないのか。 ちがうちがう勘違いしないで。
あまり評価していないが、真摯につくられていた。企画自体がダメというのが個人的評価。
最低視聴率の悪名は清盛がこれからも引き受けるってこと。 直虎何とか完走したけど、何で評価高いの?
前半(今川相手に苦労していた時分)はまだしも
途中からひどいとしか言い様のない作りだったのに
花燃ゆにしろ直虎にしろ、1年間主人公張らせるのは土台無理なんだから
物語の語り部に徹して、松下村塾門下生の群像劇、井伊一族の浮沈話
にでもしておけば、大きな破綻なく佳作に仕上げることもできただろうに この難しい素材で脚本家の作家性、すなわち創造性を発揮したということだろう。
清盛、真田丸、おんな城主3つをセットで好む層が確認できるのは、全50話で「一つの物語」を創造する力を、
脚本家はじめ制作陣がもっていたからだろう。共通するのは、脚本家に筆力があり、昔の大河のように単にエピを並べていくような
単純な大河ではなかったこと。
それゆえ、大河保守層からは嫌われもした(ただし、空気を読んて商売するツイ連中は、真田人気に便乗して、江的要素もふんだんに
あったことについては頬かむりし、真田礼賛に回るダブルスタンダードに徹した。また直虎にも寛容、すなわち清盛のみ罵倒)。
もちろんそこから先は、歴史への洞察力、史実とフィクションとの交錯、融合、全体の構成力、ストーリーの整合性、オリキャラ含む人物造形
〜厚みと深みまた多彩度、演出の革新性、美術・映像のこだわり、戦国大河となれば合戦をどう扱ったか(合戦そのものの迫力も(時には)問われる)、
などなど、様々な要素について、あれこれ不満もでてくるだろうし(どんな大河でも)、評価が分かれてくるのが健全だ。
作り手の意図を探るやり方の俺は、三谷の真意を探る度にだんだんとそのご都合主義に距離を感ずるようになり、
マスコミの過剰なヨイショ記事や、三谷の「権力支配」に対する反感もあって、しまいにはアンチと化してしまった。
直虎は、個別に見ると賛成できない改変や展開もあったが、全体評価としては、良くやった面白かったというもの。
清盛は上記の評価要素について最高点。だから「信者」をやっている。
そして、さんざ言われてきた「突っ込みどころ」こそ、逆に作り手の歴史への洞察を感じさせる場面であったことを強調してきた。
すなわち、他の大河で誉めそやされる事については、ほんまかいなと疑問を持つ場合が多く、一方清盛が盛大にpgrされた要素は、
違うよと猛烈に反論したくなるような大河、それが清盛だった。
とりわけ、「丸と清盛の違いは、前者が歴史に厳しく対峙し、その緊張感のもとで歴史に造形の深い三谷の見事に創作が見られたのに対し、
後者はそんな歴史の重みなんかにはまるで無頓着な歴史素人が、適当な史実処理とファンタジーに逃げ込んだ」なんて真逆としか思えない
目が・級の妄言を浴びせられると、いきおいファイトせざるをえないのである。
清盛ほど歴史資料を大切に扱い、その(がんじがらめの)制約の中から創造と想像の羽を広げ、しかも情感たっぷりの愛憎劇、抜き差しならぬ心理劇
でありながら、五月雨式の軟な余情物語では決してなくなく、堅固で精緻な論理的構築物のごとき叙事性をもつ大河を他に見出すことは、
管見のかぎりない。 一言で言うなら、真田丸は期待外れ
真田太平記が名作だっただけに、面白くならないはずがない
ということで期待は大きかったが、拍子抜け
草刈正雄の昌幸、内野聖陽の家康、近藤正臣の本多正信とか、
役者個人で魅せてくれたのはよかったが 昨日はちゃんとは見られなかったので、今録画見た直虎。
主人公とは異なる出自と背景事情をもつがため(外部者)、彼・彼女の既存の価値観を揺さぶるカウンターパートという点では
兎丸と類似したオリキャラであった龍雲丸の退場のさせ方は、やはり残念。
海賊討伐という史的基盤をもつ兎丸。時に清盛とぶつかりながらも元海賊の知識と経験を生かして(頼朝ナレ)清盛の交易事業に貢献、
とりわけ「博多を京の近くへ」という大輪田泊構想を最初にサジェストしたのは、実に無理難題をふっかけられた兎丸の憤懣であった。
このように、歴史的な役割をそれにふさわしい形で担った兎丸は、あくまで清盛の家人として、彼の忠実な手足となって動いたオリキャラであり、
よく言われるようにオリキャラが無双したり、根拠なく歴史に出っ張るケースとはまったく様相を異にする。
資料が足りないのでオリキャラを作って穴を埋めました、といった性格のそれとは無縁の男なのである。
そこに京の孤児という重要な問題系を加味した兎丸が、大河史上もっとも有意義で練られたオリキャラとなったのも当然だろう。
それと比べると、カウンターパート以上に直虎の恋バナ要員であったカシラは、仕方ないとはいえ、史的根拠も歴史的働きもほぼなく、
存在理由が希薄と言わざるをえず、退場の仕方も「直虎都合」の域をでるものではなかった。
労咳という長期療養型の病で死んだおとわが急死並みであったことも、一昨日議論となったドラマ外で補足すべき物理的時間の歪み
という観点からは、ちと苦しかった。
また、坊主始め男たちも最後までほとんど老けメイクさせない理由もよくわからん。結果、世代間を外見で区別することがやや困難となってしまった。
ただ、個人的に一番着目していたのは、直虎死後の直政とその仲間たちの歩みを、短い尺でどう「直虎物語」として構成して大団円へと
もっていくかであったところ、こちらは流石の出来栄えで満足できた。
直虎の志を直政始め縁のあった人々が皆受け継ぎ、それぞれの道を進んでいく様は、そして〈後継者を強く自覚した〉直政が
井伊の赤鬼となって飛躍し、徳川四天王へと上り詰めることを予期させるラストは、Pが述べたように、未来へ開かれた直虎物語の素敵な締めとなった。
また、まだ死ねないと死を拒む直虎をあの世に連れていく鶴が、「おとわ大事ない。おとわが俺の志を継いでくれたように誰かが継いでくれる」
と納得させるシーンは、清盛を慰撫する西行のシーンを連想させた(小カシラの登場は疑問)。
総じて、清盛最終回のテイストを感じさせる余韻豊かなおんな城主のエンディングが見れて良かった。 大河史上最も練られたらしいオリキャラ兎丸だが
ビジュアルでは龍雲丸の圧勝なのであった。
直虎最終回のサブタイが「石を継ぐ者」ときたのはSF好きには嬉しい。
元ネタの「星を継ぐもの」は故郷を失って絶滅寸前の人々が
新天地で裸一貫からリスタートする物語としても読めるわけで
それがお家断絶の危機から立ち直る井伊家の姿とも重なり
単なるダジャレにとどまらない秀逸なネーミングになっている。 そりゃビジュアルではひっくり返っても敵わないw
最終回碁石を「志の継承」アイテムに使ったあたりも、海の底に沈んでいく宋剣、
源氏における髭切の活用と良く似ている。
何でもかんでも三谷オマージュを唱える連中は、間違っても認めることはないけれど、
直虎最終回は、かなり清盛的な「エンディングの作法」に近かった。
どうも関西の才女2人は仲が良いみたいだしね(森下女史は「夫婦善哉」に魅せられたとのこと)。 イケメンというと西行。役割は主に4つ
・清盛の北面以来の友人、助言者
・和歌の道の大家
・宗教者(遁世後も現世との間を行き来する生臭の面も)
・清盛とその時代の証言者(平家サイド。王家サイドは堀河、源氏サイドは弁慶)
演技派とは言われていない?藤木氏。「和歌詠み」こそ危なっかしかったが、
上記4つの役割を魅力的に演じたと思う。とりわけキーマンとなった終盤が素晴らしい。
最終回は彼無くして成立しなかったほど。清盛を慰撫し餞の言葉を贈るシーンと、
バトンタッチを見届けて満足した表情で(ニヤリが彼らしい)自作の名歌と銀猫エピと共に
スタイリッシュに退場したシーンは忘れがたい。
その藤木氏は西郷どんでは阿部正弘を演じる。早々に退場しそうなのが惜しい。 来年は塚地信頼が盛国みたいに生涯殿に仕える役みたいね ・「清盛最終回は打ち切り少年ジャンプ!」
・「信長をパクった青年清盛が厨二描写くだらねー」
・「とっちらかって、史実の整理が行き届いた花の乱???の爪の垢を飲め!」
いやはやいやはや、毎日毎日◯◯先生ーやってるうちにすっかりオツムがとっちらかってしまった
おんなネトウヨの最新作(なおネトウヨが蝟集する2ちゃんでも大暴れ。言うまでもなく)。
>クラスタと石合戦するつもりはないけれど大河清盛についてはキンジパ見直してから出直してくれ
というのが私の感想である。
ハイハイ。是非石合戦しましょうよ、少しは中身を述べて下さいよw
おんなネトウヨ殿! そこにスケートババアが現れ「然り!」
あとはラヂオ体操第一ヨーイと晩ご飯ーーーの遊び人が揃えばババア百人力だー
ただし100万個集めても藤本女史のオツムの前には以下ry 昔のヤンキーのトンガリ方って何だ?
全共闘の若者は体制へ異議を申立て行動に出てスベって挫折した。
彼らのような「理詰め」とは異なり、清盛は体制の矛盾を直感的、経験的に実感して
青い正義観念を振りかざし空回りした。
もしかして、そんな未来の体制破壊者清盛の若き日の無頼像のことではなく、
政治社会の矛盾に目覚めたそれとは異なる、ツッパリ高校生ヤンキーたちのトンガリぶり
のことを言うのか?だったらぜーんぜん違うから。
おんなネトウヨどうなの?さらにもしかしてアホウヨらしく全共闘みたいで怪しからんというか?
だがしかし、清盛は決して理論派ではなかった。 >上手く言えないのですけど史実と創作を上手く融合させながら
>スケールのデカいイカれ方をするのってのが物凄く下手だった気がします
ふーん、せめて上手く言って欲しいんだけど。
それで史実なんてどうでも良かった花の乱は、どういうところが「上手い」融合なんだ?
根本的に史実を捏造しまくってどうやって史実と創作とを「上手く」融合させるの?
それで加納ずいてんなる歴史的基盤もなければ歴史的役割ももたないトンデモオリキャラ無双の
どこが兎丸より優れているのだ?
キンジパ信長と清盛のどこに接点があり比較対象となるのかさっぱりわからぬが、
せめてキンジパの信長は史実と創作を上手く融合させたスケールの大きいイカれ方であったことを
世間の皆様に紹介してみなよ。
そんでもって、仲代清盛と渡清盛は松ケン清盛よりずっと多彩でスケール大きな男だったんだろ。
どんなところ?この時代を任せられるような知識もなにもかもないのだから、せいぜい
新平家をリメイクするのがせいぜいなのよpgrしてるんだから、教えてくれよ! そんでもってミタニンスゲーで酔っ払ってたスケートババアさ
介護士やったり紐売ったりしているうちに「日ノ本一の兵」となられた
真田信シエ殿の造形はどんな点でスケールが大きいものだったの? そもそも清盛は無頼であったが、イかれていたわけでは決してない。つまりうつけではそもそもない。
好奇心に溢れ迷信が大嫌いな清盛は、持ち前の行動力を発揮して見知らぬ世界に臆することなく飛び込み、
様々な経験を積んでいった。そうした経験こそが、後の体制破壊者、交易国家の創始者を生み出したのである。
しかもこうした清盛の「スケール大きな」キャラ造形は、決して脚本家が勝手に創作したものではなく、平氏研究の
権威高橋教授が唱える人物像を着実に踏まえたものなのである(激情、好奇心、新し物好き、合理性、
行動力、粘り強さ、下々にも優しいなど)。
これらを「陽性」清盛とすれば、もう一つの清盛が、落胤設定から導かれた自我危機に悩む(ただし早々に克服)
「陰性」清盛である(落胤は自我の問題よりも、白河の血の支配の方に力点が置かれた)。
これについても、貧相な自我形成に終わってしまったのだろうこいつらは、「あの人は自分探しさせないと
話作れないバカだから」とpgrしたのであった。
しかしながら、清盛が陥った「自我危機」は人間誰しも通過するそれではない。専制君主と最大武門の長という
2人の巨大な父に挟まれた古今東西稀なる歴史的個性をもつ「スケール大きな」それだった。
そのような境遇に置かれて悩まぬ若者などいるはずもなく、そこに想像が及ばないババアたちの精神的貧困に対し
ご同情申し上げるのである。。。なお、ここで述べたのは青年清盛像にすぎない。その後の「スケール大きな」
清盛像の展開については改めて述べるまでもないだろう。 788 名前:名無しさん@恐縮です[] 投稿日:2017/12/19(火) 18:46:09.43 ID:/59QSTBd0 [12/14]
結局、芸スポといっても大河板と共通の極右運営が立て、いつもの連中が集まり、いつもの主張をするだけ。
そこに見てもないネトウヨが押しかけNHK攻撃に精を出す。
なんとまあおぞましくも陳腐なルーティンなんだろか。
女大河がーと女脚本家がーはこの差別主義者たちに必須のアイテムである。
低視聴率大河叩きのスレが立つと、そこに必ず大河板ではダンマリとなってしまったこのババアたちも登場し、
待ってましたとばかりに清盛叩きをおっぱじめる。
その中身たるや、ツイでの年来の主張まんまなもんだから、何ともわかりやすい。
>清盛は清盛パートが邪魔だ
>腹黒いだけの主人公の方が新しくて受けたと思う
>ただ明らかに「平清盛」は欲望や,恨みに忠実だった脇役のほうが明らかに生き生きしてたもの
>厨二もくだらなかったけど最後までつまらない善人に小さくまとめてしまったものね
>「武士の世を作るんじゃー」ってうるさかったのが一番のガンただの権力闘争・暗闘だっつうの
>そうね脚本家トンチキなもんだから
いややはいやはや・・・絶句。最後について→渡清盛が「新しい国」を連呼したり、真田尊氏が「美しい国」を
連呼するのは少しもおかしくはないが、現に「武士の世」という抽象的理念にとどまらない具体的な政体の礎を
築いた清盛が、「武士の世」を目指してはいけないのだそうだ。
清盛は、父忠盛がどんなに頑張っても公卿になれなかった無念にも鈍感で、腐った貴族政治の末期的現象に接しても
そこでお行儀よく生きて出世すればいいやぐらいにしか思っておらず、武士としていかなる社会国家を目指し、そのためには
何をすべきか省察することも行動に移すことも、やりたいことを実現するために必須な「権力」というものに対して想いを馳せることもせず、
ただただ無目的に生きて貴族と喧嘩しているうちに、ある日目を覚ましたら「あ、武士の世ができてたー」となるのだそうだ。
さらに信西と頼長との熾烈な「権力闘争・暗闘」は何だったのだろう。同志でありながら「国のカタチを正すその方向性」という
政策理念及び方法論の次元で決定的な対立に至ったのではないか(現実主義vs復古主義)。
清盛も信西も頼長もちゃちな「小政治」をやっていたのではない。「国のカタチ」をめぐる大政治次元で権力闘争をやった人物たちなのである。
「ただの権力闘」争ってホント何なんだよ・・・
毎日毎日お気軽に食べて見て呟いて2ちゃんで暴れて、でありながら上から目線で「社会批評」やってドヤする
優雅な日々を送られている方たちらしい「批判」といえばそれまでですがね。。。 > 毎日毎日お気軽に食べて見て呟いて2ちゃんで暴れて、
> でありながら上から目線で「社会批評」やってドヤする
> 優雅な日々を送られている方たちらしい「批判」といえば
> それまでですがね。。。
あれ、盛大なブーメランになってませんかね?
あるいは目くそ鼻くそ。 NHKスクエアのサイトを見たら
ひよっこや篤姫を抑えて
DVD部門の売り上げ堂々の1位!
どうしちゃったのよ♪♩♫ 西行がなぜかお邪魔虫に感じられて途中からは登場するだけでうんざりした。
なぜだろう? お邪魔虫と感じた理由を書いてもらわないと何とも。
出家遁世したはずなのに何でここぞという時出てくるのだ?とか。
ただ、待賢門院との道ならぬ恋の真偽はともかく、鳥羽院政期に北面時代の清盛の同僚。徳大寺藤原実能に仕えていたこと〜殿上闇討ち回で
侮辱されるままの忠盛に我慢できず清盛が飛び出そうとしたところで、「ここで行われておるはただの宴ではない。【政】だ。みなそれぞれ思惑あってここにおる。
お父上とて同じだ。お前さんが今すべきは、あの姿をよく見ておくことだ」と制した(和歌もどき回での清盛のパーフォーマンスは、いわばその「成果」である)。
崇徳の和歌サークルに出入りしていて懇意であっただろうこと。
出家後も俗世間と交わり、清盛とも接点を持ち続けたであろうこと。
奥州研鑽旅行後高野山に庵を結んで清盛の高野山造塔に協力。福原万灯会に同道。源平合戦勃発後は伊勢に居を移し、清盛の死には立ち会っていないこと。
清盛死後、東大寺勧進僧として鎌倉の頼朝を訪ねたこと(銀猫エピはそのまま、弓場の道?もう忘れたエピは、あの世の清盛召喚に繋げた〜
「お戯れを。京随一のいや日本一のもののふとは誰のことか、お手前はすでに御存じのはず」→清盛降臨)。
この辺りは概ね史実通りだろう。
うんざりというのは、ドラマの進行上その場にいらない人という意味なのか、キャラがウザいのか、はたまた藤木直人がウザいのか?
