【謎の歴史観】おんな城主 直虎【もう史実はあきらめよう】スレ 其の六
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前スレ
http://itest.5ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1503352604/l50
もうどうでもしたらええがな
今のNHKに史実を期待するほうが間違いだったのだ。
それにしてもNHKには一流大卒しか入れないはずなのに、
どうしてこんなに小学生並みの知識すらないドラマになるんだろう?
年内に落ちなかったら以降はNHK関連の雑談スレとして使用します
「ドラマだから何やってもいいんだ!」という以上は、
2ちゃんねるで何やってもいいよね。 以下に貼り付けるような文章を、ちゃんとした講評というのだと思った。
『おんな城主直虎』終わる 偽隠居やまねの戯言 2017-12-30
http://yamane-blog.hatenablog.com/entry/2017/12/30/025239
『真田丸』と二年続けて主人公にあまり魅力を感じず、大河にしては撮影が残念な場面が散見
され、音楽も――本来、菅野よう子作品は好きなのだが――好みではなかったし、脚本家の
手癖に辟易させられることもあった
が、
『風林火山』終了後、何度も死んでは息を吹き返しかけ、やっぱりだめで……を繰り返してきた
日曜夜8時のドラマが
この二年で新しい方向性を見出したようだ。
新しい学説を積極的に取り入れ、史実と創作を巧みに撚り合わせ、武田やら太守様やらの大
勢力に翻弄される国衆にとっての戦国を、生き生きと描き出していた。
20年以上前の大河にくらべれば豪勢な合戦シーンはない。が、そのかわり『直虎』では農耕や
植林に関して手間も予算も投じたのではないか。メーキング番組で、一日で広範囲の稲を刈り
取って次の場面につなげる作業が紹介されていた。裏方のみなさんの労力はいかばかりかと
思ったものだ。
小さな井伊家界隈の物語にしては、第一次産業から第三次産業まで幅広い職種を丁寧に描い
ていた。交渉の過程を地道に積み重ねた点も印象的。幼なじみ萌えというやつに縁がないので、
主人公周りの台詞で一番いいなぁと思ったのは、直之の「ここらが落としどころにござりましょう」。
『ハウス・オブ・カード』のように見るからにえげつないという作風でなく、時に甘口のBGMを流し
たりしていたが、実態はかなりシビアなポリティカル・ドラマである。力がない者が生き残るため
には身内を切り捨てなければならない、あるいは知恵を絞って極上品で強者の機嫌を取らねば
ならない。最大の力を得た者は、好むと好まざるとにかかわらず、二番手の弱体化を図らざるを
得ない。 女性主人公の頻度は下げた方がいいと思うが、今年は主人公が女性であり、武家の出ながら
僧籍に入ったという境遇が有効に働いていた。坊さんたちが仏教を学ぶだけでなく、武術の
鍛錬にはげむ場面も多々あり、その縁で(?)ヒロインが槍をふるう場面にまで持っていくとは思わ
なかった。
夫も子も持たなかったことを母親に詫びる場面を作り、しかし最終回で「子を持たぬからこそ、
どの子もいとおしい」と言わせて織田方に殺されそうな子を助ける。生涯独身という主人公の
設定を生かし切ったすばらしい展開である。
昔の重厚大河でも、最後は消化試合になることは少なくなかった。今年のように40話を過ぎた
あたりからぐいぐい惹きつけられるのは珍しい。IQの高い脚本というか、一年かけてまいた種を
片っ端からきちんと回収していくさまは実にあざやか。直虎、信長、氏真ほか多くの人間が、
自分が他人にした仕打ちの報いを受ける"因果応報"のリピートのえげつなさというかストーリー
テリングの巧妙さというか、森下佳子氏のレベルでないと"伏線を張る"なんて言葉は使っていけ
ないなと感じる。
義元、信玄といった大物を誇張気味に記号として描く割り切りには、清々しささえ感じた。信長
もカリスマと威圧感のだけの上様で終わるのかと思いきや、退場間際になって、心から茶器を
愛でたり家臣への優しい思いをつぶやいたりと、ずいぶんと人間味を増していた。光秀に狙わ
れているとはつゆ知らず……頭が切れすぎる人間にはこんな迂闊なところもあるのかもしれない、
などと思わせる。
女性大河のふれこみを聞いた時にいろいろ危惧したことが杞憂に終わり、大河ファンとしては
かなり幸福な一年であった。責任がないところできれいごとを並べる女性キャラがいなかった
のも何より。寿桂尼の女傑ぶり。築山殿も成仏するであろう新しい瀬名像。於大の方の戦国の
母像も強烈だった。一度は我が子に「信康を殺せ」と命じ、二度目も徳川に災いを招きかねない
男児の命を奪いそうになるが、直虎の反論に納得して引き下がる。寿桂尼のレベルではない
にせよ、一人前の女外交官とはああいうものだと思わされた。 >>462
凄く良い批評だけど、スレチだな
このスレはキチガイ以外居ないから本スレに張ろう >>462
これ書いた人は、そもそもこのドラマが戦国時代の社会を扱ったドラマじゃないことを知らないんじゃないかな。 >>464
わかりました。本スレにも貼ってみます。
>>465
あえていえば、現代社会と完全隔離された時代劇なんか作れません。役者もスタッフも全員現代人だからです。 >>466
あれは別に現代劇ってわけでもないんだ。
現代でも戦国時代でもない別の時代の時代劇。 別のサイトで直虎の良質な講評を見かけたので、それも貼ることにする。
