島津久光の構想変遷

島津久光の構想@「亡き兄上のお考えを引き継ぎ、薩摩の大軍で上洛し、
天子様の勅命を引き出して、一橋様を将軍後見職に据えて幕政改革を行わせる。
そして薩摩が全力で一橋様をお助けするのじゃ。
そうすれば日本国は強い国に生まれ変わり、薩摩も中央政界に踊りだして一挙両得じゃ!!」

構想@の結果:
慶喜が久光との協調関係拒否 朝廷も長州藩尊攘派に乗っ取られてしまう

久光の構想A「こうなったからには、薩摩は徳川一門の会津藩と協力して、
長州を朝廷から追い出す!
そして天子様のもとで有力大名会議(参与会議)を開き、国政を決めるんじゃ。
これで薩摩が中央政界に踊りだせるぞ!」

構想Aの結果:
確かに長州を朝廷から排除することに成功するも、参与会議は失敗して解散。
朝廷は一橋と会津に奪われる(一会桑政権)

久光の構想B
「こうなったからには、武力で徳川幕府を滅ぼすしかない!!
長州と手を結び、京都に出兵じゃ!!!徳川を滅ぼせば、薩摩の天下じゃあ!!
わしの思い通りの世が来るのじゃあああ!!!!!」

構想Bの結果:
徳川幕府滅亡 薩長が主導権を握る明治政府誕生
しかし廃藩置県で大名の地位を失い、
ただ名誉職だけもらう。
久光は明治政府改革の建白書を出すも容れられず、
大久保や大隈重信の罷免を求めるが、それも認められず、鹿児島に隠遁。