自分は、>>694で紹介した多面的な西行像、彼を出家前(文武両道のイケメン無双)→出家後(いざという時に現れ清盛を精神的にサポート、狂える清盛に直球諫言)
→最終盤(キーマンとして大活躍)といった具合に段階を踏んで動かしていったその出し入れの自由さ、そして藤木氏の演技が好きだ。
清盛オバサンたちが、「西行を海に投げ込め」と盛んに揶揄していたのは、あまり気分の良いものではなかった。
本作の西行は、モテモテのスーパーマン、真摯な宗教者(最終回が一番重要だが、造塔ミッションを投げ出そうとする清盛に俄かに真剣な表情で
諭した場面も、「西行なくして清盛なし」となった名場面である)、和歌の求道者、現世に未練を残す人間らしい生臭坊主、オシャレな美学者であった。 録画保存、リピートするほど熱心な視聴者ではなくてはっきり覚えていないのですが、ふと気になりました。
詳しい方のお知恵をお借りすれば何か思い出せるのではと、書き込んだ次第です。
おっしゃる通り西行登場のおもな場面はおおむね史実、あるいはよく知られた話だったと思います。
殿上闇討ちの清盛制止はオリジナルフィクションでしょうが、良いシーンだと思いました。
(和歌もどきにはいい印象もっていませんが)
遁世者と生臭坊主行ったり来たりは、前者に凝り固まるよりむしろ私好みのはずです。
藤木直人は全く知らなかったので、彼がウザかったのではありません。
となるとおっしゃる可能性のうち、ドラマの(ストーリー)進行上その場にいらない、ように見えてお邪魔虫に感じたような気もします。
あるいは不快なものを思い出させて申し訳ありませんが、オバサンたちと同じことを考えたのかもしれませんね。 貴殿オア貴女は間違いなく真面目に書き込んだと思ったゆえ、マジレスいたしやすた。
和歌もどきは、後々まで問題となる「成り上がり平家ゆえの涙ぐましい王朝文化戦略」の嚆矢となった回。
清盛は「形を変えた政である歌合」を逆転の発想で乗り切り、居並ぶ朝廷の面々に対し、堂々たる存在感を見せつけた。
しかし、そちら方面における自らの才能の欠如を自覚した清盛は、平氏が朝廷秩序で上昇するために必須の作法と教養を
息子たち孫たちに身につけさせようと、「文系」経盛を指南役としてみっちり仕込んできた。
その集大成が後白河五十の宴における維盛資盛による青海波披露である。
作劇上さらに重要だったのは、摂関家兄弟が清盛五十の宴に乱入し、和歌と舞の真剣勝負を求めてきた回。
この回は、考証高橋先生の強調ポイント〜王朝文化の支配者=政治社会の支配者という重大テーゼを
テーマ化した回であった。そこで平家方エースに指名され一歩も引かない力戦で答えたのが、かの武人歌人忠度
というわけである(容貌との不釣り合い!)。
上のレスは、このように長く広い射程をもった和歌もどき回が、傑作殿上闇討ち回で西行義清が清盛を諭した
「宴の本質」にまで遡ることができることを指摘したものだ。 忠盛殿もよき父、よき夫と思わせながらも
いつの間にか忠度を仕込むあたり
なかなか隅に置けませぬな 今宵もお馴染みの顔でござる。
つらつら思んみるに、藤木直人こと西行法師こそは、それがし中村梅雀こと徳川光圀、元前進座の竜宮小僧いやジジイと同じ。
つまるところ劇中劇もやる、都合のよい狂言回し兼ナレーターだったのじゃ。 最終回は明らかに狂言回しとして活用された。
ただし、ご都合主義というよりある種の必然性をもつものだった。
既出だが
・清盛は急死
・西行は京にいない
・志半ばで死を拒絶する清盛を慰撫し「納得させて」送り出す必要性<助言者>
・<宗教者>、長年の<友人>西行しか担えない
→
・救いを求める清盛の方から<幽体離脱>して伊勢に赴く
・死後京を訪れゆっくりお別れできなかった一門に遺言(代読から<イタコ>)
さらに、平家サイドから清盛とその時代を観察し続けてきた<時代の証言者>西行は、
いわば「ミネルヴァの梟」となり、平安と貴族の世の終焉を総括し、鎌倉と武士の世を告げる
最後の役割を持たされた。
それが再び<イタコ>となり清盛をあの世から召喚、頼朝との「継承式」をセッティングしたシーンである。
西行はこれを見届けた後、満足そうな表情を浮かべつつ退場した(お前さん、これで良いのだ、
こうやって歴史は動いていくのだ)。
最終回のメインイベントとなったこのシーンは、頼朝助命のシーンへの応答という意味でも
必須のものであった(見せてやる、眺めておれ→見せてみよ)。 必須のものであった(見せてやる、眺めておれ→見せてみよ)。 西郷どんドラマガイドゲト。
初めから原作者と脚本家の名前だけでネガキャン張られてるが面白そ。
だいたい昔の脚本家は担当した時代と人物に声が掛かった時点で通暁してた、なんて法螺でしかないからね。
決め手は脚本家の才能とバックアップ体制(P、考証他)だよ。
この点、清盛は最高だった。 弁慶万吉演ずる生涯の天敵久光はかなりの大役の模様。
日本一の不覚人とタマキンから罵倒された信頼も最後まで頑張りそう。
徳子はこちらの愛加那さんのが似合ってるかも。
すぐ下の弟をやる基盛と大久保パパをやる明子パパは意外と大きな扱い。
なんつーかシチュが似ている。
それにしてもイケメン西行阿部正弘の扱いがここでもモブ並なのは寂しい。 正直原作はセレブな私がお金と人脈使ってちょっと調べて纏めました
以上の印象を持てないんだけど、
良くは知らぬが面白い話が書けてヒットメーカーだという脚本の熟女を、
二重三重に手厚くフォローする体制で臨んでいるように見える。 #Twitterトレンド大賞
こういうのが5年前あった記憶はないが、あったら清盛が大賞で磯Pが表彰されたってことか?
ということは、
最低視聴率されどツイッターで大人気、ネット時代における新しい大河のモデルとなるだろう!
とでも喧伝されたのかいな?
たぶんなかっただろうけどw実際、エンタメコンテンツ・オブ・ザ・イヤーにはチト遠い。
それにしても、紹介記事読んでも、早〇、〇絵などのプライオリティは明らかに清盛にあるのに、
例によってシカトされてるヤレヤレ。 どうやら再販もあっという間に売り切れ在庫なしとなりそうな勢い。
追加生産されれば良いのだが、まずもって生誕900年ということで再放送してくれなんしょ。
放送当時の視聴率と作品の愛され指数との乖離を、これほどあからさまに証明し続ける大河って、
たぶんおそらくいや絶対に清盛をおいて他にない。 BS予測
1 徳川慶喜(幕末幕府側相互補完)
2 八重の桜(幕末幕府側相互補完)
3 翔ぶが如く(重なりすぎてかえってやりずらい)
4 篤姫(相互補完にもってこいも再放送済み)
5 平清盛(時代的には対象外も生誕900年、再評価の機運)
まあ期待しない方がよろしいかと 西郷どんのドラマストーリーを読んだ感想。
西郷と月照との間柄が「怪しい」ようには見えなんだ。バッシングを受けて軌道修正したかもしれないが。
いずれにせよ、薩摩士族の「風土」紹介の観点から、また月照との関係において、男色を描いて悪いわけではないのに、
BLつまりボーイズラブという現代の流行り言葉ないし視点を作り手が語ってしまったのがよろしくなかった。
家盛と頼長のアレが、決してBLとかいう言葉で批判したり、逆に持て囃したりできるものでなかったことについては、
そろそろご理解願いたい。 ちょっとした「失言」がネットで瞬時に拡散し、集団バッシングの格好の餌食となるこのご時世。
「国民的大河」ともなればいっそう作り手は、コンセプトの打ち出しにせよ、キャッチフレーズ選択にせよ、
慎重になるべきだ。
この点、大河清盛が喧伝した「リアルな平安」はややミスリーディングで、案の定、標的となってしまった。
「リアル」といっても「平安をそのまま再現」できるはずもなく、映像面・美術面から「出来るだけ当時の
雰囲気を伝える」べく凄まじい努力を重ねたことを意味したに過ぎない。
だがしかし多くの人々は、そのような努力を正当に評価することよりも、重箱の隅を突いて「これは違う」
とドヤすることに夢中になるのだ。
人物造型にしても、それはそれは資料・学説をよく咀嚼して「リアル」に近づけていたが、デフォルメが
なかったかと言えばもちろんそんなことはない。
初期清盛は「無頼」伝説に寄りつつ、「未来の体制破壊者、交易国家の先駆者」という視点を押し出して、
「綺麗に烏帽子を整えてお行儀良く朝廷に出仕したおぼっちゃま清盛」に優先させた。
また晩年の狂気は、「白河の血の再帰」という、落胤設定を最大限展開させたフィクションに他ならない。
頼朝は、「孤独な流人、京を懐かしむ貴種」というかなり共有されつつある人物像に、頂点に駆け上る
清盛平家との幾何学的とも言える対比描写を加味して、「ゼロ地点から再出発する頼朝」「息子を〈清盛に
殺されて〉蝕まれる頼朝」というふうに、スローライフをそれなりに享受する頼朝を超えたデフォルメが
なされた(平家転落の画期となった鹿ケ谷事件で西光をボコる時、頼朝は政子と結ばれた。しかもこれは
現実の歴史過程とほぼ一致するのである。以降、清盛平家は翳り頼朝は急上昇)。
「歴史上の人物」が担った史的意義を明らかににしつつ、ドラマ内での内的論理によって脚色することを
大河の登場人物たちに求めるとしたら、本作の清盛と頼朝ほど「奇を衒った」どころか、一つの規範と
なりうる人物造型を他に見いだすことはまずない。 ●他スレで今さらながら>以下の批判を読んだので、間違ってもこれに影響されてご新規さんが遠ざかることのないよう
再掲します(一部修正)。
大河清盛は、平氏、源氏、朝廷(王家、摂関家)の3パートが相互に作用し合い関連づけられ(中でも力関係の推移に焦点)、
そのフォーマットの中で多彩なキャラが織りなす多元実況的歴史劇そして人間ドラマであった。
でありながら、最初から最後まで主人公清盛が中心軸を失って漂流するところが一度もなかった真の群像劇であった。
ガキ時代ですらそうだ。多くの女大河の主人公や真田信繁のように「狂言回し」であったことすら一度もない。
未熟で視聴者をイライラさせても、人間ドラマの魅力や歴史の起動因が他パートにあった(保元の乱は朝廷サイド)初期においてもそうだ。
棟梁となった以降は徐々に存在感を増して行き、平治の乱で独り勝ちとなり政界の第一人者となって以降は、
ドラマの中心軸と歴史の主役は完全に一致した(でありながら多元的な群像劇をやめない)。
>主役に見えなかった?
どこが?初期も「清盛オンステージ」を必ず設けて、むさ苦しい程主役主役してたが。
>いかにも身分が低い者たちのような描写。
どこが?これまでの議論の蓄積を知らないのか?落ち目の源氏為義とは対照的に、忠盛は京の治安維持や強訴防衛
(蓄えた荘園を取引材料とするシーンもあった〜軍事力と経済力をリンク)などで軍事力を発揮して鳥羽院に貢献、重用されていった。
さらに、得長寿院寄進を始めとする経済的奉仕により鳥羽に巧みに取り入り、遂には殿上人へと昇進した様が描かれた
(さらに位階を上げていったものの公卿には至らず、この父の無念が清盛の原動力の一つとなる)。
院宣偽造による密貿易にまで手を出して経済力を高めて行ったワルの忠盛も、美化隠蔽することなく扱われた。
つまり、忠盛は最大武門の長にして大金持ちの新興貴族であり、その金持ちぶりは数多くの家人(ケツモブ)を抱えていた様やここぞという時に
大盤振る舞いした宴からも明らかである。
にもかかわらず、深謀遠慮(貴族からの反発を想定―殿上闇討ち回)に長けた忠盛は、六波羅での日常は華美贅沢を控え、質素に振る舞ったのだという(頼長)。
すなわち、「外観的には武士らしい質素な生活と身なり。他方で急上昇する大金持ちの躍進新興貴族平氏」の両面を、大河清盛は
極めて的確に捉えていた(発生論である「軍事貴族」論には深入りしなかったものの)。貴族趣味に走るのは清盛の世代、しかも平治の乱後だ(この点も描かれた通り)。。
あと言っとくけど、清盛は白河の落胤であり、忠盛の「甘ったれたおぼっちゃま」だったからな。突っ張ってグレても。
そういう出自と生育環境から広い世界に飛び出していくことで、後の清盛の素地が出来ていった。
服装という「可視化された身分コード」を「体制反逆者」を表す記号に用いた演出に対しては批判があって当然だが、
それを「制作サイドの無知」の証とするとは笑止千万だ。「身分コードを分かってないと使えない」演出なのだから。
しかし、元を正せば清和天皇に遡る凋落中の為義、バーバリアンも多数輩出した源氏まで皇族のように描け、さもないと歴史無知となるんかいなヤレヤレ。 >>367
あんな白い着物で宋風を表現しようとしたの?
白無垢やウェディングドレスをイメージした白だと思うよ >>712
あれこれあって遅レスになって申し訳ありませんが
清盛が文化面でも貴族層を凌駕がしようとしていたことは、ご説明いただくまでもなく普通に視聴して理解していたつもりです。
和歌もどき回も政事的闘いであることを踏まえつつ頼長、崇徳院の突っ込みまでは楽しく見ておりました。
が、鳥羽院の一言で打ち倒されました。ありがちな主人公あげの印象が強すぎます。別のセリフで鳥羽院圧倒を表現してほしかったです。
清盛は今世紀の大河で最高傑作の一つと思いますが、私にはその分「海賊王」などええっーとなる時の破壊度も強く感じられました。
清盛五十は好きな回で何度か録画を見ました。夕日招き返しをこんな形で使うかと圧倒されました(深い考察があればご教示ください)
ただ大河義経のウンザリ感が尾を引いているのか、牛若の意味がよくわからなかったのと(こちらもぜひご教示ください)
和歌合戦はとにかく影の薄い経盛を起用して彼の見せ場にしてほしかったと、個人的には思いました。
忠度の方が意外性があってより摂関家を圧倒する効果はあるのでしょうが、これ以上キャラ増やさなくてもと思いました。
その後の忠度については、遺言で和歌日本一と認定されたことしか覚えていません(清盛に認定されてもと良い意味で苦笑しまして) >鳥羽の一言
和歌もどき回は
・歌会は、参加者それぞれの思惑が渦巻くもう一つの政治の場であり(崇徳の歌が披露されると、さっそく崇徳vs美福門院、頼通vs頼長で嫌味合戦)、
平氏の新棟梁清盛にとって、朝廷の面々から棟梁の資質を探られ、試される場であった。
・もちろん歌会である以上、お歴々に伍して朝廷=貴族政治という特権的空間に参画する資格となる王朝文化についての教養が試される。
・しかし、清盛にそちら方面での洗練された才能は皆無であって、どんなに知恵を絞っても面々から合格点をもらい、自らの存在を証明することはできない
(代作屋西行はもういないし、そのような誤魔化しは通用しない)。
・そこで清盛は、歌会(宴)=政(まつりごと)という本質を捉え、自分に問われている核心部分は「棟梁としての器」であることを見抜き、
逆転の発想により、その場を「平氏新棟梁の所信表明」の場へと転換させる作戦にでた。それが「家族と一門が第一」を内容とする和歌もどきである。
それは清盛から居並ぶ貴顕への堂々たる、いや不敵ともいえる挑戦状であった。
ここで朝廷の面々のリアクションが重要である。
・頼長(和歌下手、激おこ):「お題は春ぞ!」→和歌であることを認めてしまっており、清盛の真意を掴めない。
・崇徳(和歌名人、呆れる):「もはや和歌ではない」→真意に無頓着。
・美福門院(呆れつつも感嘆):「なんとお諸刃な剣のような男じゃ」
・鳥羽(崇徳との関係思いを馳せ):「だが、もっともわれらに足りぬものを持っておる」
・信西(興味と期待):「まこと、人を食った男にござりまするな。いかが見なさる。平清盛は世の禍となるか、宝となるか」
・雅仁(実は一番真剣な表情で清盛の歌を読み解こうとしていた。信西から問われるとすっとぼけて):「私とはかかわりのないことじゃ」
そして、清盛の和歌もどきに対して、和歌次元の評価でしかリアクションを示さず、呆れあるいはバカにした面子は保元の乱の敗者となり、
和歌の先にあった清盛の戦術に気づき、あるいは読み解き、歌会を俺様発表の場に異化してしまった清盛の大胆不敵さに、
「平氏の新棟梁、なかなか手強し」と感じ入った面子は、保元の乱の勝者となったのであった。
鳥羽は、歌会という公的な場で、平氏の「一蓮托生」性を乱れた王家に対するアンチテーゼとして突きつけた清盛に、棟梁の器を見たのだろう。
よくある陳腐なアゲ描写では決してない。 >海賊王
このちょっとした戯れ描写を嫌いな人を説得する気力が失せてきたのだが、ともかく盟友兎丸の悲劇的な最後まで続く長ーい清盛との関係描写に着目してほしい。
平家にとって海賊討伐がもった歴史的意味が、兎丸を動かすことで存分に解明されていたのみならず、オリキャラかくあるべしの見本を示した。
なお、高杉真宙くん演ずる小兎丸が、破綻した両者の志を等しく承継することで、兎丸と清盛とが再び結合したことも重要
(清盛無念の還都に同行せず、大輪田に居残り父の志を継いだ小兎丸。さらに最終回では、大海原に力強く漕ぎ出でて海に賭けた清盛の志を継いだ)。
人気のイケメン高杉くん、チョイ役のように見えて実は結構重要な役だった。 >夕日招き返し
清盛の歴史的偉業の一つ〜音戸の瀬戸開削については、兎丸と清盛との「喧嘩」(アホかあそこ狭いんや→広くすれば良い)、盛国の解説、
そして五十の宴に押しかけてきたシニカル兼実によって再三言及された。
日招き伝説は音戸の瀬戸にまつわる奇跡譚であるが、音戸の瀬戸で工事ロケをやるわけにはいくまいし、金が余ってやったとしてもたぶん様にならない。
ところで、この伝説は絶頂に駆け上る清盛が奇跡を起こすほど巨大な存在となったことをシンボライズしたものだ。
