【第三十三回】太平記 part.33『千寿王と不知哉丸』
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第三十三回「千寿王と不知哉丸」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/taiheiki/taiheiki33.html
前スレ
【第三十二回】太平記 part.32『藤夜叉死す』
http://itest.5ch.net/nhk2/test/read.cgi/nhkdrama/1507357471 >>325
普通は烏帽子親から烏帽子子に与えるものじゃないの?
それによって擬制的親子関係を作って連帯感を共有すると・・・。 足利将軍が摂家の当主に偏諱を与える場合も烏帽子親なの? 義満以降は、偏諱の意味合いが主従関係の確認みたいに変化するわけだけど、足利将軍が
公家に偏諱を与えるのは、実質的に将軍のほうが上位であることをある意味象徴している。 どうして、劇中では主人公弟は足利高國を名乗る時期が存在せず、最初から直義の呼称だったのかな?原作準拠か?
史実においては、足利直冬の幼名も新熊野で、不知哉丸という幼名は原作に準拠したわけだし 同一人物の名前がころころ変わると
視聴者がついてこれないんだよ >>331
確か子供の頃から直義だったよねぇ
兄貴の高氏が又太郎、新田義貞が小次郎だったのに >>334
当時普通に資料がないからだと思ってたけど違うの? >>335
うん、史料はないんだと思う
ただドラマ上、直義だけが幼名じゃなかったんで(ドラマ内で創作してない) >>333
主人公とか、名前の変遷が重要な場合とかを別にすれば、他の登場人物の改名は無視して
その人物の最も有名な名前に最初からしてしまうのは、割りとよくある話だな。 義満からだったか、偏諱は上にしろー下につけるのは無礼だ!ってぶちきれたのはw鎌倉公方がとばっちりくらった まあ足利氏満の名前は、京都側の史料では勝手に「満氏」に書き換えられているからなw
あと、上杉禅秀の乱で滅びた甲斐守護武田信満も同様。 >>343
「兵部少輔」「左兵衛督」「錦小路殿」「三条(坊門)殿」「高倉禅門」 >>345-346
そりゃ官職や住んでたとこやろ。
尊氏が又太郎みたいなのよ。直義は? 高 師春
高 師夏
高 師秋
高 師冬
高 師新年 >>355
(一番下の一人を除いて)劇中で描かれた時代に上の四人は実在したにもかかわらず、誰一人として本編に登場することなかったな 細川三兄弟の家系より細川定禅の家系のほうが細川嫡流なんだな。そら四国を任せるわな そういえば平安初期の藤原北家に、こんな4兄弟がいたな。
藤原真夏
藤原冬嗣
藤原秋継
藤原桜麻呂
4人目は、単純に「春」では何の捻りもないから「桜」にしたとか。 >>363
真冬のコスモスとはなかなか味わいがある。 足利将軍家には義春(義晴)・義秋(義昭)・義冬(義維)がいるが、義夏はいないね。
もっとも畠山義就の初名が義夏だが。 >>357
饗庭命鶴丸というのは尊氏の寵童だったか。 >>369
案ずるな、大河スレとしたらおまいの方が正しい ここはドラマのことを語るスレじゃなくて、太平記に関する歴史を語るスレなのに勘違いしているバカが多すぎ >>374
いつから歴史メインになったんだよwドラマメインが普通だろうが 真夏竜、最近ガンを患っていたんだな。
太平記には出ていないが、細川ダン隊長つながりで。 太平記以外の大河ドラマで足利棟梁が出ているドラマって少ないよな
戦国の足利将軍家でもチョイ役だったり
尊氏以前の足利宗家なんて全く観た事もない
のが残念 >>380
「北条時宗」での序・中盤の敵、足利泰氏を内管領長崎高資こと西岡徳馬が熱演。
出家、京都大番役で返り咲き、卒中、鱗を喰らう龍云々…。 >>381
息子の頼氏は、江原扮する高師氏にいつもたしなめられてたな。
尊氏の曾祖父さんにあたるのかな。 「北条時宗」か「花の乱」が浮かぶだけだな
戦国だと義輝か義昭がチョイ役ででるだけ
「毛利元就」だと義材が序盤にチョイ役って所だしな >>383
田口トモロヲ
花の乱だと大沢たかおこっちは義材表記だけど >>382
師氏は太平記第1回にも出ているんだよな
時宗の時点でけっこう爺さんだったのに、アイツ一体いくつだよww >>385
「愚かな!僅か十数人の残党のために、八幡太郎義家公以来の源氏の嫡流たる当家を揺るがすおつもりか!?」
「ならば師氏、我等は何時になったら北条と戦える?戦うには味方がいる。その味方となるべき源氏の一党を見殺しにして、我等は何時になったら北条を倒せる!?」 >>382
だな
頼氏の子供家時は側室上杉が母
清子が母の尊氏にも接点があり
頼氏も謎が多い 足利家は得宗から嫁を貰ってたのに、途中から北条の傍流とか上杉とかになっちゃうところが
後の反乱の伏線みたいに見えちゃうな。
「院というたか犬というたか」で有名な土岐頼遠の土岐氏なんかも実は得宗から嫁を貰ってたりするのね
もちろん頼遠は違うけど 正室 側室
源義国 藤原敦基娘 源有房娘
足利義康 藤原季範養女 ?
足利義兼 北条時子 ?
足利義氏 北条泰時娘 ?
足利泰氏 北条時氏娘 北条朝時娘
足利頼氏 北条時盛娘 上杉重房娘
足利家時 北条時茂娘 新田政氏娘
足利貞氏 北条顕時娘 上杉清子
足利尊氏 赤橋登子 加古基氏娘
足利義詮 渋川幸子 紀良子 >>392
こう見ると時氏の娘を貰った泰氏のあとは、得宗から嫁を貰えずに足利の立場が軽くなっていく感じがするやね >>396
家時の正室は極楽寺流だから得宗じゃないし
貞氏の正室は金沢流
得宗家の娘を正室に迎えてたのは泰氏くらいまで
得宗専制体制になった頃からは北条家支流の娘を正室に迎えてる
赤橋登子ってするならその前も金沢氏や極楽寺氏ってしないとダメでしょ 足利の地位低下もあるだろうけど
年齢の釣り合う得宗の娘がいないこともあるんじゃないかなあ >>398
経時→23
時頼→37
時宗→34
貞時→40
早死にだらけ 鎌倉時代後期の上級武家当主に限った場合、平均寿命は何歳くらいになるのかな? 赤橋登子って、得宗の養女になって嫁したって訳じゃないのね。 養女にして嫁がせるって戦国時代に流行ってなかったか?秀吉とか家康とか。公家ではちょこちょこ見られるが >>380
「草燃える」に足利義氏が登場していたらしい。 >>396
ただ赤橋流は、北条庶流のなかで唯一将軍から偏諱を貰っている特別な家系ではある。 自害した足利家時の諱、家は後見役の斯波家氏から、時は北条からであろう。この諱だけでも家時の苦悶が察せられる。 >>407
足利家時の“家”は単純に、源(八幡太郎)義“家”を意識しただけかと思ってた 家時は、尊氏同様、早世した兄とかがいる可能性もあるかもな。 >>408
もし名越流の初代朝時が、得宗家と関係が良ければ、庶流筆頭は名越流になっていた
可能性はあるかもしれない。
朝時の「朝」は、頼朝からの偏諱だし。 >>411
もともと朝時が惣領予定だったろ。何かの事件で泰時に得宗が回ってきた。その関係で斯波が生まれた>>393 とりあえずWikipediaで得宗に近い筋の娘がどんだけいるのかと見てみたが
ほとんどいないじゃん
こりゃ足利に嫁に出す余裕なんかないわ >>395
だな
けど義兼の時から頼朝や
その後の得宗家に睨まれて滅ぼされるのを
恐れて、敢えて突然出家したりしたり
自害したり不明死が多いが多いよな >>413
しかし名前に関しては泰時の初名頼時の「頼」も頼朝からの偏諱だな。
まあしかし朝時と同母の重時が泰時と親密で、重時の極楽寺流から
赤橋・常盤・普恩寺・塩田など多数の有力庶家を輩出しているのと比べると、
仮に嫡流からは外されたとしても、朝時はもう少し上手く出来なかったのか?とは思うよ。 >>417
鎌倉後半期の足利宗家の当主で、一番平穏に生きて天寿を全うしたのは、実は貞氏だよなw >>409>>417
義康ー義兼ー義氏と続いてその後に義の通字を捨てたのは北条を刺激しないように計らったという説があるな
尊氏は北条の支配から解放されると息子に義詮と名付けて義の字を復活させたとw >>421
尊氏の兄で一時家督を継承した高義の名前もあるから、意識的に「義」を避けていたとは
必ずしもいえないような・・・。
それに義氏の次の泰氏・頼氏あたりは、得宗からの偏諱と「義」の字を組み合わせて
「泰義(義泰)」「頼義(義頼)」みたいな名前にすると、足利義康や源頼義など比較的
近い先祖の名前と被るからなぁ。
あと義氏の「義」に関しても、河内源氏の通字の「義」を使ったのか、それとも
伯父である北条義時からの偏諱なのかは微妙だな。 千早城と赤坂城って同じセットだよね。有名なところなのかな。
最近90年代の大河いくつか観てるけど花の乱や炎立つでも同じような坂出てきた。大抵でっかい軽石転がってるシーン。 >>423
千早赤坂村が田舎過ぎるので名前だけが有名 >>419
さすがに平穏ではなかったろう。足利家の舵取りがかなり難しかったんじゃないか。親父は自殺し跡取り息子は早死にで。もう自分が終身当主で気張るわって気概だったんじゃね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています