ウィキだがコレか

正和4年(1315年)11月に「足利左馬助」名で鶴岡八幡宮の僧侶・円重に対して供僧職安堵の書状を出しており(「鶴岡両界壇供僧次第」)、足利家の家督を継承していたらしい。

3年後の文保2年(1318年)9月には、家督を譲ったはずの父・貞氏が再び安堵状を出しており、この時までに高義は没したと考えられている。