だとすると、旭日昇天の勢いで上昇した清盛の絶頂期〜国の頂にたった時点ではなく平家が「もっとも幸福であったとき」〜に位置づけられた五十の宴回は、
この伝説を用いるのにもっともふさわしい場といえるだろう。
しかし、ドラマ上着目したいのは、上機嫌で酔っぱらってふらつく清盛を、盛国が「殿、お足元があぶない」と奇跡の場面で注意したこと。
この描写により、その後の平家の行く末を知っている視聴者は、栄光の日招き伝説のシーンがあたかも白昼夢のように映ったのである。
もう一つ、この奇跡譚が瞬く間に京中に、さらに遠く東国の伝播して「巨人、清盛恐るべし」のイメージを否応なしに拡大したことも見逃せない。
京の貴族たちのみならず、頼朝はじめ東国武士たちもすっかり恐懼・萎縮してしまい、いよいよ清盛による支配に飲み込まれていった
(例によって空間結合のアイテムとして利用)。 >牛若の意味
五十の宴には清盛を父と慕う無邪気な牛若も乱入してきた。
たしかにそこだけ見れば唐突感がある。牛若が平家に育てられ清盛を父と慕っていたという割には、義経大河でない以上それまでさしたる描写がなかった。
しかしかなり後、弁慶と「再会」し真実を知った義経が母常盤に別れを告げにいくシーンで、常盤は「いかなる事情であったとしても、
入道様はそなたの父代わりになって育ててくださったお方。その恩を忘れて刃を向けようなどと、ゆめゆめ思うてはならぬ」「母は許しませぬ」
と義経を諭した。この場面を唐突なものとしないためにも、五十の宴で懐いた義経が押しかけてきたシーンは意味があった。
>経盛を起用して
実際の能力としても、平家歌人の大エースは名だたる武人歌人であった忠度だろう。
経盛はキャラ的にいって武の教盛と対比された文系キャラで、二人合わせて一人前(時忠が茶化し、清盛も最後遺言でほほ笑む。
壇ノ浦では二人一緒に入水した旨ナレ朝)。つまり一人では半人前なのだから、摂関家との「文化闘争」となった「歌合戦」のエースにはちと不足。
つまり、あそこで登場した忠度は、兄弟全員だして見せ場を作ってあげましょう以上の意味をもち、そこには意外性ではなく必然性があった。
残念ながら一の谷は省略せざるをえず、(ノベには歌が紹介されているが尺なし)熊野踊りの懐かしい回想と共に退場したが、正直、一の谷での奮戦よりも
重要な貢献を平家にしてくれたのが歌合戦回であり、それに相応しい人選だったと思う。
なお、清盛兄弟の重要度は、家盛(初期)=頼盛(後期)〜いずれも正妻宗子の子>忠度〜熊野育ち>経盛=教盛〜忠盛が「外で作った3と4」の順だろう。 田舎育ちのむさ苦しい外見と天才歌人との間にはギャップありまくり。
この点で忠盛は大いに意外性をもっていた。
ここで言う必然性とは、摂関家のエース兼実に対抗できる平家方エースは誰が相応しいか?に関する。
歌合戦はもちろん創作エピだが、熊野時代に両親(母からも)から受け継いだ才能を磨いていたのは確かだろう。
だとすれば、初登場(都は初めて)で見せたギャップ(外面と中身)は不自然ではないし、そこから意外性を引き出した
ドラマチックな創作と言えるだろう。その後、ムロ忠度は容貌も服装も洗練されていった。
こうして1回きりの見せ場であっても、「平家を朝廷に世間に認知」させる上で忠度は重要人物であった。
ところで、存在すら当初忘れていた清盛は、忠度の才能を同時に思い出して(誰から知らされており)指名したのか、
それとも第六感から指名したのか?本人の口から「むにゃむにゃ」曖昧な答えをさせて誤魔化したのも上手かったw >>732
おっしゃることはすべてもっともです。一番痛いところを突かれた鳥羽院が素直に感心するのがいただけないだけですよ。
その際の鳥羽院の表情は覚えてないですけどね。 >>733
長ーい目で見たらおっしゃる通りです。それは否定しません。
ですが序盤で私みたいな層をうんざりさせ、中盤に続く陰惨な展開でライト層を遠ざけ…では長期間のドラマとしてどうかと思います。
一種の炎上商法だったのかもしれませんが。 >>734
盛国の言葉にのちの没落を暗示する効果があったことには気づきませんでした。ご教示ありがとうございます。 >>735
清盛主役で義経を無視するわけにもいかず扱いが難しいので、ちと唐突に思った、しかも自分の好きな回で目立っただけです。
それほど不満はありませんが、ご教示いただいて義経の葛藤を強めるためかと納得しました。 >>735>>736
Wikipedia見ただけでなんですが、経盛がエース歌人と思います。当時の歌壇で一定の存在感があったようですし。
教盛にはいくつか見せ場があったと思いますが、経盛は無視するわけにはいかないので仕方なく出した感がうかがえました。
忠正、家盛、頼盛、基盛あたりがしっかり描かれていたのでそのうち経盛もと思ってましたが、結局最後まで付け足し的でした。
登場はキャスト中でも有数の長期に渡るのにほぼなんの見せ場もなく、得意の和歌もぱっと出の忠度に持っていかれる。
同時代的にも他の創作でも同様なのでしょうが、経盛卿があまりにもおいたわしいです。
見せ場を私が見落としていたら、またお手すきの折にでもご教示いただきたいです。 キチンと見た上で疑問を持ち、不満を抱き、終いに見るのをやめてしまった人々には、
もう一度見てみてとお願いしたいが、どうしてもダメならしかたがない。
批判の根拠とされたことが本当に成り立つか、自分の考えを提示して再考の機会をもってもらえばそれで良い。
何しろ清盛に対しては、貴殿貴女のような真っ当な批判なんぞ今以て少数で、悪意に満ちた中傷や
初めから全否定するがために因縁をつけてくる連中が圧倒的だ。
それと、自分は大河清盛について尋常でないクオリティをもつ歴史ドラマだと思っているが、
清盛流が日曜8時に家族が団欒しながら楽しむエンタメ大河の正しいあり方だとは思っていない。
P、脚本、演出、美術、デザイン等全員が気張りすぎ、肩に力が入りすぎたことを否定するものではない。
なので、ベストとは言わずオンリー1大河だと常々言っている。
経盛と忠度がどちらがエースか?自分に判定能力はないが、wiki見れば分かるように、忠度は今でも盛んに取り上げられる
有名和歌を残しているのに対して、経盛は?(素人ゆえ知らないだけかもしれないが)。
それよりも強調したいのは、経盛のドラマ内のキャラ設定。何しろ保元の乱時、一緒に和歌を読みたいから崇徳につきたいと
「空気読めない発言」をするほど武より文が好きで、真逆の教盛と「合わせて一本」的キャラであった
(入水まで共にした史実を投影したのだろう)。やはり設定上は、残念ながらトータルで超1流とはいえない人物であった。
ただし、相対的に重要度の点で劣った経盛であったが、息子たち、孫たちにしっかりと和歌や舞を仕込み
平家こそ統治者に相応しい王朝文化の担い手であることをアピールする・・この清盛の戦略を実行する上で欠かせない
指南役としてその後も重きを成したのであり、経盛に対するリスペクトを欠いていたわけではない。
ドラマ上は、摂関家エースにぶつける平家エースは「天才」である必要があり、それが忠度ということだろう。
これが不満なら経盛の基本設定自体が間違っていたと主張すべきで、そういう意見ならば特に反論はない
(これで良いと個人的には思っているが〜人物の軽重をつけることもドラマに必要な交通整理であり、その際、清盛世代、
重盛世代共、正妻腹とその他で区分するのがもっとも合理的。軽めキャラの場合、「文武2人合わせて一人前」は
記号的で分かりやすい。それでも盛盛攻撃に降参する視聴者が多数出た)。 もっとも清盛自体、文武双方特記事項なし!なんだけどねw
しかし、清盛はそれをカバーする「人間力」が半端なかった。 みをつくし総集編録画。
長大な原作の世界観を活かしながら、短い尺にまとめるために因果序列を整序したり、
オリジナルエピを追加したりしながら再構成した本作。
清盛最終回を思わせるような緊密な構成であったため、削るところがあるのやら心配したが、
ここはあれがあったからこそ意味をもつ的な場面のカットもあったものの、見事な編集作業に感嘆した。
清盛総集編は1回見たきりで正当な評価はもはやできないが、やらないよりマシという感想よりも、
全50回を目いっぱい使って、タテヨコ緊密に張り巡らせた一つのストーリーを紡いだ本編の醍醐味をほとんど伝えてない、
との不満ばかりが残った。エピを並べていく旧来の大河とは大きく性格を異にする大河清盛の宿命だろう。
どんなに優れた編集能力をもつ作り手といえども、50話を3コマ3時間程度?にまとめるのは無理だと思う。
なお、みをつくしのツイを見たら、お年寄りにも好評とのこと。
再び藤本女史と清盛制作陣が組んで大河を作る機会があるとしたら(もしかして程度の確率)、もう少し視聴者フレンドリーな
大河を目指すべきだろう。 【警察による国民監視衛星の悪用】
◎電磁波を使った国民に対する人体実験・虐待・拷問・性犯罪
『未分類 電磁波による拷問と性犯罪 Archive. is』の記事を御覧ください。
http://archive.fo/sFWAh
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【告発者】高添沼田(葛飾区青戸6)
◎日本全国にたくさんの被害者がいます。
@私、高添沼田のオヤジはこのような犯罪を絶対に認めないし絶対に許さない!!
A私、高添沼田のオヤジはこの犯罪の撲滅のために最後まで闘い抜くことを誓います!!
B私、高添沼田のオヤジは邪悪な警察権力に対して敢然と立ち向かうことを皆様にお約束します!!
C私、高添沼田のオヤジは被害者に代わり自らが電磁波による人体への攻撃を受ける覚悟でいます!!
D私、高添沼田のオヤジはたとえ孫が電磁波攻撃にさらされようとも闘い続けます!!
637長介「高添沼田の孫を犠牲にしてでもこの犯罪を撲滅してみせるっ!!」2017/12/31(日) 14:13:33.07ID:gpbqMfQq
高添沼田のオヤジ「孫への電磁波一斉射撃やれるもんならやってみさらせっ!!」
長木長介「高添沼田の孫への電磁波一斉射撃ぜひお願いしまふ」 もうよろしいではござりませぬか
気楽に言いおって( *`ω´)
気楽に参りましょう(^▽^) 兎丸、ジャニにあらずんばじゃなかった、ジャニあらばオンデマンド無しじゃ 伏線回収!
あまりにも安直に使われるこの賛辞が嫌いなんだけども、
これぞ伏線of伏線ズだと跪くしかないのが竹馬エピ(創作)→木下エピ(平家物語)。
木下→竹馬と遡及しても良い(馬から連想された竹馬)。
何でかというと、これによって従来の奢れる平家、無能ヘタレ傲慢な宗盛像に、
ズズッと複雑な陰影を加えることが出来たからだ。
平家という巨大戦艦を舵取りする棟梁としての器の欠如を、誰よりも知っていたのが、
他ならぬ宗盛であった。
至らぬ自己を見つめてコンプに苦悩する姿があってこそ、身を投げ出しすべてを晒して
入道に迫ったあの還都進言は、頑迷な入道を動かし得たのである。 竹馬エピは、忠正大叔父様処刑シーンのために用意されたもので、
そこで視聴者のベタなお涙を誘って役割を終えたと思っていた(それだけでも大した創作)。
まさか木下エピと接合されることとなると予想できた人間は皆無だろう。
このように、〈予測不能〉な「新たな意味上の展開」をもたらす布石を本物の伏線と呼ぶならば、
鳥羽エア矢や竹馬エピは、大河でまずお目にかかることのできないホンモノのソレと言える。 清盛ファンからですら不評だった和歌もどき。
たしかに、アレを下らないと見捨てず付き合うためには、清盛和歌下手という史実と
歌会(宴)は形を変えたもう一つの政治の場であることに対する理解が前提となった。
しかし、この前提をすっ飛ばしていきなり和歌もどきをもってきたかといえば、そうではない。
明子へのラブレターを義清に代筆してもらい、おまけに洒落た明子の返歌に「さっぱりわからんぞ、アハハ」
と愉快な清盛クンがあったではないか。
そして義清が、「ここで行われているのはただの宴ではない政だ」と清盛に諭すシーンも挿入済みで(殿上闇討ち回)、
こうしたダンドリを踏んだ上での和歌もどきであった。
さらに、和歌もどきはそこで終わらなかった。
重盛から鹿ケ谷の顛末について報告を受けて落胆した後白河は、「疼き始めておる、現における物の怪の血がアハハハハハハ」
といつものように哄笑しつつ、清盛へ向けた次の「双六の一手」に考えを巡らし、(西光と成親を失ったが)
「わしにはまだ手駒がおる」とうそぶいた。
そして、矢継ぎ早に挑発を重ね反撃に出た後白河は、基房に清盛作懐かしの「和歌もどき」を披露して、
「あやつを突くには子を突くに限る」と宣言、ここにおいて「残っている手駒」とは重盛であることが
明らかになった(決定的な挑発材料となりえ、現に歴史上もドラマ上も治承クーデターを引き起こす)。
記憶力抜群で破格の心理洞察力を有するゴッシーは、当時無関心を装いながらも、「家族と一門の絆」にこそ
清盛の強みのみならず最大の弱点が宿っていることを鋭く見抜いていたのである。
こうして酷薄なサディスト・ゴッシーによるあの悪魔的所業=「重盛嬲り殺し」の悲痛なシーンがやってくる。
このように、和歌もどきもまた長大な射程をもつ伏線であったことが了解できるだろう。 重盛嬲り殺しのシーンは、言うまでもなく、9話「二人のはみ出し者」のラストを完璧に受けたものでもある。
こちらは、幼児重盛を挟んで重盛自身を賭けの対象(〈所有物〉として好き勝手使う)とする構図そのものから、
板挟みで苦しむ遥か後の重盛を予告し、治承クーデターの布石とするシーンであることが明白だった
(「この先清太に害をなしたらただではおかんぞ!」→歴史事象としては越前国没収(盛国報告)。主観面で清盛の
怒りを大爆発させたのが「重盛虐待」である→挑発の効果を甘く見たゴッシーの想定を超えてクーデター勃発)。
また、キ印級のトンデモしかし孤独でピュアな雅仁の切ない内面を伝える台詞も、これらの場面に正確にリンクしており、
子の立場からも親の立場からも、親子の愛情とは無縁であった後白河にしか分からない真実味がそこにはあった。
「・・・脆いものぞ親子の絆なぞ」→ところが、あんなに重盛を蔑ろにした清盛であったのに、最後に重盛への
深い愛情を示したのは、後白河にとって想定外だっただろう(取り返しのつかない後悔の表情で子を抱き抱える
レーピン「イワン雷帝」の如き演出。この上なく親子の絆は強かった・・・)。
次の「だがそなたにも流れておる。王家・・・白河院の血が。きっといずれ疼こうぞ現に生ける物の怪の血が。
アハハハハハハ!」を受けたのが、西光、成親虐殺の報を聞いて発した>>788の台詞。 DVD再版されてるらしいけど、ブルーレイはでないのかなあ 更新されたNHKスクエアのDVDランキングを覗いたら
篤姫がランキング外に去ったのに対し清盛は依然トップでウソみたいに売れている
ブルーレイのハードルは大河以外のドラマを見てもかなり高そうだが
出せば売れるの間違いないのに渋谷から「指を加えて眺めておる」のは
下策の極まりでござりましょうNHK殿。 西郷どんの初回感想ー何もかもふつう。万人に受けそうな諸要素を取り入れ、平均点を目指した感。
映像テイストが清盛と似てるとの感想が出てるが、白い粉が恋しいw
いきなり過激派宣言した清盛と比べるとやや物足りないが、大河の掴みとしては面白い初回だった。
清盛初回放送直後の反応はどうだったのだろうか。その時、大河板にいなかったので知らない。。。
清盛1話の特色をあげるとすれば、ほとんどあらゆるシーンが、その後展開される物語へ向けた種まきであり、
些細な事でも見逃すことのできない意味をもっていたことに、後から気づかされること。
何しろ、ラストまで見てもう一度冒頭に回帰して初めから見直すことで「ああそういうことだったのか」
と納得させられる、そんな場面が続出する初回だった。初回にすべてが詰まっていたと言っても間違いではない。
そういう凝縮した情報量満載の初回であったから、いろんな感想や批評で賑わっただろう放送直後の段階で、
本当のところを理解した上で批評できた者は〈原理的に〉誰もいなかった。
面白かったつまらなかった、良かった悪かった・・・どれもまださしたる根拠のない「個人の感想」止まり
だったってことね。われもまだ「よくわからんけど変わってる、こりゃ面白そ」レベルだた。
汚い白い王家がーとかそんな話のことではなく、ドラマ解釈のことですよ。。。 タイガドラマモオモシロイケドオススメノジョウホウ
グーグル検索⇒『立木のボボトイテテレ』
5HZC9 城山〜城山、銅像はコレジャナイはブックエンドを志向してるんだろうけど
清盛ヲタには既視感がありすぎて困るw 今思うと、大河ドラマの第一回に子役ショーもなく、どころか主役たちの顔出しもしばらくなくて、島津斉彬と阿部正弘の対話からはじめて、
鎖国政策のゆらぎをまずドラマの前提として設定した「翔ぶが如く」って、圧倒的に凄いドラマだったよね。幕末・明治ドラマとしての覚悟が全然違った
?
毎回思うんだけど、大河ドラマって単なる時代劇じゃなくて「歴史のある一時代のドラマ」なので、その時代相をちゃんとドラマに織り込まないと全然面白くないわけよね。
そういうの抜いちゃって1時間とか45分とかを、見え透いたようなシーンで埋めるから、ただもう間延びして退屈にしか思えないって。
まあ、あれだ、このコクの無さと平凡さとどっかで見たようなセリフと場面のオンパレード1時間、という初回の趣は、近年では「官兵衛」なんかそうだったけど、
とりあえず渡辺謙が真ん中にドンといるだけで、なんかそれだけでいいよねという満足感、これでだいぶカバーするよね。?
んで、歴代大河のタイトルをまとめて検証してOP顔出しあり・なしで見ると、ホント政宗以外のOP顔出しありは、まさに駄作列伝みたいなんだけど、
顔出ししなしでも「花燃ゆ」とい不朽のスーパー大駄作があるから、そこは一概には言えない。
そうそう、OPに主役が顔出ししても駄作にならなかった、むしろ傑作でしたという例外中の例外は、渡辺謙主演「独眼竜政宗」よん!…ってか、
OPに主役が顔出ししたのがそもそも「政宗」が大河ドラマ史上初めてじゃなかったかしら。たしか。
★まあまあまあ、あまりのアホバカぶりとお前何様ぶりを徹底的に晒されて、少なくとも表舞台からはご隠居状態のかのゆうじんあん先生。
復活したくてウズウズウズウズしておりましたが、新年新大河ということで鬱屈した自己顕示欲を久々爆発させておりました。
OPネタにせよ、何百回この2ちゃんでwww同じ書き込みを読んだことでしょうか・・・
翔ぶがごとくをひらすら賞賛し、西郷どんを腐す毎度お馴染みの「昔はよかったー」戦術により復活したいみたいです。。。。 ★6年もたって、このおば様の令名も醜態もご存じない方もいらっしゃるでしょうから、久々大傑作をご紹介しますねハアト。
というのは、去年の作品が、もうどうにもならない駄作で、こんなもんしか書けない脚本家をなんで大河に引っ張ってくんの?
そこになにか後ろ暗い、チーフPとの癒着とか派閥抗争のような構造的な問題があるの? 大河ドラマはいっぺん外部チェックシステムのようなものを
(坂・雲でやった脚本諮問委員会とか)導入して、組織改革をふくめて自浄する必要があるんではないの?とけっこう深刻に考えたりしたのです。
八重の桜の脚本家は、なんかあって降ろされたのか? 事情はよくわかんないんだけど、脚本家更迭ということが大河ドラマの制度的に可能なら、
なんで平清盛の脚本家を更迭してくれなかったのよ。
中井貴一さんと國村準さんは、雲霧仁左衛門で、平清盛でNHKにつけられたケチを倍返ししたとおもう!うん。
思うにわたし、「平清盛」って、岡田将生君が頼朝の本役で登場したときのインパクトが無かったら、半分で見るのやめてたと思うんだよね。
まあ、たいがい毒吐きながら罵り倒して見てたんだけど、それでも、毎週あの美貌が拝めるのは楽しみでしたよ。ってか、それだけでしたもんね、見どころは。
思うに徳田虎雄っていう人は平清盛みたいというか、平清盛をちょっと徳田虎雄氏に
置き換えて見たりすると、リアルに人間像がイメージできる気がする(あの出来損ないのドラマよりずっと)。 で、このナレの果てババアに呼応して、またまた大暴れしてるのが、お隣の信濃の山猿ことおんなネトウヨなんですよコレが。
毎日先生先生とつれない慕情を表明しては、自分までビッグになってしまった哀れな喪女。
こんだけ全世界へ向けて自己顕示してアピールしておきながら、お給料もらっている「近所のランドセル工場の社長さん」を
遥かなる高みから糞みそバカ呼ばわりして大丈夫なのでしょうか?いらぬご心配申し上げます。
侘助
も一つ言えば逆に「清盛」は「新平家物語」の焼き直しで良かった気がするのw
何度聞かされたことやら、是非その大御心をここで説得的に述べてもらいたいですね。。。 今年も元気に遊人庵と侘助叩きか?
自分もこの二人は大嫌いだけどねぇ〜 (死にたくなければ)強くなれ!来たね
強うなったな隆盛!は来るか?
斉彬の力量を西郷が凌駕し始め、ようやく斉彬は西郷を後継に指名、藩主の座を譲る
ーみたいな平氏棟梁交代劇類似の関係はないので、たぶんない。
しかし、強くなった西郷を抜擢する布石となる良い台詞だった。
大河清盛では、檄を飛ばし清盛を叱咤激励した忠盛が、同時に宋剣を地面に突き刺して去ったことの意味がさらに重要(突き刺し=授与)。
この忠盛の行為には、平氏の武威を象徴する宋剣(清盛にとっては平安版グローバリゼーションのシンボルでもある)を清盛に譲り渡すことで、
「成長して俺を追い越し後継者となれ」との期待が込められていた。
これで驚いてはいけない。なんとこのシーンは頼朝助命の場面において「反復」されるのである。清盛は髭切を頼朝の面前に突き刺した。
この「突き刺し」には、「成長して再び這い上がって俺に立ち向かってこい」との、流人頼朝に対する清盛の期待が込められていた。
そして、この清盛の真意(突き刺し=返還=義朝に代わって源氏棟梁の証しを授与)を見抜いて頼朝を叱咤激励したのが、
未来の尼将軍政子というわけである。
西郷どんに限らず群像劇を標榜する大河ならば、是非このレベルを目標にしてもらいたい。 西郷どん初回の視聴率が清盛を下回ったのは意外。
もっとも、関西は20パー近くBSも絶好調発信だから、不調発進とまでは言えない。
初めからマニアック路線だった清盛と比べて、分かりやすい、見やすい(聞き辛いはあった)、
初回で蒔くべき種もしっかり撒いて歴史劇としても期待の持てる内容だった西郷どんが
苦戦するようでは、大河の未来はどうなってしまうのやら心配になってくる。
一部やってもらいたくない歴史改竄(いないはずの斉彬に生まれていないはずの糸)は
あったものの、初回で西郷どん全体の構図を提示(斉彬への崇拝が後の西郷を形作る。
薩摩の男尊女卑の風土をヒロインを通じて描く)しようとした作り手の意図は理解できる。
もとより清盛にフェミは無縁であったが、近代黎明期、教育水準の高かった日本において、
そして全国的に女子まで学習熱が高まった日本で、自己実現を著しく妨げられた薩摩の風土と
それに健気に反逆した市井の一おなごを描いたら、何故フェミ大河となるのだろうか?
ホント毎度のお馴染み2ちゃん与党たちによる、女脚本家がー、平和思想がー、フェミがー
には呆れ果てる。
視点が異なる翔ぶが如くを殊更に持ち出して罵倒を始めたババアどもの頓珍漢ぶりは
述べるまでもないが、あまり酷いようならば取り上げる(基本西郷どんファンにお願いしたい)。 業界評はかなり低いと噂の新ドラマ 山崎賢人の「トドメの接吻」など
2018年1月8日 8時0分
http://news.livedoor.com/lite/topics_detail/14128618/
・すでに業界評が低い新ドラマについてサイゾーウーマンが伝えている
・山崎賢人の「トドメの接吻」は地上波放送する内容ではないと芸能プロ関係者
・テレビ誌ライターは深田恭子の「隣の家族は青く見える」を爆死確定と伝えた
「月9は本当にヤバい」と業界騒然!? 早くも「大爆死必至」と酷評される1月期新ドラマ3作品
2018年1月8日 8時0分 サイゾーウーマン
http://www.cyzowoman.com/2018/01/post_168294_1.html
(略)
また、深田恭子主演で不妊をテーマにした作品『隣の家族は青く見える』(フジテレビ系)についても、懐疑的な目が向けられているという。
「視聴者を選ぶ内容であることは確実なだけに、『出来栄えで勝負する』という気概を感じさせ、クオリティ自体も高いと思うのですが、数字は絶対に伸びない。
近頃のトレンドとなっている、『ライトな1話完結モノ』とは真逆の企画である点からしても、爆死確定と見て間違いないでしょう。
それに、深田と松山ケンイチの夫婦役を、“『平清盛』以来”などと、大爆死したNHK大河と並べて宣伝するフジのセンスも、不吉な予感を抱かせます」(テレビ誌ライター) へえー意欲的なドラマっぽいではないの。
民放ドラマは、あっ清盛メンバーが出るこれは見なきゃ!と頑張って初回見ては、
あっという間に挫折する繰り返しw
怒られるけど、ドラマに時間潰すムダより他を優先してしまう。
しかしながら、このフジの意気込みは素晴らしいでないの。
出来栄えクオリティで勝負する
ライトな1話完結ものとは真逆路線で勝負
なので、この路線で孤高の戦いを挑んだ大河清盛の主人公とヒロインに主演を託す。
思えば、大バッシングで凹んだ清盛を、ライバル局でありながら、異例とも言える
「番宣」をしてくれたのがフジテレビだった。
ドラマ不振で苦労しており、看板の月9のチャレンジも上手くいかなかったみたいだが、
他局のマンネリ企画とは一線を画するチャレンジ精神は、清盛に通じるものがありそうだ。
こんな下らない下劣なネガ記事を深キョン松ケン共々噴き飛ばせ! 転生弁慶こと久光のマザコン&兄貴コンプみたいなキャラが面白い。
西郷とはそりが合わず、終生天敵として立ちはだかる屈折したいじめっ子久光への序曲だろう。
「軽い」だの「幼い」だの「バカ」だの例によって貶されているが、「成長し変貌するキャラ」を線で捉えない
いつもの難癖にすぎない(初めから分別があり大人物でしかもダークな清盛・・・)。
有力な見方によると、幕末薩摩藩を領導したのは西郷でも大久保でもなく、実質藩主久光と小松だという(家近)。
西郷どんはそのような見方には立っておらず、一代の英雄・維新最大の功労者西郷さんという従来の捉え方を
大きく転換することはおそらくない。しかし、斉彬亡き後薩摩の屋台骨を支え、維新回転へ向けて複雑な動きをして
政局を動かした久光の重要性に正当な光を当てる大河となることは間違いない。
NHKから高い評価を受ける弁慶青木氏の起用は、ナベケン斉彬亡き後西郷どんのカウンターパートとなる
久光の重要性を充分意識したものだろう。 サディスティックな久光を期待してたので人の良さそうな久光像には
いささか拍子抜けしたが、ここからどのように成長していくのかを
見守りたい。
気になったのは鹿児島のカステラ包み紙。大久保や村田新八が
世界の中の鹿児島に目覚めて後に洋行し西洋文明を吸収する
きっかけアイテムというなら分かるが、西郷自身は蘭癖大名斉彬公に
仕えながらも積極的に西洋文化を吸収しようとした様子はなく
西洋史よりも春秋左氏伝に学べって人物であったそうだから
カステラ包み紙からその後の西郷につながる物語が見えてこない。
清盛の宋剣は賛否があったが日宋貿易につながる象徴的アイテムであり
物語の重要場面に繰り返し登場し清盛の世界観を作り出したが
カステラ包み紙は斉彬と隆盛を繫げながらも
今後は登場することもない使い捨てアイテムになりそうでもったいない。 ああなるほど。
いわゆる蘭癖には染まらなかった西郷。
しかし、「世界の中の日本、日本の中の薩摩」という広い立場からものを考える重要性を、
斉彬から学んだことは確かだろう。
横井小楠も佐久間象山も生粋の儒学者にして、西洋に対する驚異的な知識と視野を有した大人物だった。
ポルトガル語のカゴシマが、今後も意味を持ち続けるモチーフたりうるかは微妙ながら、
世界の中で日本と薩摩を考えるキッカケとなったことだけでも意味のあるアイテムではないかね。 あの時代、西郷がカステラを知らんとは到底思えないがなあ。
シュンサーイは、当然分かっていたはず。 >NHKFM 「音の魔術師冨田勲の世界」で冨田先生が
>「吉松隆さんの平清盛はフッとストリングスの間ができる。
>『遊びをせんとや?』も歌が終わると弦も消える。
>こういうテクニックを持った作曲家は他には武満徹 しかいない」と言ってた
へえー、冨田勲先生から褒められていたんだ吉松隆先生。
その上、世界のタルカスまで使わせてもらう贅沢。音楽面でもたいそう豪華な大河でした。
無常観に沈み込んでいくような新平家における冨田勲の静の世界と、躍動感溢れる吉松隆の動の世界は対照的で、
2つの作品の異なる世界観をOPが見事に反映していることの証左にもなっている。 >>785
島津久光は別に貶されてないな
面白がられこそすれ >>782
たしかに西郷どんの視聴率が、あの清盛を下回ったのは意外。
でも、逆に、いまの日本社会は「健全だからこそ」そうなったのではないか、と安心もした。
いまの日本社会には西郷をもちあげる救世主待望論も英雄崇拝論も微弱だからですよ。 >>27
> 源平関係でいえば、西の大先生が完全にテンパってしまい、みっともない中傷を投げつけた東最高の理論家
> 河内祥輔著「保元の乱・平治の乱」(吉川弘文館)をお勧めする
> (分析哲学まがいの緻密な推論に圧倒されつつ、何も説得されない説得されたくないというディレンマを味わえる)。
結果として河内祥輔と対決した、元木泰雄・京大教授の学説を長文さんはどう評価しているのだろう?
元木説は平家政権の崩壊原因の説明としては、妥当かつ相当な説なのではないかと考えますけど。
超亀レスになって申し訳ない。 時代劇専門チャンネルで総集編やるんだな。
なんだ江で終わりかと思っていたら、チャンネル銀河の盛況に便乗したのか?追加された模様。
あれで面白味や醍醐味が伝わるかは別として、せっかくだから録画して久々見る。
ブームとなるような作品ではないけれど、DVDの売れ行きといい、ちょっとしたリバイバル現象が起こってないか?
酔っぱらって大先生たちのことを何か偉そうに書いたようだが(冷汗)、評価なんておこがましい。
A先生を読んでるときはナルホドナルホド、対立するB先生のを読んだらやっぱこっちだねー、そんなレベルだよw
なお、自問自答ではござらん>>794
通史的な政治史としては、「水仙は佐川急便で運んだとテロップだせー」と息巻かれたもう一人のM先生w
のミネルヴァの後白河が読みやすくて内容もしっくりくる(後白河の人物に迫る本としては物足りない)。
だいたいM総統の説に依拠しているので、俺もどちらかといえば憎っき!西の先生寄りなんではと思っている。
もう一人の西の巨頭、考証1先生による通史的概論に美しい写真とためになるコラムを添えた別冊太陽もオレ的必携。
東の五味先生の平清盛は今でも基準書。大河清盛は、この本のオーソドックスな記述を底本にしている節がある。
河内先生説は、ぶっちゃけドラマ化したらいままでの「常識」がひっくり返ってしまう(通史的には講談社・天皇の歴史4)。
大雑把に言うと清盛は、歴史的大事件の基本的な捉え方については、従来の通説から大きく外れることはせず、
その基本的な枠組みの中で、ドラマの設定とリクツにしたがった改変や付加によりオリジナリティを出しつつ(保元・平治の乱、
鹿ケ谷など)、何よりも歴史に生きる人間たちが織りなす分厚いドラマに力点が注がれた。、
一方、清盛像の刷新に関わる最重要部分、それと清盛の外交過程、六波羅(福原)幕府論などどちらかといえば地味な部分に、
考証1の研究成果が反映されていた。
また、今までまともに取り上げてこなかった院政期のあり様、絶頂期と没落過程ばかり描かれてきた平家の勃興過程(忠盛の役割、
とりわけ平治の乱後の政治過程)、歴史的には重要でありながら知られていない人物にスポットを当てる(家盛や八条院は最たる例)、
などの諸点において、地道な作業を丁寧に行っていた。
総じて、大向こうを狙って新説・珍説にいたずらに飛びつくことはしていないが、清盛に関する重要な部分を中心に、従来の大河の水準を超える
歴史描写を至る所に見出すことができる。歴史描写の質量において歴代大河屈指であったことは揺るがない(歴史学から見て充分を意味しない)。
さらには、随所になされた巧みなフィクションの挿入・融合は、この着実な歴史描写があって初めて機能する創作であって、その意味でも、
どこぞの「とっ散らかった」ババアの言い種とは真逆で、平清盛は「史実と創作との融合がもの凄っく上手、天才的に上手」な大河であった。
(歴史無視の)フィクションだらけの大河、(歴史から逃れた悪い意味での)ファンタジー大河の代表例に大河清盛を上げるほどフザケタ話はない。
(試みに、安徳の障子の穴開けエピから展開させた「そこからの眺め」を、嫁の嫉妬指数を示すだけの障子の穴あけと比較してみられたい)。 もう一つ、おかしな言い方となるが、「史実・エピとロジック・解釈との乖離」というのをあげたい。
格好の例が頼朝助命シーン。
ここは表面的に見るかぎり、〈「家盛に似ているから助けてあげて」との池禅尼からの嘆願に抗することができずに、
清盛は頼朝の命を助け伊豆へ流刑とした〉という、従来通りのある意味何の変哲もない展開にすぎなかった
(清盛をこのレベルで命題化していくとオーソドックスな通史ができてしまうくらい、いわゆる「年表大河」でもあった)。
しかし、このお馴染みの展開の背後には、最初から最後までドラマ全体を貫くロジックが支配していたことについて、もはや説明は不要だろう。
なにしろ、頼朝助命時に「眺めておれ、見ておれ」と突き放した清盛の真意は、「今度こそ正々堂々戦おう。伊豆で成長しろよ」であったのだから。
そして、闇落ちした清盛が頼朝挙兵によって救われ、武士の魂を再点火させたのは、源平合戦本戦ラウンド(武士長者決定戦)を渇望した
この助命シーンを思い出したからに違いないのだから。
以上を、「多彩な歴史展開の背後を貫通する一つの物語性」と言い換えてもよい。
こうしたところが、エピを並べていく大河には見られない大河清盛の一番難しかったところであり、大河としてこういうのアリ?
と批判されても仕方ない部分でもあった。 2ちゃんリーダーでもあられる2人の巨頭、L氏とNのおっちゃんによる真逆評価が実に興味深い。
核心部分への洞察を常に欠いたままご立派かつ頓珍漢な託宣に励む、知識自慢の自称権威らしい対照を見せた。
L曰く―清盛は心理劇に逃げ込んで歴史プロセスがすっぽりと抜け落ちていた。
N曰く―清盛は教科書的な歴史描写でいっぱいいっぱいで人間ドラマになっていなかった。
御両人の戯れを総合して正に転ずることで、清盛の真価を正しく捉えることができるこの皮肉・・・
多面体清盛の一面だけを切り取れば、御両人のような評価が生まれてくるのも不思議ではないが、
よりによって権威様たちがこれでは大河評論の沽券にかかわりますよ、LさんNさん。 『為義殿、斬り合いとならば源氏も平氏もここで終わりぞ。源氏と平氏どちらが強いか、それはまた先に取っておくことはできぬか。
その勝負は武士が朝廷に対し十分な力を得てからでも良いのではないか』 (平忠盛)
4話のパパ盛発言は、視聴者のほうで記憶して何度も反芻しなくてはならないセリフベスト3に間違いなく入る。
焦り逸る義朝に自重を求める清盛も、一騎討ちも助命も、頼朝挙兵による再生も、
貴族の世の終わりを告げにいった後白河との最後の双六も、歴史上の源平合戦も、決着ついたあとの「再会」も、
すべてこの忠盛発言に源流をもつ。 まだ西郷どんのキャラがどうなるかはっきりしていない。
男からも女からもモテる西郷さんはいいとしても、死ぬまでそれだけでは薄っぺらすぎる。
好き嫌いが酷くて嫌いな人間には極めて排他的で狭量。「何を考えているかわからない
茫洋とした大人物風イメージ」は計算づくの自己演出・・(←流人時代に猪突猛進した前半生を省察(家近)。
この見地からは転機となった流人時代を軽視することは許されない。奄美搾取の惨状を目の当たりした点でも)
このような対照的なキャラへと西郷を落とすことはない思われるが、生涯「イイ人オーラ全開の大人物」
だけではつまらない。
鈴木氏の演技やタイプを語ることはできないが、鈴木西郷が良い悪いの判断は、本作が思い描く
トータルな西郷どん像と離れてなされるべきではない(松ケン同様憑依型と聞く)。
清盛のキャラ(しかも高平太から闇落ち爺まで一人で演じきることを要求された)と離れて、
松ケンを評価することがナンセンスであるのと同じことが鈴木西郷にも当てはまる。
くどくてすまんが、清盛キャラは、考証1が唱えるそれを忠実にドラマ内での清盛に投影することを基本に、
落胤設定を最大限生かした「根本において不変、されど目まぐるしく転変する清盛」として造型された。
それゆえ、各ステージを個別に判断すればベストではなくとも、トータルな清盛像に照らしてみれば、
カメレオン型俳優そして齢30前後の松ケンは、代替できる役者を容易に見出すことのできない「適役」
だったのである。 >>797
おこがましいと謙遜されても、長文さんがどれだけ論文や著作を読み込んでおられるか、そのくらいは分かります。
わたくしは未熟者ですから、サジェッションを参考にしながら、源平合戦期の知識を深めて行くのみです。 >>798
> 清盛の真意は、「今度こそ正々堂々戦おう。伊豆で成長しろよ」であったのだから。
でも、ここのところは(ドラマではなく史実として)どうなんだろうと疑問符を付けます。
結果として寝返りましたが、いちおう北条氏は平氏のうちです。
しがない弱小勢力でしたが、頼朝の動向を監視させるには役に立つと思ったのだろう。
それに伊豆は長年流刑地とされてきた地。そして河内源氏の嫡流は京が拠点だった。
京と伊豆との情報格差は大きい。下放して田舎侍として草むしてしまえばよかろう、
と判断したのかもしれない。
しかしなぜ伊豆を清盛は選んだのか、わたしにはいまだよくわかりません。 >>799
うまいまとめだなあ。こういう人が会議でひとりいれば、実生活がもっと楽に効率的におくれるだろうなと。
無関係だが、崇徳院様と重盛様が現代劇で活躍しておられた。第1話だけ見たが、今後の展開に期待しよう。
金曜ドラマ アンナチュラル
http://www.tbs.co.jp/unnatural2018/ >>806
一見着実に進む史実の背後に隠されたドラマのロジック(フィクションに決まってる)を指摘しているのに、そんなこと言われても
私長文困ってしまいます。ちなみに自演じゃありませんw >>805
いやいや、紙の本で線引きながら書き込みしながらみたいな読みは込みしてませんよ。
だいたい電子化してiPadProに入れて持ち歩き、疑問やら関心やらが生じたらその都度調べる感じ。
それはそうと、再放送のツイを読むと、6年経っても新たな発見があり、またいろいろ教えられる。
そういう汲めども尽くせぬ大河が平清盛。
貴殿・貴女が何か疑問を呈してくれれば、いっそう大河清盛の深い理解につながる。
長文が拳を振り上げて、最低視聴率大河清盛の真価を必死の形相で世間に訴えかけている・・・
だけでは決してないのです。 読みは込み→読み込みは
すんません酩酊状態ですハイ。
高橋説の摂取については、承安の外交と六波羅幕府論を指摘した(後者は、歌舞伎の花道を颯爽と歩むがごとく
颯爽と登場した真打ち&ラスボス清盛のシーンに集約する形で象徴的に描かれた―京と福原との物理的・心理的・政治的距離の問題)。
もう一つ忘れてならないのが、何度も紹介した「王朝文化の体現者=統治の正当性保持者」という高橋テーゼ。
殿上闇討ち回→和歌もどき回を経て、このテーマを正面から掲げたのが、五十の宴回における摂関家エース兼実と忠度との歌合戦であった。
新説にチャレンジすることの意味は、歴史的事件についての通説を、エンタメ大河を使ってひっくり返すことではないだろう。
この点で、地味でマニアックであっても、平安末期とそこに生きた清盛及び同時代人たちに対する我々一般人の知識と認識を、
ささやかながら百尺竿頭一歩進めた大河清盛の貢献は非常に大きなものがある。
おやぬみなさい 長文センセとバーチャル弟子
文体が混在してバレバレだぞ
よくこんな恥ずかしいことするよなw >>812
であった
が特徴的だよね。
主述が分かりにくい文章であるのと。 岩波新書の新刊『義経伝説と為朝伝説』
読んだ人いる? おいおい俺の分身と名指しされた人、弁明してくだされ。
私をあんな長文基地と一緒にしないでって。。。
同じ人かどうか知らんが、八重の時もかなり文体似ていて、自演自演言われてなかったか?
清盛から大河に入った俺は、当時、八重のドラマ性の欠如が不満でアンチぽかった。
しかし、あれこれ大河逍遥をした今は高く評価している。
物凄く厳しい批判をしていた御仁(根拠をきちんと挙げてのもので中傷ではない)、
今はどうなのだろうか。
それにつけても「無知で無能な制作側がー」のババアたち、何かないの?
建設的な批判ならババアババア言わないでちゃんと答えるよハアト。
自演だーしかツッコミどころがないなんて、男無しで終わるおたくらの人生そのまんま東で寂しすぎるだろ? >>615
近日中に買います。
義経も為朝も伝説部分なしに人物を語ることはできず、ドラマでも伝説的な英雄一色
となってしまう典型的な人物たち。
大河清盛もこの2人に関しては、歴史上の人物を掘り下げて追求する気はほぼなかった。
せっかく大河の主人公に据えたのに、大河義経が俗説、伝説、オリキャラ創作だらけで
終わってしまったのは残念。今後「新しい義経」を制作する余地は残されている。
為朝は、地味な平安の戦いを盛大に盛る軍記物を一人で代表してくれた。
青春活劇パートに位置づけられた海賊討伐と並んで、数少ない大河清盛のエンタメ要素を
担ってくれたのが、保元の乱における強弓無双の超人為朝。
辛気臭い話ばかりのようで、見て楽しいエンタメ大河でもあったのですよ清盛は。 >>817
中公新書の「河内源氏」は読みましたか? 為朝ねぇ
まだ保元の乱まで到達していなかった頃
どうせ為朝なんか出すわけないファンタジー大河だろ
ってなレスが芸スポの視聴率スレで目についたな
本家遊人庵はそこまで迂闊ではないだろうけど
劣化遊人庵みたいなろくに見ない調べない昔は良かったさんは
今でも見かけるな 持っているが精読していない。
この本における河内批判は、正直あるまじき人格攻撃であり中傷だと思う。
このことがかなり影響している。内容的には(正確さを欠いて申し訳ない)
「武士は王家の犬ではなく朝廷からも尊崇された階層」
「信頼は有能な軍事貴族」
「極官を超えたことから推察して清盛は落胤である」(結論ではなく推論方法につき)
「義朝の左馬頭はその地位からすれば上等の成果であり不満はなかった」
「重盛は実質的な政権の主宰者成親に取り込まれて清盛=時子ラインから離脱していた」
などの御説は、素人考えでもなかなか受け入れがたい。 ただし、為朝の数少ない重要史実についてきちんと触れていたことに注目。
それが九州の鳥羽荘園を荒らして大顰蹙買ったアレ。
ただでさえ落ちぶれ真っ最中のダメ義さんは、息子の不祥事の責任を取らされ、
いよいよ鳥羽院から遠ざけられ、摂関家頼長へ従属するしか道はなくなった・・・
そういう流れだった。
初登場ガンダムに度肝抜かれた人も多いかもしれないが、実はちゃんと歴史やってたのですよ。 中公河内源氏というより、清盛で扱われた内容に関するM先生説のことね。
ただ、内容重複が多いので、河内源氏にも同内容が書かれているはず(未確認)。
華麗にスルーする河内先生に対してブチキレたのは、明確に河内源氏本。
清盛役者若すぎる批判とは真逆で、歳取りすぎと言われたのが話題の為朝と兼実。
しかし、年齢齟齬を知らないままキャスティングするような磯Pではない。
その男一人が敵方についたというだけで、平氏の面々を震え上がらせた無双の兵にして英雄為朝だ。
侍大将忠清が自信をもって送り出した伊勢一の強兵を、一瞬のうちに葬り去った源氏随一の弓使いは、
周囲を睥睨威圧し、劣勢をたった一人で挽回してしまう圧倒的な存在感を求められた。
このイメージの為朝に、血気にはやる10代の若者のイメージを当てはめることはできないだろう。
当時40半ばだった橋本さとし氏による無双感溢れかつ重みのある為朝は、完全にフィットしていた。
相島氏に託された兼実も納得のキャスティング。摂関家の凋落を受け止められないイケイケ基房に対して、
こちらは彼我の力関係の在りようを冷静沈着に受け止めてバランス感覚を保ち、冷静沈着な判断を下す「大人」。
だからといって、清盛平家に媚びへつらい屈服することはなく、シニカルで嫌味な最上級貴族ぶりを貫いた。
後に頼朝から重用する兼実は、若輩であってもたいそう大人びた人だったに違いない。
当時50歳ぐらいの相島一之氏が起用された所以である。 >>823
そうだ自演であることを自白するから、なんかまともなことを書けや >>808
自演してスレ伸ばさなきゃいけないほど清盛スレは過疎のスレだとは思わないぞ。
>>813
このコメントは苦笑しつつも光栄です。あの長文さんとわたしとで文体が似ているなんて!
>>816
またしても亀レスになってすいません。大河板は気分転換したいときしか開かないので・・・ >>815>>818
読みたい本がどんどん増えていく。しかし目の前に積んである6冊を片付けねば手を出せない。くやしい 頼朝から重用する→重用される
長文よ、自演の際は誤字脱字にくれぐれも注意せよw
ミスキャストへの反論もかなりしてきたが(清盛、後白河、祇園女御など)、
個人的にこれはどうかと違和感を覚えたのは伝兵衛経宗さん。
顔芸が面白いヘタレ公卿というのはやや貴族を戯画化しすぎだろう。
本当は政務にも故実にも通じた大物だったはずで、もうちょっと重厚感があっても良かった。
これはミスキャストというよりキャラ設定と演出の問題で、伝兵衛氏はそういう麿を見事に演じていた。
清盛平家と上級貴族との力関係が逆転したことを、オロオロする麿キャラで表現したかったのだろうが、
いくつかあったやり過ぎの一つ(白い粉巻き過ぎ。初期清盛汚し過ぎ。海賊船に金使い過ぎ)。 >>828
だから自演してない長文さんとは別人だと何度言えば信じてもらえるのだろうか。
指摘されて二条親政派の藤原経宗のことを思い出しました。
平治の乱で敗者の側に立った貴族たちは、従来の源平合戦で醜く描かれてきたのは事実。
大河平清盛であってもそれは共通する。概して、歴史とは敗者でなく勝者がつくるものだから。
しかし、醜く描かれ新体制の補強材料とされた敗者たちが、本当に無能で腐敗していたのか?
というと、たいていの場合それはちがう。ただ天に見放され時代精神が彼らを求めなかっただけ。 >>829
>>828
> 長文よ、自演の際は誤字脱字にくれぐれも注意せよw
自体が長文さんの自演というワケワカメのスレ乙 そうかー
マジレスが返ってくるとは
やっぱ不肖長文の下手っぴなお遊びは通用しないですわw
世の中こういう大真面目な人だらけなので
遊び心出して「海賊王がー」で戯れるのやめといたほうが良かったかもネ! >>832
いえいえ
「遊びをせんとや生まれけむ」人々が集うスレなので
どんどん遊んで下さいまし。
自分の中では
八重>>>(超えられない壁)>>>清盛
なのですが、いくら腐してもこたえない
馬鹿なことを言っても許される
このスレの空気は嫌いじゃないです。 生真面目男重盛もなー
たまには福原に遊びに行って
俺はソ◯プ王になるぞー
とはっちゃけてストレス解消してれば早死にしなかったものを・、。 そーいえばセンター入試の倫理で「遊びをせんとや」が出たというではないか!
そこから、カルヴァンにロックにニーチェに途中で切れてたので分からんがカイヨワ?
と繋ぎ、勤労と遊び、創造と自由との関係を問う?
しかし、近代の勤労倫理と平安の遊びを対比させるのはちょっと無理だよね。
一番近いのはおそらくニーチェで、ニーチェはヘラクレイトスの「時は遊び戯れる子供」を愛した人だから、
平安のエートスは古代ギリシアの哲人の境地に近かった!
つかお外で、なかなか面白い西郷どん始まってるのに見れない・・・ 今野敏の「為朝伝説殺人ファイル」ってなんだかそそるタイトルなんだけど
STシリーズって当たり外れがある印象なうえにレビューが低評価でちょっとためらう。
audible のラインナップに入ってるのでそのうち聴いてみるつもり。 >《今日の出来事 旧暦1月15日》
>[仁平三年/1153年]
>平忠盛死去。清盛、平家の棟梁となる。
>【台記】
>数国の吏を経て、富は巨万を塁さねたり。奴僕は国に満ち、武威は人に軼(すぐ)る。然れども人となり恭倹にして、未だ嘗て奢侈の行あらず。時人之を惜しむ。
>悪左府殿でさえこのように人柄を賛美された曽祖父上、和歌の嗜みもあり、決して粗野な武士ではありませんでした。
≪新院(崇徳上皇)の殿上にて、海路の月といふことをよめる ≫
ゆく人もあまのとわたる心ちして 雲の波路に月を見るかな
(詞花297)
>とまあ、数年前のアレを思い出して心がチクッとなる感じ
★ええええ???
まるで昭和の貧乏サラリーマン。平氏興隆に果たした業績と人となりを何一つ捉えていない新平家の忠盛を絶賛する、
お馴染みとなったこの京の金満ブルーインパルスウヨ婆さん。
大河清盛の中井パパ盛は、【粗野な武士】だったんだとさ・・・・・・・トホホ
あらためて、この「無知で無能な清盛制作側がー」のババアたちののオツムと目ん玉、いったいどうなってんの?謎謎謎。。
反日清盛に台無しにされたので、「溜息でるほど素晴らしい真田丸を作られたぜひ三谷さんにもう一度平家物語をやってもらいたい」
との願望を表明されているオババ様。。。
せめて>>728を読み返せや、2ちゃん清盛攻撃隊センターフォワードなんだからよ。本作は、件の悪左府の称賛まで考慮に入れた忠盛平氏だった。 ただの長文コピペなのか
どれが自分の意見なのかよくわからんレスやな 貴族化する平家以前の主であるパパ盛は、舞もばっちりマスターしており、その研鑽ぶりを
貴顕の面前で披露した。
ところが、新興平氏を警戒する摂関家忠実による盛大な嫌がらせを受けた。
通過儀礼の一種にしてはいささか度を越した洗礼にもかかわらず、忠盛はビクともせず、
甘んじて屈辱を受けることで貴族の反感を放出させつつ、内の昇殿という巨大な果実を得た。
「粗野な武士」では到底叶わぬ、忠盛の深謀遠慮に満ちた戦術と洗練された振る舞いを
映像化したのが「殿上闇討ち」回である。 重盛が現代にいたら、父清盛のゴリ押しで超名門エリート校に入学させられるも貴族たちからの嘲笑に耐えられず、
退学して普通の学校に行きたい旨を清盛に申し出て大喧嘩してそう。
そして結局、池禅尼、大叔父忠正、時子らのとりなしで普通の学校に転校させてもらえそう。
これをきっかけに大叔父忠正への敬慕の念をさらに深める重盛なのであった。(完) コツコツ漢籍と本朝の歴史と算木による計算を勉強してN中トップ合格!
その後順調にK大Hに進学し、実務官僚となるべく有職故実や朝廷作法、儒学等を日々学ぶ。
勉学一筋の超真面目な学生(ガクショウ)生活の傍ら、法王様の4号警護に備えて弓と剣も鍛えており身身体能力は高い。
他方、文武に打ち込むばかり彼女はできず作らず、見合い話も断って父から上手投げを食らったほどの
奥手であったが、夏に福原の別荘の近くを論語を口ずさみながら散歩中、悪所が立ち並ぶ地域へと迷い込んでしまい、
そこで誘われた妖艷な白拍子に導かれるまま晴れて一夏の思い出は成就した。その名はA子というらしい。
現在は糟糠の妻T子にゾッコンで他に女など作りたくはなかったが、小松家の子孫に平気棟梁を継がせるためにも、
別途維盛と資盛を拵えた。以下略 >>844
長文さんじゃないから未読です。
しかし、書き手は1968年生の准教授か。吉川弘文館で刊行したなら、読む価値ゼロってことはあるまい。 >>842
基盛「兄上、何をさように思いつめておいでです?友も多くできて私は学校は楽しゅうございますよ〜」
忠正「基盛は要領がよすぎる」 この作品で平重盛がその最期において後白河院と清盛との板挟みになって病気になった的な描写にされてるけど
そういう記述ご実際にあってもこのドラマで描いた重盛ってそんなに後白河院重用されたり慕ってた描写がなかったから違和感あるんだが
むしろドライな目で朝廷や院を見てた人物に描いてなかったか? それは当時から突っ込まれていた真面目な疑問。
明確な誤り、誤解、曲解、難癖と考えての反論ではないが、これに対しても長文した。
簡単に言うと、重盛が正当と考えてきた君臣の道に関する儒教的大義名分論に基づく。
重盛にとって政界の最大実力者である清盛は、あくまで偉大な父であって君とはなりえない。
君となりうるのは、体制によって正統性を付与された元天皇そして現治天の君である後白河をおいて他にいない。
臣重盛にとって後白河は、贔屓されたからとか優れた政治手腕に傾倒したからではなく、位階秩序の頂点に君臨する君
ーただそれだけで尊崇の対象と〈しなければならない〉至高の存在であった。
実際、後白河院の近臣といっても、重盛は西光や成親のように常に後白河の側に仕え、意思を体現し、
手足となって動くような存在ではない。あくまでも主軸は平家の棟梁の方にある。
そこに利害相反関係が生ずるのは不可避といえ、平家棟梁である以上、利害相反が両立不能なほど決定的になった場合は、
平家ファーストで行動するのが筋であり、当然、清盛は重盛に対してそのような行動を要求した。
ところが、どちらに対しても誠実に応えようとする重盛は、両者の板挟みとなり苦しみ衰弱していった。
痛々しかったのは、そのような重盛を「あいつは清すぎる」と見限ったのか、清盛が時忠を参謀として
頭ごなしに事を進め始める事態へ至ったこと。善解すれば、汚い謀略のために清き息子重盛の手と心を染めたくないとの親心か。
しかし、尊敬する父清盛による「重盛パッシング」は、いよいよ重盛を苦しめることとなってしまった(「とく死なばや・・・」)。
このような「父清盛と君後白河との板挟みに苦しむ重盛」という重盛像は、一朝一夕に出来上がったものではない。
行動力に優れ見知らぬ世界へと臆することなく飛び込んでいった清盛が、いわば外界の世界を教科書とする
経験主義的な人間であったのに対比させるかのように、父清盛を超えようと懸命に努力する真面目人間重盛にとっての学び舎は、
常に四書五経や歴史書など書物の世界にあった。
このような重盛が、頭でっかちで視野の狭い四角四面な観念論者へと成長し、あのゴッシーを「尊崇すべき君子」と見做して
あくまで忠義を尽くしたとしても、それほど奇異なことではないし、ドラマ上の描写不足とも思えない。 >>849
説明とこじつけの区別が付かない者が偉そうな説明を加えていますね。 追加
自ら博多に足を運び賑わう市を興味深々の様子で体験。
オウムに出会い宋銭にビックリ、大はしゃぎで「何というか生き生きしてるぜー」。
この清盛の成長描写が非常に効いていた(新しいモノ、珍しいモノはあやつの大好物ゆえbyパパ盛)。
一方、真面目な顔して本でお勉強する重盛の描写。これもちゃんと意味があったのだ。
それが清盛の「お勉強描写」と対になっていたことを見逃すべきではない。
清盛と重盛との対照的な人物描写は、大河清盛理解のための重要ポイントの一つ。
少なくとも教育パパから見た場合の清盛は、自らをスケールの大きな清濁併せ呑む男に育ててくれた忠盛の
足元にも及ばない。何しろ自分は体制を破壊した破天荒人間でありながら、息子たちには体制で上手に生きていく
教養と作法を仕込むことに一生懸命。これでは自分に越える、せめて匹敵する息子たちは現れようがなかった。 自分に越える→自分を越える
酔ってはないがすんませんwでわでは 一年放送しただけで大河視聴率が崩壊するとは、どんなクソ大河なんだよwwww >>849>>853
なんとなくわかったありがとう
なんとなく清盛の弟家盛にちょっと似た感じだね 少なくとも教育パパから見た場合の清盛は、自らをスケールの大きな清濁併せ呑む男に育ててくれた忠盛の
足元にも及ばない。何しろ自分は体制を破壊した破天荒人間でありながら、息子たちには体制で上手に生きていく
教養と作法を仕込むことに一生懸命。これでは自分に越える、せめて匹敵する息子たちは現れようがなかった。
これはその通りだな >>857
ドラマで一切触れられていない部分をドラマの一部であったかのようにとして捏造しているのは見苦しい信者としか言えません。汚盛は実にドラマ制作の素人が制作に荷担しているのですね。 3時のコーヒータイムに開いたら、例によってやってたので一筆書いた。修正の上再掲↓
出たよ、京都は湿地だからー。
紀元千年頃には既に左京は廃れ、羅城門は破れ門となり果て、朱雀大路も荒れ放題でぺんぺん草が生える状態。
賑やかなところでもインフラは未整備で、舗装道路なんぞあるはずもなく、側溝はろくに清掃をしないもんだから、
早くから詰まって使いものにならず、雨が降ればあっという間に賀茂川が氾濫し、庶民がおおらかに路上で垂れ流したウンチやゴミで
市中は満たされる。当然、衛生状態は最悪といってよく、たびたび疫病に襲われた京の町は貧者・病者・孤児で溢れた・・・
このような古代中世型の人工都市である京が、昔は湿地帯で周囲に水脈豊かな山麓を抱えるという自然環境ただそれだけで、
「埃一つ舞わない」綺麗で侮蔑する某国とは似ても似つかぬ衛生的な都市だったんだとさ。
本郷和人「ボクは昭和35年生まれですが、その当時は東京も舗装されてないところがいっぱいあって、
ちょっとしたことで埃が舞っていましたよ。犬の糞もたくさんありました。900年前の京がキレイなわけないじゃないですか」。
そういう京を表現するために白い粉を撒くのと「撒きすぎ」とは違うから。
撒きすぎに問題があったのならば、控えめに撒けば良いのであって、批判を受けたからいっさい撒かないヘタレぶりは、
NHKの退行現象と言わざるをえない。 >>858
経盛おじさんが一生懸命仕込んでおりましたがw 汚盛爺さんと呼んできたが、どうやら汚盛婆さんのようだ(大爆笑
おやぬみ もう一つ、お馴染みこちらへのレスもやっぱ読んでもらいたいので落とします↓でわ
平安の雅が一切なかった?
お前の目はどこについているのだ。ストーンウォッシュとやらで朝廷貴族まで汚しただの踏ん反り返る前に、
せめて4話殿上闇討ち回で映像化された豊明節会の超絶美しい幻想的なシーンを見返してみろ。
2005年の義経の「キレイ」な画面がいかに安っぽいものかわかるはずだ
(その間の映像技術の進歩を痛感する。ただし、技術革新上の優位にとどまり、義経が悪いというのではない)。
そもそも清盛は、王朝絵巻のような絢爛豪華な美的世界の再現を追求した大河ではなく、混迷を極めつつも
躍動的な体制変動期であった平安末期とそこに現れた荒々しい改革者=清盛をダイナミックに描くことを
コンセプトにした大河だ。
一部やりすぎもあって視聴率にダメージを与えたことは否定しないが、映像表現も作品のコンセプトと
世界観を反映すべきだとしたら、試行錯誤を重ねた大河清盛の挑戦は高く評価されるべきだろう。
現に多くのクリエイターたちから絶賛を浴びたが、当然の成り行きである。
西郷どんの映像テイストは、技術に無知な素人目にはどうも人工的な感じがする。それとやはり少しは
白い粉を撒いて欲しいw 和歌下手の清盛とは違って忠盛が和歌にも秀でたことは、家成の提案に対して
「そ、それだけは何卒!歌は不得手にて」と慌てる清盛に、家貞がしらっと
「先の殿は歌人としても一流にござりました」と突き放したセリフによって紹介されていた(描写は舞の方)。
そこで悄げる清盛に基盛が、「棟梁が歌は詠めず、妻は琵琶が弾けずではお話になりませぬな」とツッコミ。
平氏を明るくしてくれそうなこの面白い次男坊が早死にしてしまったのは、
「一蓮托生」のスローガンの下で葛藤と軋轢を抱える一門融和の観点からは痛い損失であった。
その基盛と重盛そして時子の長男清三郎が盛国から学問を学ぶシーンが、二度ほどあったはず(武の指南役は忠清〜
弓矢の練習を通じて清盛の兄弟たちや子供たちの性格や特性紹介が行われた)。
すぐ飽きる基盛に重盛が、「真面目にやれ。盛国は漁師の身から武士に取り立てられて学問に励みこんな立派な先生に
なったんだぞ」と説教。クソ真面目重盛の面目躍如であり、自らは幼い頃より盛国を師匠に懸命に学んできたことがわかる。
(他方、時忠から要らんことを吹き込まれてグレた清三郎は勉学ストライキ)。
そういう少年期の勉学描写を経て、重盛が夜遅くまで書物に取り組む姿を描いたのが、あの悲痛な殿下乗合事件回。
すっかり清盛から「除け者」にされ、一門から「笑い者」にされて苦悩する重盛が唯一の救いを書に求める姿、
そこにただ一人寄り添う経子の心痛むシーンを駄文で再現することは不可能ゆえ、是非映像で確認して欲しい
(窪田重盛圧巻の演技)。 このドラマを批判する人って王家問題もそうだけどいわゆる右の思想の人が多いのかな
自分は保守の方の考え方ではあるけど、だからと言って中世以前の絶対的な力を持っていた皇室や朝廷がどの帝も素晴らしい人格者だったとか当時の朝廷を批判したら許さんみたいな考え方は気持ち悪いんだが....
この作品の中でももちろん創作は多くあるけど、たとえば崇徳帝の出生は当時でも白河帝?という噂はあったわけで、もちろん今とは考え方はちがうにしてもそういう噂が立つほど当時でも不謹慎なことという認識はあったでしょ
そういう皇室の負の部分ももちろん光の部分も含めてざっくばらんに大河を作ってこそ素晴らしい作品が生まれると思うのだが.... >>862
澄み渡る南国の青い空に、その「白い粉」は似合わない。白い粉をまくのは、桜島のお仕事です。
>>859
> 紀元千年頃には既に左京は廃れ、
右京と左京を混同してませんか?左京は御所の南東に、右京は御所の南西に広がる町でした。
天子は南面するものなので、天皇陛下の視点を軸に、京の町はつくられた。 >>859
> 京が、昔は湿地帯で
複合扇状地の書き誤りでしょう。1000年前も現代も、京都盆地の地形は大差ないから。
http://www.hp1039.jishin.go.jp/kozo/KyotoCty3/figures/f2-2.jpg
扇状地だから表土は乾燥しやすい。でも扇状地だから、浅い井戸を掘れば簡単に地下水をくめる。
洪水も起きるが、逆にそのおかげで汚物は流される。冠水期間も扇状地だから短期で水は抜ける。
それが京が都に選ばれた理由。湿地帯だと疫病を媒介する動物が繁殖しやすく人が住みづらい。
だから、舗装も石畳もほとんどない平安末期の京都に「白い粉」が舞っているのは、ほぼ正しい。
平安末期の京都の洪水被災エリアは、おおよそ想定できる。京都市のハザードマップが参考になる。
http://www.city.kyoto.lg.jp/suido/page/0000089718.html
ほぼ正しいけど、あれはまきすぎだろう。平安末期の日本は、平均気温が高い時代だった。京都でも
熱帯のようなスコール(豪雨)と、熱帯のような雨の降らない乾期を繰り返していたはずだ。
ただし、京都は盆地だ。そして風向は西風が多い。湿り気を帯びた風が大阪湾から吹き込み、山に
ぶつかって雲がわき、よく驟雨がおそうのが現代京都の日常。平安末だって大差なかったはずだ。 要は、いつでもどこでも何にでも、見境なくモクモク撒く必要はなかったということだね。
ただ、埃だけではなく霧、靄といった自然現象(海賊船での洋上シーン)にも有効であったし、
また、荒れた京、貧者・病者が喘ぐ様、いかがわしい賭場・売春宿のような社会現象を
映像面から補完し、視聴者が下層民の置かれた状況を想像する助けにもなった(初回、2話)。
逆方向から、高貴な世界が醸し出す幽玄みたいなオーラを白い粉で表現することも悪くはない
(為義が義朝を北面にプッシュしあえなく撃沈したシーンで、院御所の庭が一面「純白の世界」
だったのには閉口したが)。
やはり蒔いたこと自体が悪なのではなく、バランスの問題だろう。 銀河で義経視聴。
ああー義高・・・日本歴史物語上、最大級の悲劇だね。義高と精神錯乱を来してしまった大姫の運命は。
ここで思い出したのが大河清盛における大蔵合戦。
本邦初の映像化であったのにもかかわらず、連中はその画期的な意義なんぞ理解する気もサラサラなければ、
理解できるオツムもない。
ひたすら義高の父である義仲を省略したと大騒ぎしたのであった。
やったことを正当に評価するのではなく、あれ省略したくだらねー、このバカめがーとドヤするのが連中のいつもの流儀だ。
為義vs義朝ののっぴきならぬ骨肉の争いという、保元の乱へ向けた源氏方最重要テーマに鋭く切り込んだのが
本作における大蔵合戦であり、ここでも源氏重代の太刀であり棟梁の証しである髭切の所在と行方が
物語を推進する上で決定的役割を果たした。
義平による義賢殺害=髭切奪取によって、源氏親子の対立は不可逆的なステージへと突入してしまった。
ここで初登場した「東国ヤクザ」義平は、同じく義朝の息子ながら、上西門院蔵人としてこれまた画期的な映像化がなされた
「京の青年貴族」頼朝(殿上始めで清盛と初対面、圧倒された)と鮮烈な対照をなす荒くれ武者である。
この生育環境、メンタリティ、振る舞いをまるで異にする異母兄弟2人を対比する意味でも、大蔵合戦は重要な意味をもった。
このように、何よりも保元の乱への道行きという本作の大テーマに即して、さらに平治の乱の見取り図を射程に入れるべく
取り上げられた大蔵合戦において、何らストーリーに影響を与えない赤子義仲の出る幕はない。
いなくても成立するシーンであり、おギャーして我こそは後の義仲であると主張されてはかえって邪魔になるシーンなのである。
もっとも、清盛死後の源平合戦を独立のパートとして扱い、したがって義仲を主要人物として取り上げる大河であったならば、
赤子義仲にご挨拶する意味はあっただろう。
しかし、大河清盛は正当にも源平合戦本戦ラウンドを平家主要人物を退場させる舞台装置と位置づけ、義仲を登場させることはなかった。
考え抜かれた義仲スルーは大河における人物整理のお手本であり、赤子義仲を出さなかった理由を推察することによって、
清盛の人生から離れて源平合戦それ自体を独立に取り上げることはないことを、その時点で高い確率のもとに予想できたほどである。 本日900歳になりました
このおめでたい日に夜10時から8ちゃんにて時子と妊活始めます
息災也と元気ですの夫婦パワーで必ず作ってみせます
応援よろしく キヨ:もうそなたで良い!
トキ:もーう台無し!!プンプン
近衛:見えぬ!見えぬ!
顕如:アッー! まだ全部見てないけど、結構面白いな。
目線を低い位置におきながら、マジメに夫婦像(同性含む)、家族像の多様化を考えるドラマっぽいし。
時子と近衛帝のかわいさと惟方の押されっぷりはいかにもだったが、
一時期老害エロ爺へと変わり果てた清盛までえらいかわいいのでびっくりしたよw
逆に言うと、こんなにかわいくて若々しい松ケンが、6年も前の時点で醜悪な糞じじいに化けたわけね。ほんとカメレオンだよ。
にしても相変わらず低視聴率のようでお気の毒。盛国が参加したキムタク4号警備の二分の一以下とはね。。。
数字なんてどうでも良い中身で勝負!は民放では通用しないので(公共放送の大河もリクツはともかく良いにこしたことはない)、
なんとか上がってほしいですわ。 うーん、Blu-rayの再販ないのかなあ。DVDの売上次第なんだろうか。 廉価版とはいえ他と比べれば高額商品の清盛DVDが1カ月以上もトップを走ってるぞ
>NHKスクエア
こんな超人気大河wを放っておいてはいかんぜよ
>再放送&Blu-ray >>871
松山ケンイチはデ・ニーロ・アプローチ(役柄に合わせて徹底的な役作りをする)を本当にできる
俳優さんだと思いますぞよ。まさにカメレオン。
しかし長文さんが誉めるなら『隣の家族は青く見える』これから見てみる。HULUで配信中だし。 夫婦や家族の問題が血縁と無関係ではないとしたら、コーポラティブハウスの実験は、
新たな地縁性=孤立化し原子化した個人&パートナーたちによる共同性の再模索という面からも興味深い。
清盛が掲げた「平氏は皆一蓮托生」なるスローガンは、清盛と血の繋がった愛する家族を基礎としつつも、
軍事・経済を統括した経営体としてのイエ=一門という意味をもったことに留意されたい。 日本人のおなまえっ!で出て来た船の映像はこのドラマかな?
