>>721
複雑怪奇な情勢の中で朝廷と徳川将軍家が完全に切れなかったのは
孝明帝と将軍家茂、京都守護職会津松平の個人的信任の部分も大きかったからな

書道や和宮との逸話もあるけど、家茂は基本的に誠実でいい性格のお殿様
だから攘夷沸騰の京都朝廷でつるし上げられて大変な心労だったのも確かだけど
上で直接関わる人達からのトップとしての評価は高い

慶喜が薩摩相手の政略を仕掛けて、
その余波で朝廷+一橋・会津と江戸城老中が外交面で対立した時には
とうとう家茂がそこまでやるなら一橋が将軍をやれと辞表預けて出立したもので
一橋が土下座で慰留して孝明帝もまつり事は今迄通り将軍家に任せると再確認してる