『おんな城主直虎』が最終回まで描ききった「戦をしない戦」 (明晰夢工房 2017-12-17)
http://saavedra.hatenablog.com/entry/2017/12/17/224405
このドラマがここまでの傑作になると誰が予想しただろうか。
脚本の森下佳子は最終回が一番よく書けたと言っていたが、本当に素晴らしい大団円だった。
真田丸にもつながる赤備えの登場や龍の形の雲が湧き出るお頭の最期、碁石を使った「完」の
粋な演出など、このドラマを見守ってきた視聴者には大満足の最終回に仕上がっていたのでは
ないかと思う。
特に良かったのは、この最終回では「交渉人」としての万千代の活躍が描かれていたことだった。
このドラマでは今までずっと、「戦をしない戦」を描いてきた。
戦をするところは直虎の父直盛が桶狭間で戦死するところなど必要最小限にしか描写されること
はなく、力を入れてきたのは徳政令をめぐる今川家との駆け引き、瀬戸方久の「銭の戦」、井伊を
守るためあえて汚名を着る「目付」としての小野政次の孤軍奮闘の様子だった。
大河ドラマで女性を主人公にすると、戦には出られないという制限がかかってくる。だがこのドラマ
はそれを逆に利用し、戦国時代の普段光を当てられない、しかし本当は何より重要である内政と
民百姓の有りようをドラマの前半の主軸に据え、地味ながらも弱小の国衆の苦闘を描き出すこと
に成功している。 (中略)
しかしこれだけなら新しい試みとはいえても、井伊谷という地域の小さな物語で事は終わっていた。
この作品の凄いところは、ドラマ前半で直虎が国衆として辛酸を嘗め尽くしたことが全て後半への
伏線になっていたことだ。
一族の男たちを次々に失い、もう戦で命が失われることを心底嫌っていた直虎の思いを、政次も
よく理解していた。戦のない世を作りたい、という今まで何度も大河ドラマで聞いたこの台詞は、
直虎が言うからこそこの上ない重みを持つ。そして、この二人の思いを背負って世に出たのが
万千代だった。直虎と同じく、戦ばかりの世の中が嫌だと嘆く家康を天下人に押し上げることで、
直虎の見果てぬ夢が現実となる。万千代が井伊家を再興し、家康に仕えたことで井伊谷の小さ
な流れがようやく天下へと至る大河へと合流した。井伊谷のローカルな物語は、大河ドラマとして
完成するよう設計されていた。この構成の妙には驚くほかない。 (続く) (続き)
後に井伊の赤鬼と恐れられ武将としても活躍する直政ではあるが、これまでずっと刀槍を交え
ない戦をしてきた直虎の後継者である万千代が最終回で為すべきことは、やはり交渉人として
の仕事でなくてはならない。万千代はもともと才能も優れていただろうが、今川や武田や徳川
など大勢力の狭間で苦労してきたことで万千代の外交感覚は磨き抜かれていただろう。国衆
が何を求めているのかは、若くとも万千代こそが一番よく知っている。だからこそ、旧武田領の
国衆へ説得に出向くのは万千代でなくてはならなかった。
思えばこのドラマは、長篠の戦い以前にも六左衛門が木を切り出すシーンを描いたりと、裏方
の働きを描くことが多かった。これもまた、合戦を支える地味ながらも重要な仕事であり、「戦を
しない戦」だ。派手な合戦シーンに頼らない作劇には、視聴者への信頼が感じられる。それで
いてこの作品では次々と死ぬ井伊の男たちの姿や政次の最期や信康事件など、戦国の世の
悲哀を今までのどのドラマより容赦なく描き出している。力のある脚本とはこういうものか、と
いうことを思い知らされた一年だった。 (中略)
『おんな城主直虎』は、ちょうど真田昌幸が独立して活動を始める時代に物語を終えている。
一年間をかけて、『真田丸』に至る物語を見事に語ってみせたのだ。『真田丸』が信繁の華々
しい戦場での活躍を描いて終わったのに対し、『おんな城主直虎』は、最後まで戦を正面から
描くことはなかった。それは、これが直虎と、その願いを受け継いで平和な世を作ろうとして
いる直政と家康の物語だからだ。赤備えを率いて出陣するところを少しだけ描いたのはファン
サービスみたいなものだろう。
家康がこのような背景を持っていることを考えると、真田丸で信繁と家康が対峙したシーンも
また違った色合いを帯びてくる。どちら側にもそれぞれの正義があり、互いが互いを相対化
することが歴史を知ることの面白さだ。『真田丸』において三谷幸喜が突きつけた挑戦状に、
森下佳子は脚本家としての全ての力量を持って応えた。これこそが、現代における最高の
「刀を用いない戦い」だったのかもしれない。 しかし、貼ってしまったあとで、くさすのもなんだけど、自分の感じた感想とこれらとはちがう。
一年通してみた直虎からは、こんなのとはちがう、毒針のような要素も仕込んであると感じた。
文句があったら自分で書けばいいんだが、すぐには書き上がらない。でも、頑張ってみるか。 >>481
確かに、史実と作中の違いを指摘されて信者が発狂してたのはもっぱら本スレの方だからな。 >>479
戦国時代の悲哀なんて昔の大河もよく書けていたと思うけどな
要は見せ方(演出)と捉え方(考証)と誰軸か(伏線)の違いなだけで
直虎がそこまで賛美するレベルかはいささか疑問
こう言ってはなんだけど丸でいう勝頼しかりで今までとは反対の評価視点を
用いれば新鮮さも相まってよく見えやすい傾向が強くなるからそこらは差っ引いて
考えた方がいいようにも思う ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています