【第三十三回】太平記 part.33『千寿王と不知哉丸』
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
第三十三回「千寿王と不知哉丸」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/taiheiki/taiheiki33.html
前スレ
【第三十二回】太平記 part.32『藤夜叉死す』
http://itest.5ch.net/nhk2/test/read.cgi/nhkdrama/1507357471 ちなみに道誉の墓所の最寄り駅は、近江鉄道の尼子駅だなw 今度のヒストリアで観応の擾乱やるみたいです。
あと、古舘さんの番組で妖霊星についてやってましたよ。 >>172
(足利貞氏)
儂は良いジジィで死ぬくらいなら、血飛沫の中で地獄に落ちるのが本望だ…! 貞氏と経久
直垂の袖を通さないことがある。
緒形拳なりのこだわりがあったのかな? >>179
秀忠とか吉宗の時の
西田敏行も袖通してないイメージ
あれ結構好き 江戸時代だと、直垂って日常的に着るものじゃなくね? >>173
毒舌日本史っていう本で語ってた
躁鬱病っぽいけど大将としての魅力が半端ないから的な
二十年前くらいに読んだから表現は違ったかも
我らが大将軍が高く評価されてて嬉しかったなあ 尊氏みたいな煮え切らない男は戦国時代ならすぐ下剋上だな残念ながら なんと言っても、南北朝時代は足利家の当主って地位や征夷大将軍の地位に権威あったからな
戦国時代はそんなもんに何の価値もなくなってるから尊氏が天寿を全うできるとはとても思えないわ 足利家当主で戦国大名としてやっていけそうなのは義満と義教の2人だけだな 尊氏は最初から全国在住みたいな思考だから
人生かけて一国二国切り取るような戦いが上手だったかどうかわからんね
あの本拠地不明感は今東光の言うように信長に通じるものがある 戦国の毛利や織田や徳川をトップに
今川・北条・豊臣・真田・武田・上杉に比べたら
南北朝の足利や新田や楠なんてちまちま戦略もなく戦っているだけで
戦国武将にしたら小僧扱いやんけ。 亜相殿と顕家卿がいたら
史実の北畠に対して信長大苦戦しそう >>189
本拠地不明って頭がおかしいのかい?
まさに王国なんだが
◇元弘の変(1331〜1333年)室町幕府の支配層、三河武士◇
【三河県岡崎市】
・足利氏(宗家、鎌倉公方):大門屋敷、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・斯波氏(足利一族):管領家、奥州管領家、奥州探題、羽州探題、守護職(安房、若狭、越前、越中、尾張)、屋敷(跡地に永源寺)
・仁木氏(矢田一族):幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、三河、遠江、武蔵、摂津、丹波、丹後、備後)、仁木城
・細川氏(矢田一族):管領家、守護職(伊賀、伊勢、志摩、摂津、和泉、河内、若狭、越前、越中、備中、備後、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、日向)、細川御前田城、細川城山城、細川権水城
・上地氏(矢田一族、細川氏分家):上地城
・上地氏(矢田一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官):室町幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、武蔵、上総、和泉、河内、下野、丹波、石見)、屋敷(跡地に総持寺)
・上杉氏(足利被官):関東管領家、守護職(伊豆、武蔵、上野、丹後)、日名屋敷
・倉持氏(足利被官):奉公衆、便寺屋敷
・粟生氏(足利被官):奉公衆、秦梨城、秦梨城山城、梅藪屋敷、西熊屋敷
【三河県幸田町】
・大草氏 (足利被官):奉公衆
・大場氏 (吉良被官):深溝城
【三河県豊田市】
・上野氏(足利一族):守護職(丹後、石見)、奉公衆
・中条氏(足利被官):守護職(尾張)、奉公衆、金谷城
【三河県西尾市】
・西条吉良氏(足利一族):将軍御一家、西条城
・奥州吉良氏(足利一族):奥州管領家、守護職(因幡、但馬)、関東公方御一家、東条城
・一色氏(足利一族):四職家、九州探題、守護職(筑前、肥前、肥後、日向)
・荒川氏(矢田一族):戸賀崎氏分家)守護職(丹後、石見)、戸ヶ崎城
・饗庭氏(足利被官):奉公衆、饗庭城、饗庭命鶴丸
・小笠原氏 (吉良被官):幡豆小笠原氏、三河守護代
・大河内氏 (吉良被官):引馬荘荘官
【三河県豊川市】
・関口氏(足利一族):奉公衆
・星野氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
・萩氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
【三河県豊橋市】
・石橋氏(足利一族):将軍御一家、守護職(若狭、伯耆、備後)
【三河県新城市】
・設楽氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
・富永氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆 実は室町期も足利植民将軍家の本拠は三河であり
三河に本拠を置きながら関西関東に君臨した構図なのは明白だろう
室町幕府 三河国の日本支配構造
【奉公衆】
・奉公衆は、室町幕府に整備された幕府官職の1つ