画面の色合いでそんな気がしたんだけど 源義朝の紹介〜ウィキの記述をまとめてみた。
かつて都の武者として名を馳せた河内源氏は一族。
内紛によって凋落し、父為義も自身の問題行動によって白河院の信頼を失い、
官位は低迷して逼迫している状況にあった。そのような時勢の中、東国に下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし(上総御曹司)、
再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功をあげ、左馬頭に任じられて名をあげるが、
3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中で家人に裏切られて謀殺された。
これを読んだだけで、清盛が主人公の大河であるのに、義朝についても相当なハイレベルでフォローされていたがわかるだろう。
ここで注目したいのは、義朝は自らの属性を後天的に身につけていったこと。
清和源氏の貴種といえども、当初は没落中の源氏棟梁の長男以上の存在ではない(ドラマでは北面就職をコネ清盛に奪われる)。
海賊追討使に任じられた平氏と清盛が西に行軍する晴れがましい姿を横目に、源氏再興を誓った義朝は東へ向かった。
そこで過酷なヒャッハー生活に耐えながらも、徐々に東国武士たちの土地紛争に介入するなどして主従関係を築くことに成功し、東国へ勢力を扶植するに至る。
都の貴種との縁故を求める在地豪族層との間に姻戚関係を形成し(波多野氏、三浦氏)子をなした。その一人が鎌倉悪源太義平で京とは縁もゆかりもない荒くれ男だ。
つまり、都人義朝は東国修行によって「東国武士性」を自ら獲得するとともに、東国豪族の血が濃厚な子どもたちを生み出したのである。
苦節10何年、鳥羽が求める水仙(たまこへの愛のシンボル)を新幹線で!都に運ぶべく義朝はついに京に凱旋帰国した。ただちに鳥羽から院の近臣に取り立てられ、
ここでようやく都の「貴族性」を手に入れる。
そして抜け目のない義朝は、一目ぼれして追っかけてきたツンデレ女房、熱田神宮の由良姫に「俺の子を産め」と命じてw一子をなした。それが頼朝。
頼朝は、新進貴族を父とし、上西門院とも繋がりのある由緒ある出自をもつ女性を母とする、生まれも育ちもれっきとした京貴族なのである(→上西門院蔵人)。
このように義朝が獲得した両面性(東国武士性、京の貴族性)は、義平と頼朝という2人の子どもたちの間でいったん分裂した。
時は移り、平治の乱で義朝は滅び義平も死に、残された頼朝は伊豆の僻地で流人としてゼロからの再出発を余儀なくされた。
流人生活に入った頼朝は、「京を懐かしみ笙を奏でる孤独で文弱な貴種にして貴族風」の人間であり、これが本作の流人頼朝像の原型だ。
以上の2つの属性論からすると、流人頼朝の「再生過程」とは、義朝が統合しながら子世代で分裂した結果、京のシティーボーイである自身にとっては無縁の
東国武士性を、北条親子や東国武士との交わりの中で再び獲得していく過程と言うことができるだろう(立ち上がれ源氏の御曹司!by伊豆のカントリーガール政子)。
この重要な流れとダイナミズムを、大河清盛は(たかが大河だっつーのに)見事に捕捉していた。 厳密に言うと生まれは熱田。実質京人であることに変わりない。 >>878
汚盛に関わってしまったのは彼等の不幸。あまりにも汚盛製作チームの質が悪すぎた。 清盛制作陣が貫いてこられた大河の清盛の一生、まばゆいばかりの美しさにござります 忠盛が食べていた唐果物をオンラインで注文してみた。
届くのが楽しみだ。 唐果物といえば、いつも食べてるからってどこがセレブやねん平家、と思ってました…
ググったらこれはセレブしか食べられませんわ… 「先々代の正盛様でござりました。初めて私に唐果物をお与えくださったは。かようにうまきものがこの世にあるとは、
それはもう驚き。毎日でも食べたいと思うたものです。それゆえでござりますよ。私が一門において、宋との交易をさかんに
進めてきましたは」
「え?そうなのか。ただ唐果物を毎日食いとうて?」
「はい!」
「あきれた奴じゃw」(今でこそ笑えるが、宋との取引には、かなり危ない橋を渡った日もあったのだ※)。
「されど殿。そんなものでござります。欲すること、欲しいと思うこと。すなわち【「欲」こそがおのこの力の源】。
亡き大殿。。忠正さま。家盛様―あるいは鳥羽の院。悪左府様。信西入道。源氏の棟梁義朝殿。
さまざまなお方が、おのおのの欲するものを求めて生き、そして死んでゆかれました。殿、お覚悟なされませ。
殿はこれより先、そうした方々すべての思いを背負うて生きてゆかれるのです」
「・・・もとよりその覚悟。それこそ我が欲じゃ」(家貞は後顧の憂いなしと微笑した)
「唐果物をいただきとうなりました」―家貞は心から幸せそうに唐果物を一口ずつ味わった。
≪三代にわたって棟梁を支え続けた平家の筆頭家人家貞は、やがてこの世を去った≫(ナレ朝)。
※博多密貿易を素知らぬ顔をして仕切ってきたのも、唐果物大好きなこの狸親父w
何気にしんみりとさせる深い言葉を残してくれた家貞のおっさんの最後でした。 唐果物美味しいよ 伊勢丹でたまに買う ちょっと高いけど
あれ作れそうなんだけどね
あんこに入ってる秘伝のスパイスが知りたい
ちょっとシナモンみたいな香りがするよね
ただ、清盛の時代にはまだ砂糖がないため今のものとは違う代物だろうね 干柿のペーストに胡桃や松の実なんかを混ぜたものとかだろうと思う 厨2っぽいのが何となく高平太に似ている西郷どん。
こういう主人公にするとすぐバカにされるのがオチだけど、この2人に関しては必須とも言える青年像だと思う。
両者の似ている点と異なる点をちょっと考えてみた。
(類似点)
・「圧政」に民が苦しむ姿に接して黙っていられない。
→清盛では白河殺生禁断令により犠牲となった盛国の父、西郷では人身売買されるふきというふうに、生活に根ざした具体的描写。
・後先考えずに猪突猛進。
→目の前の悲惨を救う(清盛は小海賊退治。西郷は借金肩代わり)。また、政治による解決といっても権利者への直訴
といった直接行動しか思いつかない。
(農政に関わる中で愛民思想と農本主義という後の西郷の土台となる主義主張を育んでいった。斉彬との接点はフィクションでも、
お目見えはともかく調所へ直訴したことは事実らしい。清盛は落胤と絡めた白河への直訴。こちらは創作エピ)。
・現実の壁に跳ね返され、至らぬ自分、稚拙な自分を責める。
→正義自体単純ではなく、正義を振りましてもそれだけでは正義は実現しないことを思い知る(良き政治の必要性に目覚める。
そこでは、メタ視線による「自己評価」だけではなく、忠盛の「浅知恵は浅知恵によって跳ね返される。それによって苦しむのは民なのだ」。
調所の「やらせてやれ。上手く行くはずない」〜案の定、当の百姓から検見法は嫌がられ、結局ふき一人も助けられず〜
発言に見られたように、「大人視線」による酷評が加えられた。
決して主人公を単純な「正義の味方」に美化し、「主人公上げ」するような浅はかなストーリーではない。
(相違点)
・清盛は2話、元服の直前で松ケンにチェンジしたが、年齢的にはまだ10歳〜15、6歳の間。青臭い青年というより、
問題意識に敏感なませた少年から出発した。
西郷は鈴木にチェンジした時点で既に18歳。今で言う成人年齢に達しており、その意味ではやや子供っぽすぎるエピだったかもしれない。
・信西との穴での出会いから社会の矛盾を教えられた清盛は、彼なりの幼い正義感を抱くようになった反面、「無頼の高平太」と呼ばれる
不良、悪ガキでもあった(2人の巨大な父に挟まれて自我危機に陥った清盛の父と大人社会に対する反抗→克服後は武士像をめぐる忠盛への反逆)。
西郷はたぶんグレたことが一度もない、家族思いの優しい力持ちのようだ(清盛のような特異な出自ではないので、素直な青年で良いのでは)。
ただ愛民思想といっても、下級武士にすら内面化していたはずの「上からの統治者目線」が基本であったはずで、
良い人オーラが今のところ少々全開すぎるように思われる。今後に期待。 >>899
それね
伊勢丹だと確か1つ500円くらいするんだよね
瓦煎餅みたいな生地の中にシナモンみたいな香りのする小豆餡が入ってる奴
これ清盛だけでなく確か真田丸でも撮影に使ってたよね
いまの和菓子の原型ができたのって江戸時代に入ってからで、
それまでは砂糖が貴重品で日本において菓子と呼べるものって干し柿とかドライフルーツが支流だったから こういうお菓子は貴重品だったんだよね
饅頭時代は室町時代にあったけど、禅僧の精進料理として入ってきたもので
もともと肉まんみたいな食べ物が精進料理として小倉あん(塩味)というものだったので菓子という感じはしないし ★西郷って清盛よりバカだったの?なる不思議な書き込みに接したのでお答えした(なお回答ゼロ)。
清盛をただのバカとしか思わなかったウルトラバカのお前よりは、どちらも100万倍利口。
役年齢上、現在の西郷に該当するのが、博多密貿易がバレて内大臣頼長の尋問を受けたあたり。
堂々、貿易と宋銭による「国富論」を開陳して抗弁したものの、摂関家のエース頼長には
まったく通じず凹んで帰ってきた。
兎丸「何で言い返させへんかったんや、お前らしゅうもない」
清盛「言い返さなかったのではない。言い返せなかったのだ。言えば言うだけ己の青臭さ、
浅はかさを思い知らされるような気がして。何かを変えたいと思うだけでは動かぬものもある
・・・あのような男と渡り合うためには、俺はまだまだ度量が足らぬ」
早くから社会の矛盾と政治の不在に目を向けた清盛は、初めっからお前とは違って利口だ(こんな「中学生」滅多にいない)。
正義漢ぶった無思慮な行動は幼かったが、忠盛から「浅知恵は浅知恵によって跳ね返される」と諭されれば、
ちゃんと反省する学習能力があった点でも、バカのお前とは比較にならない。
ツッパリ清盛を「左様か、好きにせよ」と突き放しつつも、博多見聞をセットするなどして
(教育プログラムを押しつけることなく)、教育パパ忠盛はそっと清盛の自発的成長を見守ってきた。
その期待に答えるかのように、持ち前の行動力で未知の広い世界(空間、階層)へと臆することなく飛び出していき、
多くのことを学んでいった清盛は、朝廷流のお勉強には熱心でなくとも学習意欲旺盛な青年であり、
本も読まなければ行動力もないバカなお前とはまるで違う。
こうして博多見聞により一段成長した清盛であったが、頼長から簡単に論破されて「まだまだの自分」
を思い知っている。ちょっと成長しただけで天狗にならずに自分を見つめる目をもつ清盛は、
ネットで偉そうに他人の営為を腐すのが仕事であるお前の100万倍利口なんだよ(現在の西郷の年齢あたり)。
その後、祇園社事件でただ一人、当時の意識水準を超える「ものの考え方」〜清盛の特徴であるある種の合理的思考
(→滋子巻毛騒動、経ヶ島人柱拒絶伝説)〜を世間に知らしめるなどしながら、徐々に後の「体制変革者」そして「交易国家論者」清盛が形作られていった。
忠盛との力量関係が(全面的とはいえないものの)逆転したことを見極めた上で、ようやく棟梁就任へと相成った傑作「さらば父上」回。
そうはいっても新棟梁清盛は妻時子共々、平氏を支える屋台骨としてはまだまだ未熟であり、その未熟ぶりとさらなる成長描写が念入りに用意されていた。
さらにさらに、清盛成長戦略は平治の乱での逆転勝利まで延々と続くのである。 一人の人間の成長プロセスは、順をおって丁寧に検証しなければならない。
それゆえ、18歳の西郷の青臭さと「中学生」清盛の青臭さを同一平面では論じることはできない。
そこで、現代でいう成人前後の清盛がどうであったかに着眼してレスしたのが、上のレス。
あれこれ紆余曲折を経た清盛だけれども、この時点ではかなり経験を積み、世間と世界に対する視野を広げて
自己の将来像を描けるだけの青年となっていたかがわかるだろう(頼長には完敗したが、リクツとディベート能力では敵わなくとも、
経験値からいえば、書物からだけの知識を振り回す頼長を既に上回っている)。
西郷とどちらがバカだったのか?なる下らない質問に対しては、どちらもバカではない、しかし清盛のが二十歳前後の時点では
進んでいたとお答えする。
ババアたち御用達の攻撃材料=「信長を真似した清盛うつけ描写」なんぞ1秒もなかったのである(いわゆる厨二的描写はあったが、
それは未熟であっても「バカ」「うつけ」を意味するものではない)。 そうそう
知性という意味では馬鹿ではないが、何もわざわざ義清から躰仁誕生がもつ意味を
レクチャーされてナルホドするシーンまでやらんでも、
と当時批判したことを思い出した。
それとは逆方向で、未完の大器であっても、ちょこっと盛って切れ者ぶりを発揮する
エピを、「主人公補正」ということで挿入した方がドラマ的には良かったかもー
と主張したりもした。
そういう疑問や要望はあっても、ドラマ造型上、清盛はただの馬鹿ではなかったことは動かない。 清盛は自ら経験したことを血肉化する方面で抜群の才能を発揮した反面、
直接見聞きしてない事柄についてはまるっきりウブだったからね。
お世継ぎがどんだけ朝廷内の権力闘争において決定的な意味をもつものなのか?
そういう方面はまだ別世界の出来事にすぎず興味関心の外にあったのだろう。
なので、出世願望も露わゆえそうした方面に関する動向に敏感な義清から
レクチャーされるというシチュは、今振り返ると、わざとらしい「清盛下げ」
とまでは言えない。 今見返してるのだが
若きら清盛や忠盛が陰陽師や神仏に対してあんな者はいない
単なる権力装着と思ってるのだが
老いた清盛入道の時代は神仏にひたすらすがっていたような描写が多いな
安徳帝懐妊のきがんとか、高倉帝の病の原案は風水の方角が悪いからとか言ってたり
こういうのも清盛のダーク化 没落、老害化に対する1つの表現なのかな? いやいや「ある種の合理主義者」と書いたのは、「近代的意味での合理主義者」ではない
ことを含意させるため。
後白河院と並んで清盛の迷信嫌い、悪しき因習嫌いはガチ。この意味では徹底的な合理主義者。
しかし、後白河は今様など芸道に精進した一方、仏道にも深く帰依した。
清盛も、徳子安産祈願に見られるように、まさに神頼みの側面が大いにあった。
何よりも厳島信仰は半端でない。平家の氏神様を国家宗教にしてしまおうと企てもした。
しかしこの厳島信仰は、旧来の宗教秩序を根本的に改編し国法秩序に適切に位置づけよう
とする政治家清盛の「世俗的政策」と無縁ではなく(常に政治が宗教に圧迫される現状を変える)、
このことが旧宗教勢力との激突を不可避のものとしてしまった面は否定できない(平家没落の一原因)。
このように、合理主義者清盛を整合的に把握するのはたいそう難しい。
いわば迷信深き古代中世人と合理的な近代人の両側面を兼ね備えていたのではないだろうか。
大雑把に見ると、人の生死に関わる部分では神仏頼み。世俗生活とぶつかる部分では合理的思考優先。
そんな印象を受ける。 いわば迷信深き古代中世人と合理的な近代人の両側面を兼ね備えていたのではないだろうか
そうかもねあの時代いくら革新的な合理主義者でも宗教的な事柄を全く否定する人物というのはあり得ないだろうし
ただそれを権力として利用しようとしていた旧勢力に対抗する意味で厳島の国家宗教化は必要だったんだろうね
旧宗教勢との対立は奈良時代からずっとだしね
平安京遷都だって奈良の仏教勢力の力を削ぐためだし 狩ぁり〜の名人熊ぁ吉がぁー
西郷どんと仲良さそうな転生信頼さんだけど、あっちのほうを想像しちゃいけませんよね…
前世ではゴッシーと手取り合っての睦まじきダンシング。。。 461 日曜8時の名無しさん[sage] 2018/01/23(火) 06:14:03.96 ID:koXsjOJw
清盛も歴史上の出来事をなぞるだけって点では西郷どんとよく似てる
特に複雑になってくる中盤以降は登場人物が歴史の流れを説明するようなセリフばかり喋って、
生身の人間がそこに生きてるような臨場感が全くない
もちろん部分的にいい箇所はあったが総論的にはそんな感じ
キャラクターが直情的だったから実況とかしながら見る人にはよかったのかもしれない
きたあああとか言いやすい大河
★ギャグにしてもアレなもんで、「直情的」でないご説明をしていただきたいのすが、
例によってダンマリ。
しかし、ただ歴史をなぞっただけで人間ドラマ不在とは何のことなのでしょうか?
他方、歴史描写が足りずキャラのココロだけで歴史が動いている、政治描写がない
とか逆方向からの難癖も根強い(歴史学から見れば足りなくても、大河ドラマで
これほど史的展開を丁寧に追っていく「政治ドラマ」はほとんどない)。
謎謎ですわ。 史実性と一貫した物語性がミックスし、前半・中盤から積み上げられてきた数々の布石と伏線を
次々と生かし回収しながら、あたかも「シェークスピア劇」(吉松隆)の様相を呈した清盛後半。
こうした劇的要素は、常に史実と物語上の論理に支えられたもので、その場の思いつきのような柔なものではない。
物語の推進力は常にのっぴきならぬ歴史展開であった点で緻密な歴史劇であり、主人公たちの
息詰まる葛藤描写や心理戦の描写に優れていた点においては抜き差しならぬ心理劇であった。
それらを強靭な論理性が貫いていたことで、ただエピを並べていく五月雨展開型の多くの大河とは
似ても似つかぬ、全50話がタテヨコ緊密にリンクされ、それぞれのパート、場面が相互に作用し合う
重層的かつ構造化された1個の群像劇が出来上がった。
ところが、この不思議な目をした女には、「臨場感がない」、(「論理的なアタシ()」には「直情的」、
深くモノを考えないでその場限りの感動ポルノを好む「実況民向け」となるのだそうだ。
世の中「センス ofワンダー」(大河清盛を絶賛したアメリカ文学、SF批評の慶大巽孝之)に満ちておりますわね。 しかしまあ、後半の清盛なんて盛国すら何考えてるかわからない、真意を語らないキャラだっただろうに。
そうした父に振り回されて苦悩を深めた重盛であるが、最後まで直情径行キャラとはまさに真逆の沈着冷静な「賢人」だった。
赤い羽根から真相を悟り、すっかり清盛から虚仮にされたことに衝撃を受けた重盛は、一門の面前でどう振る舞ったか?
怒りを爆発させたか?そうではない。さすが棟梁重盛様と喜び讃える彼らにただ微笑で答えたのみだ。
しかし、その重盛もついに糟糠の妻経子の前で慟哭した。
こういうのを「直情」と言うのだろうか?(平家の人々の思惑が複雑に交錯する殿下乗合事件回は、台詞以上に彼らの表情
〜ポーカーフェイス、アイコンタクト、猜疑、驚愕、不信、微笑〜が多くをあるいは何かを語った)。
そして、まさか決死の覚悟と確信の元に臨んだあの「忠ならんと」の慟哭が「直情」だと?
盛国が直情的?元々寡黙な上に、後半はグッと堪えて表情だけで演技する場面だらけではないか。
だからこそ「ヤメヨー」の大喝が恐ろしいほどのド迫力で鳴り響き、清盛その者に突き刺さったんだよ。
策士であり曲者の時忠が直情的だと??冗談はやめましょう。
竹馬コンプに苛まされ続けた宗盛(木下強奪エピとの驚異的な接合)。かつての平家物には見られない
能力不足の自分を見つめる視点をもった宗盛。
敬愛する重盛へのコンプと密かな野心との狭間で葛藤し屈折した彼だからこそ、ド直球を投げ込んだ一世一代の還都諫言が
頑迷な清盛を動かし得たのである。
まさかこの女は、宗盛が身を投げ出したこの歴史的名場面をもって「直情的」とほざくのだろうか?
後白河、頼朝等については略。
このように清盛の登場人物たちの感情の爆発や慟哭さらに嘆きなどは、常に息の長い線的描写の果てに訪れたものである
(他に、「誰でも良ーい清盛」と穴で出会い「清盛その人」を求めながら穴で終わった信西。「我が子よー」の忠実、
文字通り大咆哮し直ちに行動に出た治承クーデターでの清盛〜重盛を賭けた最初の双六からの因縁など)。
とんだ「感動ポルノ」だわね。 確かこの女は昔「平家の女」視点から何でやらないのよー、無能な制作側がーってやってた。
大変結構でござりまするが、大河清盛は大河義経におけるような「女子会トーク」には一切関心を持たなかった。
ひたすら歴史の動きとそこに生きた人々の核心部分へと迫ることだけに力が注がれた、そういう大河だ。
ある意味、「王道大河」ですらあるのだが、考えてみるとこのようなレベルで歴史を追っていき、
質の高い情報量満載の大河はほとんどない。
んなもんで「ただの史実再現ドラマ」とか目が・となる呆れた評価が出てくるのだろう。
清盛は頼朝によるナレの挿入も絶妙であったが、登場人物たちが然るべきシチュエーションでの
当然あって良い「説明台詞」を超えて、説明台詞だけで物語が進んでいったとは、これまた笑止千万の与太話だ。
絶頂平家とその没落過程ばかりが描かれてきた平家物において、本作は平治の乱後の清盛の上昇過程を
本格的に描いた初めての映像作品だろう。
この視聴率的には不利となる地味な政治パートを逃げずに取り組んだことだけでも賞賛に値するが、
どうしても必要となってくる説明部分すら常にストーリーライン上に適切に位置づけられ、
因果の流れを有機的に作り出していた。例えば、
〜狭くて通航不能→広げれば良い→万事先例の朝廷からの許可が下りない→重盛を送り込んで工作させる〜
という具合に。
ここでは、音戸の瀬戸開削と重盛公卿昇進という重要史実が、清盛と兎丸との巧妙な「説明台詞」によって
見事に連結されていた。これはほんの一例。 屈指の芸術回であった白河院の伝言回。
新映像を加えた上で回想を駆使しながら、生死の境界線上で悶える清盛は、過去と現在、
意識と記憶との間を往還し、そこで母舞子と「出会い」、父白河と再び対峙した。
清盛が死の淵から蘇生したのは、「そちはまだ見えぬ登りきった景色を」と無表情で息子
を挑発する(ある意味尻を叩いた)白河院に、「あなた様を超えて見せまする」と決然と表面したその時だ。
作劇上のハイテクを駆使し内容的にはいささか晦渋なこの回は、実に清盛の未来をも語っていたのである。
そして、登りきった末の景色はいかなるものか白河に代わり清盛に尋ねたシーンこそ、乙前によるかの
「いかがですかござりますかそこからの眺めは」のリフレインである(治承クーデターのメタファー)。
この回は、清盛の人生を前後二分する画期となった大病・出家という単純しかし重要史実から、
過去・現在・未来の全ベクトルで人間ドラマを深掘りした回であり、とてもじゃないが、昔は良かったーによくある
回想を垂れ流すだけの「中間的総括回」で済ますわけにはいかない。
これを見て「ただ史実を並べただけ」と感じることは自由だけど、そういう人は清盛とは一生縁がないと
諦めるしかない。 うわぁ帰って深キョン清盛くん近衛ちゃん惟方氏を愛でようと電車に乗ったら
録画し忘れたのに気づいたの巻 隣の華族は蒼く見るは、中々深いお話だね。
現代の華族模様を描いてる佳作。
長文も見れし どうせ一回でやめるとおもって連続予約しなかったのよ。
因果の流れに追加すると、二条親政により院政停止、窓際に追いやられて鬱屈し仏道に帰依する後白河の姿と、
清盛による蓮華王院献堂もそこに組み込まれていた。キーワード=【院政停止】【仏道帰依】【蓮華王院】。
重盛を公卿に送り込むといっても、清盛が決めるわけではない。人事権を握る後白河の歓心を買う必要がある。
そこで清盛は、癇癪を起しムシャクシャして仏に縋る後白河の心の隙をついた。
(既出のように、これは父忠盛が鳥羽に取り入った手法を踏襲したもの=得長寿院献堂→殿上人へ)
・頼朝ナレにより後白河の置かれている現状を解説。
・法華経の長者窮子を読み、自分をシカトする〈親不孝者〉の二条に腹を立てるゴッシー。
・反面、最愛滋子の子である憲仁溺愛の様子
・千体の千手観音像を作らせたが、堂がなくて困っている情報を聞きつけて清盛が訪問、請け負う。
(清盛は千体の千手観音像を奉安する御堂を献上した。蓮華王院と呼ばれるその御堂は、それは華麗なもので、
後白河院は狂気乱舞なさった)byナレ朝
・褒美として重盛公卿昇進(ギブ&テイク)
まとめると
博多を都の傍へ持ってくる→瀬戸内海は狭く船が通れない所がある→【音戸の瀬戸】を開削する→朝廷の許可がおりない
→一門を公卿にあげて影響力を発揮する→蓮華王院献堂(【アナタコナタ】は政治的には二条へ奉仕、経済的には
後白河に奉仕が基本スタンス)→【重盛公卿】へ
このように、地味だが見落とすことのできない重要な史実が、流れるような一本のストーリーとなって連結されていた。
新しもの好きの後白河に取り入ってきた清盛であるが(「清盛の大一番」回での宋の茶器)、ここでは「仏に縋る後白河」
の心の隙につけ入ったことが重要。
以上、「単に史実をなぞっただけ」の清盛でした! 後にも先にも全話録画Blu-rayに落とした大河は清盛だけだな
関連番組もほぼ収録したし あそこまでハマった大河は他にはないよ >>923
俺ここ最近では風林火山とコレと八重の桜だわ
当時はDVDレコしか持ってなかったのが悔やまれる
毎日その3作品を順番に見直してる ・「俺は誰なんだー」「誰でも良ーい」なんて、ちょっとやめてほしいと思うでしょ、ふつう。
それがへいじの乱であんな悲しいシーンへと転化するなんて。
・下らんラブコメとマッチョ婆たちが思いっきりバカにしたツンデレ由良の「と父は・・・」。
これが今際の際で「義朝様forever」を伝える感動のメッセージとなるとはね。
・強き人生、美しき人生、面白き人生〜三者三様の青臭い抱負を語り合った3人の男たち。
中身のない薄っぺらで陳腐な対比にこちらまでこっぱずかしくなった。
しかし、最後まで見届けた人間には、義朝の強き人生、西行の美しき人生、そして清盛の面白き人生、
どれをとってもずっしりと重く響き、若き日のあの馬鹿臭いシーンを思い出しては感慨に耽ってしまう。
・ヲタすら嫌う海賊王になるぞー。しかし、清盛が兎丸の名を刻んだ石の経文を作成するシーン
が来るたびに、思い出しては懐かしさで胸が一杯となってしまう(同調を求めません)。
以上は、「今年の大河は安っぽい」と言われかねなかった描写だが、これらに限らず
最後まで熱心に見続けてようやく真価がわかる。もっと本格的な理解を求めようとするならば、
「平清盛なくして武士の世はなかった」で締めたナレ朝から直ちに初回冒頭に回帰して再見、
さらに三度見以下続くの循環を繰り返す必要のあるーそんなヘビーな大河が清盛。
これが大河の正しい在り方とは思わないが、ともかくも本放送時と比べて格段に理解が進み、
再評価がなされ、プチリバイバル現象を見てとることができるのは喜ばしい限り。 へいじの乱→平治の乱
と父は→と父が
毎度スンマセン。
ツンデレ姫から武士の妻の鑑へと「転身」した田中麗奈さんは素晴らしかった。
ついこの間、明治天皇の妃を見事に演じていたが、ついでにもっと奇怪で
政治的にも光を当てなければならない大正天皇の怪物キサキ(原武史)を是非やっていただきたい。 アンナチュラルの転生崇徳が話題のようで、さっそく清盛オバサンたちが清盛見て―とやってます(頭が下がります)。
ただ、最後の怨霊だけにスポットを当てた鑑賞のされ方は、アラタ氏としても不本意だろう。
儚げでひたすら不憫な崇徳ではなく、権力意志も露わな崇徳(待つこと13年!)こそ本作の崇徳の真骨頂であり、
ブリリアントなアラタ氏は、そのことを鋭く見抜いた上で役作りに励んでいたことに留意されたい
(そうでなければ怨霊となるまでもなく、配流先の讃岐の地で静かな余生を送れば足りたのである)。 ローリング卒倒した崇徳を死んだ魚の目と評した人がいて、これ中の人に対する最高の褒め言葉じゃんと感心したもんだ。
青墓で覚醒した雅仁。堂々めぐりする王者議定。とうとう重仁即位のときが来たと胸を高鳴らせる崇徳。
そこから突如ギアがトップに入り怒涛の急展開でラストへ。ニンマリドヤ顔で玉座に座るゴッシーが爆誕した。
幻想的な青墓といい、このかっとんだ演出も清盛の「大河らしくない」部分。
自分はもちろん好きだけど、置いてきぼりを食らった人も多かったのでは。 途中サボって見てないが、最終回ということで精霊を見たら懐かしい白い粉がw
こうこなくっちゃw いいなあこの色彩を抑えた映像。技術面の詳しいことはさっぱりなんだが、やっぱ好みはこっちだ。
とりわけこの方面では、明るい、キレイ好きの方々を説得し、説得される関係となるのは無理。つまり議論してもムダ。
西郷どんの映像基調は基本清盛寄りだと思うのだが、気のせいか時に色調にくどさを感じる。何か加工しているのだろうか。
とりあえず、映像面における清盛の挑戦が大失敗と総括され、完全にリセットされた(私見では退行現象・・・)
とまではいえなさそうな印象がもてて、精霊最終回は有意義だった(ストーリーはもはやわからん)。 転生崇徳院と重盛のドラマ、なかなかいい
これまでも法医学がテーマのドラマはあったが、地味だった
ここまで派手に面白く作れるのかって感じ アンナチュラルの脚本は当代屈指にまで上り詰めようとしてる凄腕だからな。
それも良いが、主演夫婦二人の、となしばも良いぞ。
優しいタッチで現代を中々鋭く描いている。 それと法医学を派手に描いたのは、小栗旬と島津久光と上杉景勝
が出てたドラマで。あさがきたの人が演じてたのも良かった。 医療・刑事ものと漫画原作ものは、それだけで偏見により大方パスなので、
法医学ものも気が進まないのだけれども、2人が出るということでこちらは連続予約。
でもまだ見てませんスンマセン。
原作なしでちゃんと話を作れてオリジナリティがあってしかも面白い。
ドラマ映画好きでも何でもない無粋な男が言っても説得力ゼロながら、そういうの女脚本家の方が
断然上でないの?少なくとも現在は(西郷は原作ありだが、原作無しの大河が絶対正義のはずがない)。
大河においても事情は同じで、NHKがオンナに媚びたゆえの女脚本家の起用とは言えない。
歴史音痴ならバックアップ体制を充実させる方向で補い、まずは作劇能力を重視しているのだろう
(ハズレは当然出てくるが、それは男脚本家でも同じ)。
念のため言うと、藤本女史は、受諾時こそ平安についての専門的知識は危ういものであったとしても
(元々その時代のそのテーマに精通している脚本家はほぼいないだろう。
ところが、「大河批評の権威」たちによると、昔は良かったーの脚本家たちは、執筆前から専門家並みの知識を
皆持っていたのだそうだ)、禁欲的なまでの勉強ぶり(by本郷)とバツグンの頭脳と古典的教養によって、
隅から隅まで研鑽の成果と知識量では決まらない歴史への洞察力を、大河清盛において開陳したのであった。
野木女史という売れっ子についてはまだよく存じ上げぬが、才気煥発しかも長丁場に耐えうる
構成力・俯瞰力を証明した暁には、ぜひ大河をやってもらいたいね。 清盛に関しての藤本有紀のロングインタビューとかないのかな?
世間的にはアンチの人かなりいたけど、脚本家本人の反論をぜひ聞いてみたいのだが
言いたいことたくさんあったと思うんだよね
はっちゃけちゃうと収集つかなくなるからNHKがセーブさせてたとは思うけど.... ちょっとこの極端な善悪二元論はなー。斉興と斉彬。
客観的には幕府の命である以上、選択の余地はない隠居勧告。
嫌々強いられた感を強調するために、斉興の心情をクローズアップしたのが、今回のロシアンルーレットだろう。
意図はわかるのだが、ちと狙いすぎな創作。
突飛な創作エピといえば鳥羽エア矢。公卿会議で家成、信西といった親平氏のメンツ(の説明台詞)によって
的確に解説されたように、今や鳥羽の治世は平氏の経済的と武力なしには立ち行かない。
優柔不断なところがあった鳥羽は、祇園社事件の対応では果断な措置をとったという(罰金刑で済ます)。
この鳥羽の優柔不断面を踏襲しながらも、「より悩みなかなか決断を下せない」鳥羽へとアレンジするための
創作が鳥羽エア矢だ。自ら足を運んで「枕を射てみよ」と清盛に命じた鳥羽は、清盛が放ったエア矢を受け、
ようやく決断するに至った(何故か?について澎湃した解釈論争については略)。
ここでは、平氏大事から軽罪で済んだ清盛という身も蓋もない史実から、治天鳥羽の主体的決断面を掘り下げる
ドラマならではの作劇がなされたこと。そこで祇園社事件の核心は、清盛の涜神行為ー「あんなものはただの箱」
に止まらず、旧貴族体制のど真ん中で君臨する鳥羽そのものを「射た」行為により、鳥羽自身が述べたように
「そちこそ朕が乱したこの世に放たれた〈矢そのもの〉」にあった、とする脚本家のブリリアントな解釈が付加
されたことが何よりも重要である。
しかも、このエア矢は弁慶の記憶によって40年後、鎌倉まで飛んでいき、不信感に陥った頼朝の清盛に対する
リスペクトを新たにするという途方もない働きをしたのだった。
願わくば、弁慶久光殿、明治に入ってからこの父と兄との藩主交代劇を思い出して、重い意味を与えてやってくだされ丼。 >>937
言い訳無用とばかりに沈黙する姿が清々しい。
三谷も森下も喋りすぎ。
一度胎内から子供が世に出たら、あとは世間の評価に委ねるべき。
この点で、終わって間もなく、ファンが余韻を楽しんでいるところに
ペラペラ「敗者商売」を始めた松ケンには失望してしまい、厳しく批判した。 >>938
枕を射てどうすんだ?よく眠れるようになるのか?
とまず軽く突っ込んどく。
今日の「西郷どん」はまだ見てないんだけど
どうもちょっとがっかりしそうな感じ。
これまでのところ後藤象二郎や弁慶よりも
青木久光のらしさが出てないのも気がかり。
上司部下でありながら終生の敵とでも言えそうな憎らしい
存在感が今のところの人の良い久光からは見えてこないが
これはここからの見せ所でもあろうし楽しみに待つ。
「あんなものはただの箱」とする涜神行為は現在に置いてさえ
非常に危うい感じがする。この無神論はのちの平家納経の信心に
対しても若気の至りでは済まないちょっと異常な行為に思える。
うちの地元では最近子供会主催の左義長がなくなって
自治会が無宗教で焼却するようになった。
時代の流れかもしれないが将来、古いお札をこんなものはただの
ゴミだと生ゴミと一緒に出すのが当たり前の社会になるのかもと
思うとちょっとぞっとする。 うわぁやっちまったw
×枕→○お朕朕
まあ神輿がただの箱っていうのは、紙幣はただの紙と嘯くようなものだ。
さらにそれが進むとビットコインはただの記号あるいは観念となる。
そこに信用が付与されない限りただのモノ、あるいは記号・観念にすぎず無価値。
清盛は、世俗的な欲望のために政治利用しているだけの坊主たちが担ぐ神輿に
宗教性を認めなかった。中にホトケが住まわぬ限り「ただの箱」ということでしょ。
以上、屁理屈捻り出してみました。「信仰深き無神論者清盛」はマジで難問。 >>938
あの「ロシアン・ルーレット」は完全創作でなく、薩摩で実際にやってた「肝練り」という風習を翻案したらしい
【画像あり】「肝練り」とかいう狂った教育wwwwwwwwwwwww by Aちゃんねる - A Channel -
http://guppy.a-ch.net/test/read.cgi/culture/1464584343/ そうだとしても、藩主を肝試しで決められちゃたまったもんじゃない。使う場面がちょっと違うだろ。
しかも、2人の極端な善悪二元論的描写からは、勝敗はやる前からついており、どちらに転ぶかわからない
緊迫感に欠けた(2人の名優の力技は見事)。
ここで、重盛を賭けた清盛vs後白河による最初の双六を思い出したところでおやすみ。 >江とか花燃ゆとか官兵衛とか天地人とか清盛とか経て
>まだ大河は史実に忠実だとか寝言言ってる人がおるんかいな(??????`)
ふーん、じゃあ、ババアどもが大好きな真田丸とおんな城主は「史実に忠実」なんだ?
お前の大好きな花の乱とか黄金の日日とかジパングは「史実に忠実」なんだ?
源平物の新平家、草燃える、義経で、もっとも歴史情報が貧弱でデタラメやった大河が清盛なんだ?
基本設定すらデタラメだったり、義時が愛する女を追っかけて壇ノ浦に参戦したり、オリキャラがわちゃわちゃやったり
女史トークやって義経の真実なんてほとんどなかった大河ではなく?フーン。
ま、おんなネトウヨに今さら何言ってもムダだが、清盛ほど史実をきちんと押さえていった大河はほとんどない。
もっとも派手なエア矢にしても、史実を改竄したものではなく、祇園社事件という大事件の史実部分と社会に与えた衝撃を、
公卿会議等を通じて的確に伝えるとともに、人間ドラマ部分(鳥羽の決断)を想像力豊かに膨らませ、
併せて清盛=(後の)体制破壊者という根本テーゼを鮮烈に印象づけた創作である。
もう一つ、常に出される一騎討ちは、それこそ平治の乱のエッセンスを極めてオーソドックスかつ的確に描いた上で、
ドラマが内包する論理展開に正しく位置づけて導出された作劇なのだ(射程は殿上闇討ちから最終源平合戦まで及ぶ)。
要するに、歴史と人物の核心へ迫ることを目的としない単なるフィクションとは清盛は一貫して無縁であり、
そういった意味で「史実に忠実な大河」、「史実とフィクションが高次元で融合した大河」なのである。 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。