>>755
完全にその通り
特に将軍後見職以来、慶喜が公職にいる間に慶喜と関わった
立場上慶喜が味方にいた、と言う事はイコール、
そのまんま慶喜被害者の会になるレベル
どれだけ形骸化しても武家の信義、忠義を現実の利益、契約とすり合わせてる時代に
一人だけ政治システム論のパワーバランスで物事を進めて
慶喜が考える徳川宗家と日本国の維持の為に振り回されて痛い目をみた者多数
会津もかなりその口、元々薩摩とは京都で軍事同盟するぐらいの関係だったのに
慶喜に乗っかってその関係を破棄、長州との敵対関係も完全に梯子外されて
挙句の果ての大政奉還で慶喜の下で「公儀」としてやって来た事の怨みを全部会津に向けられた