それは当時から突っ込まれていた真面目な疑問。
明確な誤り、誤解、曲解、難癖と考えての反論ではないが、これに対しても長文した。

簡単に言うと、重盛が正当と考えてきた君臣の道に関する儒教的大義名分論に基づく。
重盛にとって政界の最大実力者である清盛は、あくまで偉大な父であって君とはなりえない。
君となりうるのは、体制によって正統性を付与された元天皇そして現治天の君である後白河をおいて他にいない。
臣重盛にとって後白河は、贔屓されたからとか優れた政治手腕に傾倒したからではなく、位階秩序の頂点に君臨する君
ーただそれだけで尊崇の対象と〈しなければならない〉至高の存在であった。

実際、後白河院の近臣といっても、重盛は西光や成親のように常に後白河の側に仕え、意思を体現し、
手足となって動くような存在ではない。あくまでも主軸は平家の棟梁の方にある。
そこに利害相反関係が生ずるのは不可避といえ、平家棟梁である以上、利害相反が両立不能なほど決定的になった場合は、
平家ファーストで行動するのが筋であり、当然、清盛は重盛に対してそのような行動を要求した。
ところが、どちらに対しても誠実に応えようとする重盛は、両者の板挟みとなり苦しみ衰弱していった。
痛々しかったのは、そのような重盛を「あいつは清すぎる」と見限ったのか、清盛が時忠を参謀として
頭ごなしに事を進め始める事態へ至ったこと。善解すれば、汚い謀略のために清き息子重盛の手と心を染めたくないとの親心か。
しかし、尊敬する父清盛による「重盛パッシング」は、いよいよ重盛を苦しめることとなってしまった(「とく死なばや・・・」)。

このような「父清盛と君後白河との板挟みに苦しむ重盛」という重盛像は、一朝一夕に出来上がったものではない。
行動力に優れ見知らぬ世界へと臆することなく飛び込んでいった清盛が、いわば外界の世界を教科書とする
経験主義的な人間であったのに対比させるかのように、父清盛を超えようと懸命に努力する真面目人間重盛にとっての学び舎は、
常に四書五経や歴史書など書物の世界にあった。
このような重盛が、頭でっかちで視野の狭い四角四面な観念論者へと成長し、あのゴッシーを「尊崇すべき君子」と見做して
あくまで忠義を尽くしたとしても、それほど奇異なことではないし、ドラマ上の描写不足とも思えない。