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた
・奉公衆の人数は全国合計250〜300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数
・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏、二番番頭 桃井氏、三番番頭 上野氏、四番番頭 石垣氏(畠山氏)、五番番頭 大館氏
三河国の奉公衆一覧(全52家)
【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)
【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田
【足利被官】
饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部
【三河源氏】
足助、水野
【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永
【美濃源氏】
土岐、長山(土岐氏流)
【桓武平氏】
伊勢、神谷、山下
【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、進土、杉山、堤、長、西部、本郷、丸山、三浦、大和 >>190
戦国期の戦争なんて、その地域だけで完結する、お山の大将同士の争いに過ぎないわけで、
すべてが全国規模で連動していく南北朝期のようなダイナミズムは、そこにはないねw >>196
動員規模が全然違うぞ
南北朝期なんてせいぜい千人単位だぞ
戦国期は一円支配を巡る争いだから地域ごとの総力戦で、庶民も関与していてすぐ万単位の戦いになってたぞ >>198
総力戦じゃないとそんなもんなんだよな
鳥羽伏見の幕府軍が総動員で3万程度だもんな
大坂の陣とか30万くらい動員してることと比較すると戦争の質が違うことがわかる つーか、200年以上も違う時代の戦闘を比較する意味ってあるの? ここで戦国時代は凄い的な発言を一々している奴ウザい >>201
ソレだよねぇ比較対象にするのがおかしな話なんだよ 高義の話に戻そーぜ。
高義の遺児が跡目を継げなかったのはやはり若すぎたというのが最大の理由かな。母親も身分の低い女だったらしいし。
それならある程度成人してる尊氏に跡目を継がせて正室に北条女をあてがり北条に取り込もうと考えたのが自然な流れかな。 >>205
義詮は北条の血引いてるしな、
鎌倉幕府が続いてたら北条の血引いてる人が足利当主になるしな >>205
高義の息子の安芸守某の母親のソースってある?
一時的にしろ家督を譲られた高義の嫡男だし
北条一族が母親って可能性も、ないのかな。 義詮と基氏が北条の血を引いてることが後々大きく生きてくるんだよね
関東はやはり北条の地盤だったところだからそこを治める時に登子とその子の義詮や基氏の存在は大きかった >>207
この時期で安芸守っていうと武田氏とかか? >>209
らしい。
実際は安芸に出向いてはいないと思うけど。
ちなみに高義の娘2人は尊氏方の武田信武と
直義に付いた上杉朝定に嫁いでいるらしい。 武田信武って、尊氏より年上だと思うけど、高義の娘の嫁ぎ先って本当なのかな? ちょぉぉぉぉぉぉ、師直が善良なシマンチュに転生してるぅぅぅぅぅぅw 以前に某大河では、お漏らし太閤とかもやっていたなw >>210
上杉や細川は族が多すぎて混乱する。もっと力を削いでおけと >>210
この時期の鎌倉期の武田氏で安芸守の名乗りがあるのって、信武の父の信宗だけじゃね?
>>215
元々足利一門内で、さほど有力ではなかったから、警戒されずに発展したということでは? 細川は男子に恵まれて一族がどんどん増えていったのが大きい
あと、普通次男以下は別姓を立てて独立するのに、何故か細川は
みんな細川のままなんだよな >>217
別姓立てて独立するような土地がなかったんでは?w やっぱ上杉細川が増えていったのって東西の管領になってからか?山内や扇谷だの、忠興だの昔の首相だの面倒くせえんだよ >>217
>>218
分家したのがいつかによるんじゃないか?
斯波・畠山・山名なども、建武期以降に分かれた庶流は、基本的に苗字を変えていない。
上杉や佐々木は、山内・扇谷とか六角・京極とかみたいな家ごとの通称ができるけど、
それでも幕府からの発給文書の宛名表記は、基本的に「佐々木」「上杉」の苗字で書かれる。 >>216
安芸守は高義で
高義の娘の1人が武田に嫁いだ
で、安芸の武田か甲斐の武田が
こんがらがって来ました。
いづれにしても高義と子供達は
親子揃って謎が多い分興味深い。 武田も族が多いな。むかつくぜw
高義の子どもの母親がはっきりしないってことはあまり身分が確かではない者と見るのが自然ではないか
遺児たちの母親が北条なら、さすがに文献にも残ってるだろうし >>224
でも足利頼氏(尊氏の曾祖父)の正室なんかは、北条一族(佐介流)の出身なのに、
結構最近まで存在自体が知られていなかったよ。 武田信宗って、安芸守の官途を名乗ったことは本当にあったのだろうか?
この時期の安芸武田氏の歴代当主って、安芸守護ではあっても、官途は伊豆守が
一般的のような・・・。
確かドラマのなかでも、帝ご謀反に際して、円喜が作った出兵リストのなかに、
「足利治部大輔」なんかと一緒に「武田伊豆守」(信武か?)があるのが、さりげなく
映っていたが。 高義の嫡男足利安芸守某の安芸守はただの通称だったんじゃない。 >>224
そう考えるのなら、何故そこから公暁に話を持っていけないのか?
もっと展開し熟考せよ
これはセンスの問題だがな
大人の豆知識&ヒント
公暁の母親は三河国足助重長の娘
公暁が実朝の首を持って訪れた後見人の備中阿闍梨(事件後すぐに殺される?)は三河の藤姓熱田大宮司家出身の可能性が高い
事件当時、実朝の命令で伊勢に行かされていた波多野義典は、公暁の死を知ると三河国矢作宿で自殺 そもそも高義が若くして亡くなった言えども21〜22才で
しかも家督を継いでいるのに古文書なり資料が殆どないって事が不思議だわ
鎌倉の延福寺が高義の寺であり直義が亡くなった寺と言うのも感慨深い >>231
それをいうなら、それ以前の足利の当主である頼氏や家時だって、生没年を含めて
ハッキリしないことは多かったぞ。
鎌倉の後半期は『吾妻鏡』による記録がないし、室町以降ほど残存する文書も
多くないから、有力御家人であっても意外と分からないことが多い印象。 今日のヒストリアは尊氏直義の兄弟げんか
おまえら見るの? でも正直、あのレベルの喧嘩とその結末を
ヒストリアには描けないだろう ヒストリアは劣化しすぎ
大河ともどもレベルが下がりすぎ NHK 22:25-23:10
歴史秘話ヒストリア「ご存じですか?観応の擾乱 武士の世をつくった兄弟ゲンカ」
室町時代初め、日本中を巻き込んだ大乱「観応の擾乱」。室町幕府をつくった将軍足利尊氏と弟・直義、重臣・高師直、彼らの戦いは、なんと日本の歴史を変えた! なんかの映像使い回しかっちゅうくらい衣装凝ってたな >>238
面白かったです。
弟さんの死因は太平記と違ってましたね。
見た人いますか? でも師直の命日でとかと思うと
やはり毒殺説だと思うんだよな あんだけ権力に執着していた直義が病で大人しく没するなんてねえ 大鎧いっぱい出てきて感心した。ドラマ部分も良かったし予想以上の出来だった。 亀田氏の研究では直義毒殺説否定してるからな
原本太平記では直義死亡の記事に、事実不明だが毒殺されたと噂された、みたいに書いてあったのに
その後の記述から毒殺されたのが事実みたいな扱いになってるし
創作なら毒殺説のほうが面白くなるから、吉川が私本太平記でそっちを採用したのもわかる >>247
おかげで大河太平記で、あの名シーンがうまれたわけだ 毒殺の方がドラマチックだしね。最終話は最高でしたよ >>247
高校生向け(大学受験向け)の日本史用語集の「足利直義」の項目でも、直義の最期を
毒殺と書いてあったりするからなぁ。
仮に毒殺否定説が主流になったりすると、教育現場にも影響大きいよw そういう場合は毒殺を否定する証拠が一切ないわけだよな
毒殺が強く流布してた噂に過ぎなかったとしても >>245
でも池端先生はお気に入りだよね
そろばん侍に出てる
棒読みでも坂の上に赤井とか出してるね
不思議だ >>253
まぁ尊氏や師直が強すぎるから、比較するとね 直冬の冬って誰からの偏諱なんだ?
高師冬ってのもいたよな、師直か師泰の息子で 「冬」の字って摂関家が割と好んで使う印象があるが、直冬の場合、特に誰かの偏諱というわけではないのでは? >>255 >>257
尊氏・師直派と直義派の対立は、つまるところ新興武士層と鎌倉以来の名門御家人層の対立だからなぁ。
彼らが個人的に相手をどう思っているかとか、そういう思惑を超越したところで対立が深刻化している。
ただ出世のために武功を立てなければならない新興武士層と、そこまで働かなくても厚遇が得られる名門御家人層とでは、前者のほうが明らかに戦意は高いはず。
尊氏・師直のほうが戦争が強いのは、結局そういう戦意の高い奴らが彼らの側に集まってくるからだろう。
無論、尊氏のカリスマ性が直義を遥かに凌駕していることもあるだろうけど >>263
妙法院焼き討ちした道誉が尊氏に話してたっけ
最期の命乞いのインパクトが強すぎるけどw 要は南北朝の戦乱がなければ、新興武士たちが手柄を立てられる場もなく、結果として
彼等が台頭することもない。
その意味では鎌倉以来の名家を重視する直義の政治姿勢は、政権が安定している平和な
時代ならアリだったということだなw そもそも直義が負けた事自体が脅威だわ
何で負けたんだ? 直義が理想としていたのは、明らかに北条義時・泰時の頃の鎌倉幕府で、だからこそ、
尊氏=将軍、直義=執権の二元体制を作ったと言われるね。
しかし過去のある時代を過度に理想視て、“あの時代に戻さなければならない”みたいな
信念を極端に持つようなタイプの人って、結局自分自身の理想と今現在の社会の現実との
ギャップがどうにもならなくて潰れてしまうイメージ。
延喜・天暦に戻したいという後醍醐の理想についていけないからこそ、兄尊氏を担いでの
新政権樹立に動いた直義も、結局は後醍醐と同じ轍を踏んだという感じかな。 >>266
.>鎌倉以来の名家を重視する直義の政治姿勢
そんな単純ではないのでアウト ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています