【第三十三回】太平記 part.33『千寿王と不知哉丸』
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>>333
主人公とか、名前の変遷が重要な場合とかを別にすれば、他の登場人物の改名は無視して
その人物の最も有名な名前に最初からしてしまうのは、割りとよくある話だな。 義満からだったか、偏諱は上にしろー下につけるのは無礼だ!ってぶちきれたのはw鎌倉公方がとばっちりくらった まあ足利氏満の名前は、京都側の史料では勝手に「満氏」に書き換えられているからなw
あと、上杉禅秀の乱で滅びた甲斐守護武田信満も同様。 >>343
「兵部少輔」「左兵衛督」「錦小路殿」「三条(坊門)殿」「高倉禅門」 >>345-346
そりゃ官職や住んでたとこやろ。
尊氏が又太郎みたいなのよ。直義は? 高 師春
高 師夏
高 師秋
高 師冬
高 師新年 >>355
(一番下の一人を除いて)劇中で描かれた時代に上の四人は実在したにもかかわらず、誰一人として本編に登場することなかったな 細川三兄弟の家系より細川定禅の家系のほうが細川嫡流なんだな。そら四国を任せるわな そういえば平安初期の藤原北家に、こんな4兄弟がいたな。
藤原真夏
藤原冬嗣
藤原秋継
藤原桜麻呂
4人目は、単純に「春」では何の捻りもないから「桜」にしたとか。 >>363
真冬のコスモスとはなかなか味わいがある。 足利将軍家には義春(義晴)・義秋(義昭)・義冬(義維)がいるが、義夏はいないね。
もっとも畠山義就の初名が義夏だが。 >>357
饗庭命鶴丸というのは尊氏の寵童だったか。 >>369
案ずるな、大河スレとしたらおまいの方が正しい ここはドラマのことを語るスレじゃなくて、太平記に関する歴史を語るスレなのに勘違いしているバカが多すぎ >>374
いつから歴史メインになったんだよwドラマメインが普通だろうが 真夏竜、最近ガンを患っていたんだな。
太平記には出ていないが、細川ダン隊長つながりで。 太平記以外の大河ドラマで足利棟梁が出ているドラマって少ないよな
戦国の足利将軍家でもチョイ役だったり
尊氏以前の足利宗家なんて全く観た事もない
のが残念 >>380
「北条時宗」での序・中盤の敵、足利泰氏を内管領長崎高資こと西岡徳馬が熱演。
出家、京都大番役で返り咲き、卒中、鱗を喰らう龍云々…。 >>381
息子の頼氏は、江原扮する高師氏にいつもたしなめられてたな。
尊氏の曾祖父さんにあたるのかな。 「北条時宗」か「花の乱」が浮かぶだけだな
戦国だと義輝か義昭がチョイ役ででるだけ
「毛利元就」だと義材が序盤にチョイ役って所だしな >>383
田口トモロヲ
花の乱だと大沢たかおこっちは義材表記だけど >>382
師氏は太平記第1回にも出ているんだよな
時宗の時点でけっこう爺さんだったのに、アイツ一体いくつだよww >>385
「愚かな!僅か十数人の残党のために、八幡太郎義家公以来の源氏の嫡流たる当家を揺るがすおつもりか!?」
「ならば師氏、我等は何時になったら北条と戦える?戦うには味方がいる。その味方となるべき源氏の一党を見殺しにして、我等は何時になったら北条を倒せる!?」 >>382
だな
頼氏の子供家時は側室上杉が母
清子が母の尊氏にも接点があり
頼氏も謎が多い 足利家は得宗から嫁を貰ってたのに、途中から北条の傍流とか上杉とかになっちゃうところが
後の反乱の伏線みたいに見えちゃうな。
「院というたか犬というたか」で有名な土岐頼遠の土岐氏なんかも実は得宗から嫁を貰ってたりするのね
もちろん頼遠は違うけど 正室 側室
源義国 藤原敦基娘 源有房娘
足利義康 藤原季範養女 ?
足利義兼 北条時子 ?
足利義氏 北条泰時娘 ?
足利泰氏 北条時氏娘 北条朝時娘
足利頼氏 北条時盛娘 上杉重房娘
足利家時 北条時茂娘 新田政氏娘
足利貞氏 北条顕時娘 上杉清子
足利尊氏 赤橋登子 加古基氏娘
足利義詮 渋川幸子 紀良子 >>392
こう見ると時氏の娘を貰った泰氏のあとは、得宗から嫁を貰えずに足利の立場が軽くなっていく感じがするやね >>396
家時の正室は極楽寺流だから得宗じゃないし
貞氏の正室は金沢流
得宗家の娘を正室に迎えてたのは泰氏くらいまで
得宗専制体制になった頃からは北条家支流の娘を正室に迎えてる
赤橋登子ってするならその前も金沢氏や極楽寺氏ってしないとダメでしょ 足利の地位低下もあるだろうけど
年齢の釣り合う得宗の娘がいないこともあるんじゃないかなあ >>398
経時→23
時頼→37
時宗→34
貞時→40
早死にだらけ 鎌倉時代後期の上級武家当主に限った場合、平均寿命は何歳くらいになるのかな? 赤橋登子って、得宗の養女になって嫁したって訳じゃないのね。 養女にして嫁がせるって戦国時代に流行ってなかったか?秀吉とか家康とか。公家ではちょこちょこ見られるが >>380
「草燃える」に足利義氏が登場していたらしい。 >>396
ただ赤橋流は、北条庶流のなかで唯一将軍から偏諱を貰っている特別な家系ではある。 自害した足利家時の諱、家は後見役の斯波家氏から、時は北条からであろう。この諱だけでも家時の苦悶が察せられる。 >>407
足利家時の“家”は単純に、源(八幡太郎)義“家”を意識しただけかと思ってた 家時は、尊氏同様、早世した兄とかがいる可能性もあるかもな。 >>408
もし名越流の初代朝時が、得宗家と関係が良ければ、庶流筆頭は名越流になっていた
可能性はあるかもしれない。
朝時の「朝」は、頼朝からの偏諱だし。 >>411
もともと朝時が惣領予定だったろ。何かの事件で泰時に得宗が回ってきた。その関係で斯波が生まれた>>393 とりあえずWikipediaで得宗に近い筋の娘がどんだけいるのかと見てみたが
ほとんどいないじゃん
こりゃ足利に嫁に出す余裕なんかないわ >>395
だな
けど義兼の時から頼朝や
その後の得宗家に睨まれて滅ぼされるのを
恐れて、敢えて突然出家したりしたり
自害したり不明死が多いが多いよな >>413
しかし名前に関しては泰時の初名頼時の「頼」も頼朝からの偏諱だな。
まあしかし朝時と同母の重時が泰時と親密で、重時の極楽寺流から
赤橋・常盤・普恩寺・塩田など多数の有力庶家を輩出しているのと比べると、
仮に嫡流からは外されたとしても、朝時はもう少し上手く出来なかったのか?とは思うよ。 >>417
鎌倉後半期の足利宗家の当主で、一番平穏に生きて天寿を全うしたのは、実は貞氏だよなw >>409>>417
義康ー義兼ー義氏と続いてその後に義の通字を捨てたのは北条を刺激しないように計らったという説があるな
尊氏は北条の支配から解放されると息子に義詮と名付けて義の字を復活させたとw >>421
尊氏の兄で一時家督を継承した高義の名前もあるから、意識的に「義」を避けていたとは
必ずしもいえないような・・・。
それに義氏の次の泰氏・頼氏あたりは、得宗からの偏諱と「義」の字を組み合わせて
「泰義(義泰)」「頼義(義頼)」みたいな名前にすると、足利義康や源頼義など比較的
近い先祖の名前と被るからなぁ。
あと義氏の「義」に関しても、河内源氏の通字の「義」を使ったのか、それとも
伯父である北条義時からの偏諱なのかは微妙だな。 千早城と赤坂城って同じセットだよね。有名なところなのかな。
最近90年代の大河いくつか観てるけど花の乱や炎立つでも同じような坂出てきた。大抵でっかい軽石転がってるシーン。 >>423
千早赤坂村が田舎過ぎるので名前だけが有名 >>419
さすがに平穏ではなかったろう。足利家の舵取りがかなり難しかったんじゃないか。親父は自殺し跡取り息子は早死にで。もう自分が終身当主で気張るわって気概だったんじゃね。 >>421
尊氏は後醍醐と手切れになったのに、尊の字を捨てなかった謎? 尊氏個人の心情としても、南朝方との交渉の余地を残しておく意味でも、後醍醐からの
偏諱を捨てるなんて絶対にしないと思うが・・・。 ドラマでは後醍醐天皇大好きっ子だからっていちいち説明の要らない設定だったねw >>428
あれはドラマ上の設定というだけでなく、実際かなりそんな感じだったとは思うよ。 >>428
後醍醐天皇との出会いは、鎌倉に造反する理由の一つだしな
ましらの石の尻切れトンボ以外は、上手く物語が作れているよなー >>432
家時の行動となぜにその側室ってなぞだな
頼氏も何故に上杉?
べったり北条の下僕になるなら得宗家庶流だろうが
側室の話はあっただろうに
その辺が静かなる足利棟梁の反骨とみたw 新田政氏は足利義氏の外孫だから、政氏娘と家時は又従兄弟の関係になる。
あと足利義氏は北条時政の外孫だから、この関係を通じて、新田氏にも北条の血は
入り込んでいる。 新田政氏の跡を継いだ新田基氏は1324年まで存命なんだよな。
ドラマでも貞氏と義貞の会話のなかで、「最近祖父基氏殿を亡くされて・・・」みたいな
セリフがあった。 >>386
気の弱い頼氏から家時に頭をすげ替えてまで、北条からの圧力を交わしたのに、その家時まで見殺ししなければならなかった師氏の無念。 >>431
ほっともっとで石がノリ弁を旨そうに食ってたからつられて買っちまったw 大河・太平記に出てくる新田一族では岩松さんがいい味出してたのに
中先代の乱あたりでいつのまにかお亡くなりになっていた(´・ω・`) >>438
よっぽどのエピソードない限りさり気なく死んだキャラは多いべさ
千草殿ですらなんとなーく死んでるご様子だったもの >>438
岩松経家は、鎌倉滅亡後、建武政権下では京都にいるような描き方になっていたから、
中先代の乱で死んだことが直義のセリフのなかで語られている場面を見たときは、
あれ?って思ったよ。 >>436
>気の弱い頼氏
鶴岡八幡宮史や鑁阿寺古文書によると
寧ろ真逆だったらしい
弓の名手であったが病気で早くして出家
足利の吉祥寺で隠匿
しかし死に逝く事が無念であっただろうか
頼氏の怨霊は寺内を彷徨い
本堂前ではどんな馬でも怨霊の見えない恐怖で
暴れ出したと言う逸話もある そういえば足利頼氏(1240年生)の生母は、北条時頼(1227年生)の妹らしいが、頼氏を
産んだとき何歳だったのだろう? 1240-1227=13 なんだから、
妹と確定しているんなら、0歳〜13歳の間で合理的な歳を選べばよろしい
そんな事まで気にしてたら面倒くさいだろにw つまり、12歳or13歳の可能性が非常に高いと結論づけられる 一夜にして人間の評価が変るのが乱世の慣い。尊氏が“筑紫隠れ”の朝、新田義貞は、凱旋将軍として、堂上の歓呼をあびていた。左近衛ノ中将の栄誉、それのみでなく、後醍醐の寵姫・勾当の内侍を賜ったのだ。それにひきかえ、貴顕に生命乞いする佐々木道誉の鵺(ぬえ)ぶり。
また、朝敵たる汚名は逃れたものの、尾羽打ち枯らした尊氏。しかし彼は、北九州に勢力を養い、反攻を意図する。 大宰府から出陣する尊氏が、道誉に石清水八幡宮での
戦勝祈願を依頼した文書が残っているという
観応第二ラウンドの道誉叛逆芝居といい、実に面白い関係だわ 道誉って結果的には、尊氏に有利になるように常に動いているわけでw >観応第二ラウンドの道誉叛逆芝居
直義方も端から信じていなかったみたいだけどねw 多分、義教が赤松に首取られた事件(嘉吉の乱)のことじゃね 今やっているNHKラジオ第一 DJ日本史で足利特集。
尊氏の兄にも言及。 観応の擾乱の頃だと、有力守護のなかで佐々木京極と赤松が尊氏派に一番忠実な印象あるけどなぁ。 赤松が尊氏派ってデカイよね
九州から昇るのに、播磨の赤松が敵ならなかなか難しい 円心の息子の則裕は護良親王の稚児で側近
親父と兄貴が死ぬと護良親王の息子を担いで南朝へ寝返りした
まあ、この寝返りが直義出奔の引き金だけど
マジの裏切りで正平の一統で尊氏が南朝に降るまで延々と南朝で暴れてた >>471
× 則裕
○ 則祐
せっかく>>467が指摘してくれたのだから、確認しよう。
あと則祐の南朝寝返りは、道誉の寝返りと同様で、直義を京都から追い出す謀略でしょう。
道誉と則祐は舅と婿の関係であり、二人で予め示し合わせてやったとしか思えない。 このドラマは鎌倉幕府の親王将軍は出てきましたっけ? そもそも北条得宗家はなんで将軍になりたくなかったん? 家格が低い。
伊豆国在庁時政子孫では、とても貴種とは言えん。 >>481
護良の令旨がわざわざそれを強調するような文面にしているなw
まあ頼朝を擁して鎌倉幕府の創設に参加した武士たちからすれば、その後に幕府が
北条氏の天下になったこと自体が想定外なのに、将軍なんて絶対に容認できないだろう。 ゆえに、歴代北条得宗は権威ではなく実力で他の同輩御家人を抑え続けるしかないという無理ゲー >>485
マジメな話、何年か前に違法薬物で逮捕されたらしい >>483
さらに言えば北条一族内部でも、泰時の系統が名越流や極楽寺流(赤橋流)を差し置いて
嫡流となれる正統性が元々そんなにあったわけではなさそうだからな・・・。
得宗家って、本当に実力以外に権力維持の担保になるものが何もないんだよなw 内ゲバに巻き込んで危険な豪族を滅ぼすという高等テクニック 内乱は鎌倉内で抑えてたんだからやっぱりすごいよ北条は。太平記はその抑えてたものが爆発したんだろう >>490
まるで北条だけが陰謀巡らしとるような
年表だけど普通に北条も狙われてるという
修羅の世界だしね 結果的に、北条家は鎌倉幕府滅亡まで権力闘争に勝ち続けていただけ、に過ぎないんだよなあ まあ得宗は極度の緊張を強いられる権力闘争を常に繰り広げた結果、代々短命の家系になったわけで・・・。 高時も存命中に帝の挙兵がなく、東勝寺で自刃に追いこまれなかったと仮定しても、史実より十年ちょっとしか生き永らえなかった可能性が濃厚だな Wiki読んだら御内人の専横状態になったの晩年の貞時のせいじゃん
高時おまえは悪くない 幼くして得宗家の当主になったという点では、時宗・貞時・高時はみな同じ。
まあ貞時は晩年に政務放棄しているが、時宗・時頼の場合は晩年は病気がちだったという
問題もあるし・・・。 義貞「我らは源氏、北条は平氏、ゆめゆめ平氏の犬に成り下がるではないぞ」
尊氏兄弟「・・・やっぱ新田は言う事がすげーな・・・」
馬之介「伊豆の呑百姓で平氏じゃねーだろ新田のクソガキが偉そうに・・・」とつぶやく >>502
貞時は嘉元の乱で張り詰めた何かが切れたのかな。
寄合に出なくなり、酒宴続き。 嘉元の乱は貞時が仕掛けた謀略で、しかもその収拾に失敗して
北条諸流からの突き上げが強まって、政務を執れなくなったって説もあるやね
その見方がが正しければ、やる気がなくなったというより、政権末期のレームダックになったって感じになるな 考えてみたら、貞時は平禅門の乱で平頼綱を滅ぼして専制体制をつくりあげたわけで
嘉元の乱も貞時こそが黒幕だったとしても違和感はないしね。
そういや、ドラマの中でも、息子の高時がフランキー円喜の暗殺をしかけてたな
見事に失敗していたけれど(´・ω・`) そのあとも(あくまでに表面的なものだが)高時と円喜が良好な関係を劇中でキープしてるように見えたのは、違和感があった >>508
(あくまでに表面的なものだが)
訂正
(あくまで表面的なものだが) 出家した奴らは法体にして出演して欲しかった。
原作では円喜や高時はじめ坊主だらけなのかな? >>506
>>507
嘉元の乱は基本構図は二月騒動と同じだろうね。
>>508
だって得宗家の御内人は、あくまで得宗あってこその存在だからな。
得宗がいなければ、彼らが権力を持つこともあり得ない。
これは、足利宗家の執事である師直が、あくまで尊氏あっての存在なのと同じ。 得宗の当主は毒殺でもされてんのか?
と思わすくらい早死にが多いよね
おかげで子女も少ない >>515
「時宗」の時の時頼金粉ショーを思い出すなぁ。 北条宗方が内管領(格が高い言い方だと内執権か)となって、ゴタゴタとならずにその路線が成功していれば、内管領を得宗家準主流で占め、御内人を制御していくことになったんだろうか? 足利氏の家紋ってなぜに
源氏の笹竜胆ではなく二つ引にしたん?
源氏北畠家は笹竜胆なのに >>515
赤橋流も代々短命だな。
>>519
北条だって平氏の揚羽蝶じゃないし・・・。 大阪ででかい地震があったんだな。昔の人は地震があると怨霊の仕業だと思ったのも納得 平「ハチロー」頼綱は、鎌倉大地震のどさくさの中殺されたんだよな 地震や火災にかこつけて政敵を殺るのが
鎌倉の常識
まさに修羅の国 話を変えて悪いが、二代将軍義詮は自分の墓の横にかねてより景仰していた楠正行の墓を建てるように遺言したとか、敵将なのに何故と理解できないのだが。
因みに自分はその墓所のある宝筐院には2回訪れてます。 そりゃオマエみたいなカスにはわからないだろうよ。
あといちいち上げるなゴミ。 「第一外科東講座教授総回診よろしくお願いします。」
ちゃんと言えた義詮はすごいと思いました。 後半は映像が使いまわされていて、
足利軍がなぜか新田の大中黒の旗を持って走っていたとか >>528
まあ、冷たいお言葉ですわね
お判りなら教えてあげて差し上げればよろしいのに >>530
ただ北条氏は時政以前の系譜に不明確なところがあるにしても、坂東平氏の庶流である
こと自体は、事実なんじゃないか? 北条が平氏じゃないなら何者なんだよ。明確なソースを付けて答えてみて。 >>532
自分の中で結論が出ているのに
知らないふりして人に聞くのはカチンと来るな
話題提供にしたって、やり方があるだろうに 陣内孝則は毛利元就でもなかなか洒落た素襖を着ていたな。 しっかし
北条の滅亡で自害したのが6千人てすげーわな
白髪三千丈の太平記考えてもさ >>520
確かに親房が源氏長者になってるね。北畠は村上源氏の庶流じゃなかった?南朝限定の氏の長者ってこと? 藤氏長者の場合は、基本的に現任の摂関の持ち回りなんだっけ? >>524
でも貞時ってよく思い切ったもんだな。
時宗でやってたけど、左衛門尉が傅役で奥方がめのとなんでしょう。
こういう例は他にあるのかな?
貞時サンの親政時代ってそれほど長くなかったって思うけど、結局は頼綱の親類?にあたる御内人長崎氏の専横を招いたってことかな? 夫婦で養君を守り立てるって、割りと普通にあることでは? 宮騒動→地震にかこつけて北条得宗が邪魔なやつらを駆逐
二月騒動→地震にかこつけて北条得宗が邪魔なやつらを駆逐
平禅野門の乱→火事にかこつけて北条尼、、ooooできる 平禅門の乱のときの鎌倉大地震は、相模トラフで定期的に起こる関東地震という説もあるな。
その場合、地震名は永仁関東地震となる。
その後、明応関東地震、元禄関東地震、大正関東地震を経て、現在に至る。 宗尊親王の早世で室町院領の伝領で揉めたのも南北朝分裂の一因 南北朝合一の際の「全国の国衙領を南朝側に」というのは、何だったのだろう? >>547
全国の国衙領を南朝に(国衙領が残っているとは言っていない) ひどい話ですよな
キミにはM資金をあげよう、みたいな 三種の神器さえあればこっちのものだーって事ですねw
堀を埋めてしまえば後からいくらでも難題を吹っかけられるしな
力が無ければ約束を守らせる事が出来ない
詐欺と言うよりかは強盗に近いのかな?w 三種の神器の価値を下げたのは後醍醐自身
今や八咫鏡は伊勢神宮で八尺瓊勾玉は皇居で草薙剣は熱田神宮
も怪しい
みんなバッタもんじゃねぇ? >>535
結論が出ないから聞いているのでは?
自分もあの質問に対しては答えが出ないし
本能寺の変、足利義満の毒殺説などについても黒幕説が誰かわからないし >>548
まあ本来の大覚寺統の所領であった八条院領は、あの段階では木寺宮家の
家領化しているから、八条院領を持ち出せないのは仕方ないけど、南朝側だって最早
公領(国衙領)にほとんど実態がないことくらい分かっていなかったのかな? >>554
義満毒殺説は、井沢某の妄想だから無視していいよ。 室町時代の大河またやってくれたらいいのに
制作費がとんでもなくなるんかな 制作側が力無いのは言わずもがな、視聴者もついていけないからな。
いま太平記やって同じクオリティのできたとしても視聴率取れんだろう。 幕末でも政治描かないし
今の大河の描き方で
室町描いたらw 平成初期と今では脚本家の力量が違いすぎる
視聴者もすっかりバカになった >>560
今の描き方でやると、鎌倉倒幕編は延々と藤夜叉ネタばかりを引きずって、いつの間にか
よく分からないうちに北条が滅んでいる。
そして建武政権編では、義貞と勾当内侍の話を延々やって、気がついたら後醍醐が吉野に
いる感じかな? 藤夜叉パート削りに削れたら
直冬と北畠もうちっとできたろうなあ >>554
つまり、527は答えが出ない事を承知で聞いていたわけだ
自分の考えは一切言わないで 2020年大河楽しみだな
太平記の脚本やってた池端先生だ >>564
直冬は演じた役者のせいでしょ ドラマの筋的には本来、終盤の主役のはずなのに あぁそう言えば、今発売中の文春が観応の擾乱を取り扱っている 原作の吉川英治が当時の一般庶民も書いているから石や藤夜叉は外せないよ 後醍醐の隠岐脱出を先導しちゃう石は
でしゃばりすぎ >>562
何不自由なく蝶よ花よと育てられた北条の超名門のセレブ姫登子。
幼い頃から産声や笑顔で北条のピンチを救う特別な姫。
最後の執権の兄守時の知恵袋であり、北条高時や金沢、長崎親子も参加する評定を普通に立ち聞き。
「北条やばいなら、私が足利に嫁いでやってもいいよ」と、足利に嫁ぐ。
尊氏はもちろんイケメンでセレブ登子にぞっこん。政略結婚でもイケメン夫と対面するなり恋愛結婚だと思い込む登子。
結婚後も登子と仲の良い守時に尊氏は激しく嫉妬し、鎌倉幕府に反旗を翻す。
尊氏は単騎で鎌倉まで向かい登子と千寿王を自ら救出し、新田に託すと鬼神のような速さで京の六波羅を殲滅させる。
登子は鎌倉攻めの新田に「戦いは嫌にござりまする(キリッ」
兄守時死亡。イケメン尊氏の戦いはいい戦。新田の戦いは悪い戦。新田を兄の仇・貧乏御家人と罵る。
登子の歓心を得たい尊氏は将軍になりたいが、任じてくれない御醍醐に不満。
中先代の乱では登子を守るために尊氏は天皇の許可を得ず鎌倉に駆けつけ、
乱を鎮めても登子がいる鎌倉の方が居心地がいいと京に帰らない。
尊氏が弱気になると、守時の亡霊が尊氏を叱咤し、嫉妬心を煽るので、尊氏は登子のために奮起。
南北朝も登子が寝屋で「御醍醐天皇じゃなければ、将軍になれるよ」と囁いたことがきっかけ。
直義はずっと兄嫁に懸想してるので、次第に尊氏と対立。高師直もセレブ登子に懸想してる。
登子をめぐる愛憎劇の果てに観応の擾乱が起こる。
これ以上の「戦いは嫌にござりまする」と尊氏に幕府のために弟直義を殺すように知恵を授ける。
直冬は尊氏が泥酔して前後不覚に陥った際に登子と間違えた白拍子との間にデキた薄汚い可哀想な子。(演:マエケン)
尊氏に背く北条の残党は最後の執権・守時の亡霊が鎮めるのがデフォ。
尊氏死後は義詮を補佐し、義満の養育に深く関与し、室町幕府の黄金期の礎となる。 >>573
足利尊氏=内場勝則、赤橋登子=未知やすえ
やな 兄嫁に懸想ってのは、大河で高嶋政伸がよくやるパターンか。
てか、これ何か前にも見たような気がする。 >>571
これだけ好待遇を受けていた架空の人物キャラだったにもかかわらず、惜しむらくは演者の都合で終盤、きちんとした説明もなくドロップアウトしたことだよな
当時、売れっ子だった俳優を起用したがゆえの悲劇か…
最終回にも登場しなかったことを考えるなら、ドロップアウトする前に、真の親の仇と刺し違えて華々しく散っていくような展開が見たかった >>567
危惧すべきは脚本以外、当時の太平記に携わっていたスタッフではない点だな
太平記に匹敵する作品は、残念ながらもう出てこないと思う >>578
それは知っているんだけど、兄嫁に懸想が共通みたいなことを誰がが太平記かどこかのスレで書いていたような、いないような…。 >>580
最初に見たのは田淵&小松スレだったかな >>578
すみません、これ以上のことは私も存じておりません 直義にはちゃんと陰気くさい嫁がおったがね。むしろ直義と登子って相性悪そうだった。北条の嫁って文句タラタラだったじゃん。 直義は義詮を排除しなきゃいけない立場だし登子と仲良くできるわけがない ワーワー言っていたのは婚姻前後だけだった記憶w
鎌倉に謀反を起こす時には、既に登子に同情的だったような?
直冬に関しては、そっちはもうしょうがないよね でも直義も、序盤では金沢邸に出入りしたりしているんだよな。 …思い返すに、
直義的には、登子がどうのじゃなくて最後まで尊氏がどうのこうのだったな
>>573 も直義バージョンに改変すべき!…いや、しなくて良いですw 石が能面師になる退場シーンは、今になってみると、そう悪くない気がする。
若い頃は世に出たくて、破天荒に立ち回ってみたものの、結局は自分が求めていたのは藤夜叉とのささやかで穏やかな暮らしに過ぎなかったことに気付き、しかし気付いたときには既に手遅れ。
静かに諦めを噛み締めながら、舞台を降りていくってのは、歳をとった今、身につまされるものがあるわ。 直冬の側近になって、最終回で直冬を斬りに来た右馬介と相討ちでは? >>590
その20年後の江では名優扱いされてたな >>588
能面師とか琵琶法師になるとかが落とし所かなあ?
小島法師になるとかは発展させすぎかな >>590
赤井英和を忘れちゃいけないw
>>592
小島法師は俗説通り児島高徳の成れの果てということで良いのでは? >>590
「見苦しいぞ、顕家」シーンのゴクミは、訥々としながらも父への思いが滲み出るなかなかの演技だったと思う。
若い時、生で見て下手だと思ったかも知れない(もう忘れた)が、年齢を重ねた今見れば、親房のように思わず涙を湛えるかも知れん。
年若く、神懸かりの矢を放つ役だから、変にこなれた芝居をされたら却って良くない。 >>590
あの頃の宮沢りえは輝いていたよ
逆に江の時の劣化は目を覆いたくなる
棒は沢口だろ そもそも、後藤久美子は演技がどうこう以前に、青年武将になぜ女優をキャスティングしたのか? という点が問題だと思う。
大河ドラマ史上、実在した人物を演じる役者の性別が、劇中におけるその登場人物の性別設定と異なっていたのは2018年6月現在、唯一のケースだったはず >>599
すみません、正直言って存在忘れてました
弁解させていただくならば、本編の劇中に登場する通常の登場人物に限定すれば、それでも唯一のケースに該当するのではないかと? スレチだけどさ
どうせ明智光秀が正義の志の反逆者っていう筋書きになるんだろうな >>599
あの2人は実在したのかい?
長台詞がすごかった いわゆる三職推任問題を脚本がどう書くかによって展開は変わってくる なぜか2020年大河のスレッドみたく、光秀と信長の話題が提供されてきてるぞ >>603
助さん覚さんは実在の人物だよ。
>>604
あんまり変わらなくないか? >>598
後藤久美子がインタビューで、お姫様か北畠顕家の二択のオファーがあったので、顕家を選んだと答えてたね。
顕家については、浮き世離れした、中性的なキャラクターとして描きたかったんだろう。 >>608
もし、お姫様のほうを選んでいたら、後藤久美子が勾当内侍を演じていたのかな?後藤久美子に演じさせるために架空の登場人物を創り出せば別だけど、ほかに主要登場人物でお姫様に該当するキャラクターはいないと思うんだけど…? >>609
義貞は当初、萩原健一だったわけだけど、その相手がゴクミってどうなの? まあ萩原健一が相手のほうが犯罪の匂いが強まる気がするなw でも義貞は絶対根津甚八で良かったと思うわ
ショーケンじゃ内侍にムリヤリ襲いかかりそうw 途中降板で役者が変わった大河って他に何かあるかな? おかげで当初の予定よりも、義貞は登場シーンが完成作品では激減することになったらしいな >>620
というか、脚本の変更を余儀なくされたのだろう、前半はだいぶダルな展開が多かった >>618
この大河の北条仲時も途中で役者が変わった。 >>619
名作だった
テーマ音楽も最高
渡哲也から松方弘樹
幕末物ナンバーワン >>623
まぁ、レギュラー出演者の中でってことで。 太平記観終わった〜。噂以上の名作大河でした。最終回、直義とのやり取りが泣けた(ワシも次男なので…)。つか直冬の扱いあれで終わりかよwww >>628
直冬だけじゃ無く画かれ切れてないキャラも多いからねえ、俺は楠木正行が一話コッキリしか出てないのが残念だった >>629
オレは西走の時の多々良浜の戦いだな。
絶体絶命をしのいだ兄弟愛が観たかったな。
これがあれば直義毒殺シーンももっと盛り上がってことだろう。 よくわからん裡に西に向かって敗走して、よくわからん裡に盛り返して東征してた >>630
多々良浜は描きようがなかったんでしょ。
だから申し訳程度に紀行で触れた。 >>620
足利の決起直前で根津義貞が登場するから結構ギリギリだったよねえ 今の感じだと新田は足利傘下の一門として
描かられるんだらうか 足利荘と新田荘は隣り合っていてイサカイが絶えなかったらしいな またこの時代を扱った大河やって欲しいな
最近清盛以外は戦国・幕末の繰り返しで食傷気味
北方謙三の破軍の星原作で北畠顕家とかどうですか >>635
以前は、京都の公家は関東の武士のことを良く知らないから、新田を足利の一門扱いした文章が残された、みたいな話だったけど、
最近の新田関係の歴史書とかだと、足利の当主から偏諱を貰っていたとか、当時は実際足利の一門だったといっても過言じゃないみたいな感じになってきてる感じよね ただ鎌倉時代の編諱は、必ずしも上下関係を意味するわけじゃないが・・・。 >>637
続・太平記として孫の足利義満を主役として南北朝終止符、世阿弥や若き日の三宝院満済との絡みを見て見たい 戦略的にやらんといまの視聴者には室町は受け入れられないだろな。
明智光秀開始時、池端氏繋がりで地上波で総集編流して反応を見るべし。 登場人物が多いだけでついてこれないのが
現在の大河ドラマ視聴者だからな 清盛でさえ人物が多すぎて分からないとか言われてたしなぁ だから大河ドラマってのは万人が見るのであってお前らみたいなマニアに合わせられるわけないだろ。頭おかしいんじゃないのお前らw かつての「時宗」とか「花の乱」なんかと比べたら
太平記の時代や義満の時代はぜーんぜんマニアックちゃうで。
「享徳の乱を足利成氏主役で見たい」とか言い出したら、そら十分にマニアックだが(´・ω・`) 初期戦国はマニアックかな?
早雲・細川・三好など。
時代の大きなうねりに翻弄された悲哀みたいなのを描いたのが太平記だとしたら
時代の大きなうねりから抜け出した人物を描いたのがこの時代だと思う。 最近は「花燃ゆ」、「直虎」とかいったあまりにもマイナーすぎる人物を主人公にするから萎える
主役もイマイチなせいで視聴率も低下するし
歴史上の有名人物であり、また主役もそれにふさわしかった太平記の時が懐かしいわ
高い受信料取っているのだからNHKは再放送すべき >>641
これは折を見て義詮どのから義満どのへ寝返るといたしましょうかな >>651
懐かしいな、最終回の道誉のセリフ
野暮を承知でツッコマせていただくならば、史実における義満誕生は、尊氏没後なんだけどね >>652
実際ドラマのなかでは、義満は誕生してないよ。
ただ義満誕生は、尊氏の死の4ヶ月後だから、もうすぐ義詮に子が生まれるということは
尊氏も承知した上で死んでいったはず。
無論この段階ではそれが嫡男になるか姫になるかは分かっていないが、仮に生まれて来る
子が嫡男だと仮定した場合、という前提での会話がドラマ最終回のあの場面だったと
理解しているよ。 >>652
まだ見ぬ孫の元服と来たものじゃって
気短な義詮に頼まれたセリフがちゃんとある 653>>
654>>
中学1年生の12月に最終回を視聴して以来、ずっとそのシーンを目にする機会がないもので、長年にわたって勘違いしておりました
適切なご指摘、本当にありがとうございました >>655
>>653
>>654
すみません、間違えました
改めて、御礼申し上げます なんとも味わい深いスレにござる
高校生で見てたのにそこまで記憶がない… 俺は小4?5?くらいで見たて
最近このスレ来たて
佐々木判官が好きだった
あと覚えてたのはアホ高時、国民的弟、ゴクミ顕家あたりW また観たいですね
ガキの頃に知ってる歴史と言ったら、三国志と戦国時代(信長の野望)だけだったからなあ
今のが楽しめそう太平記
今の大河みてない。この十年 十五年
忙しいし興味薄れた >>659
人気作だったので大河を置いているレンタル店にならまだありますよ
セルもなだ普通に買えますし >>660
恐悦至極にございます
当スレ共々、楽しみとうござりまする 初回で覚えているのは判官殿がとぼけるシーンだけだわ
このお方は足利尊氏殿にあらず! 判官が一番輝いたのは
長崎円喜に土下座して命乞いするシーンだわ >>663
初回だと
長崎円喜の
「これは長崎円喜にあらず北条得宗の名代ぞ控えよ」
足利貞氏の「いつになったら北条を倒せる?」との
足利北条の遺恨がはっきりわかる名台詞 >>663
失礼ですが、それは初期のほうの回でしたが、初回ではなかったはず 判官殿の政府と言えば、最終回の
か、かなわぬな
も捨てがたい 判官だと
尊氏引きこもってた時の
戦にお発ちの折にはご一報賜りたい
何処にいようと馳せ参じ戻ってまいる御免 セリフを政府とミスタイプするとか、我ながら美しくないな(´・ω・`) 【プレゼント】上越出身の編集長が執筆!謎多き室町幕府の概説書発刊
2018年06月30日 05:30更新
https://www.joetsu.ne.jp/49659 >>670
その本この前室町幕府将軍列伝って本と一緒に買ったわ
まだ積んでるけど このスレはドラマと関係なくおもしろい話をしてるけど、
日本史板にはいいスレないの? >>665
それを強調するため、わざわざ貞氏の子役まで使って家時の自害シーン入れたんだろうな そろそろ女主人公でこの時代がきそうだな。登子か廉子か、はたまた? >>672
言い負かそうと粗探しばっかり叩き合いになるからここでまーったり話すのが良いんだと思う。
太平記絡まない話はさすがにスレ違って怒られるけどね。 >>665
総集編第一部 青春と間違えたんじゃね? >>665
>>666
言葉足らずだった
初回放送時です(再放送・DVDじゃないという意味で) 最近の室町幕府研究のやつと一緒に見るとおもろい
北条の評定に出てた二階堂入道が普通に建武政権に参加しとるし >>668
尊氏が中先代の乱で帝の許しなく京都を発とうとしているとき、突然甲冑姿で現れて、
「そろそろ足利殿がお発ちになる頃だと思って・・・」という場面も印象的w 直義が将軍邸を囲んだ師直軍に突撃しようとしたところでは、
「佐々木判官、思うところあり。暫しお控えなされよ!」
と言っていたなw >>686
>>687
実質的な副主人公というべき立ち位置だったな 一般的なお年寄りは道誉なんて誰も知らんだろw
それに陣内以外の道誉は嫌だなあ >>690
派手さとかスリリングな感じは
独眼竜政宗の上位互換的に描けそうだけど >>693
独眼竜よりも破天荒かつスケールがでかいわな 道誉と政宗は、派手好き以外にも、そこそこの名門の生まれという点とか、共通性は確かにある。
ただ政宗みたいに、下手な小細工を何度もやって天下人の不興を買うようなことは、道誉はしない。 >>691
最近の年寄りは桜井の別れも知ってるか怪しい 坊門清忠の藤木孝さんのことが気になって経歴を見てみたら、
もともとアイドル歌手で、俳優に転じ、主に舞台俳優をやりながら映画で脇役をやっていた人なんだな
作品一覧を眺めていたら昔、浅草名画座で見た「明治 大正 昭和 猟奇女犯罪史」が出てきた
日本閣事件(映画では東洋閣)での戦後初の女性死刑囚になった毒婦の相手役
あのヤサ男が坊門さんになっていたとは、と感慨深くなった
http://youtu.be/YQPbYj3IRB0?t=2m33s
(グロ注意) 最近、陣内見かけないね
どうしてるのか?
自分としては道誉だけでなく、「毛利元就」の陶晴賢役も印象深いが バラエティーで見るよ。俳優では使いにくいのかもね。 池松荘亮って、両親が陣内の高校の同級生だか、同じ町の幼なじみなんだろ。
いまだに本人が挨拶に来ないってボヤいてたけど。 今さら松永久秀とかやっても意外性ないか。
やっぱりって言われそう。 内野聖陽は、「太平記」の登場人物なら親房卿あたりがよさげ。 ロクでもないのばかりw
雰囲気的に陣内とかぶらないから道誉とかどうよ 大河の方には出番無かったけど山名時氏とか斯波高経はいかが >>720
斯波高経は、義貞を討ち取る場面だけでも、登場させてあげれば良かったのにねw 義貞って少人数で偵察みたいなことやってて斯波軍と遭遇戦になったんだろ。斯波高経も討ち取った後にまさか義貞とは思わなかったってw馬鹿だろこいつ。なんでこんなのを戦前はありがたがってたのかw 織田信長も、まさか自分が討ち取ったのが今川義元とは思わなかったらしいね。 それはないだろ。じゃあ信長は誰かもわからないところに特攻したのか? >>722
ある程度の大物になると、ちょい役のショボい役者ってわけにいかなくなるから
でも結城親光はうまくごまかしたな >>726
義元本隊と戦っているという認識が最初どこまであったかは疑問かな。
無論、討ち取った段階では分かっていただろうが。 わからんでしょう
偽師直:詳細に検分するまで信じてた
偽桃井:詳細に検分するまで信じてた
例外は名越高家くらい スレ違いですまんが、桶狭間において、信長は義元本陣であることを確信して戦闘開始したはず。
何故なら、当時の信長が率いていた兵は、彼が動員できる最後の兵卒だから、曖昧な相手には絶対に投入できない。 毛利新助の首獲り名乗りで義元ここにいたのー?ってなったのかw スパイの報告である程度の場所はわかってたんじゃねーの あれは逸話だろ?頭蓋骨なんてヒビ入ってるからダダ漏れになるじゃん >>742
頭蓋骨の登頂部の一枚板をお皿にするんだぞ 三種の神器争奪戦
源平合戦 南北朝
やっぱ源氏クソだわ >>747
河童方式ですね!
どっちみち野蛮ですよねえー >>749
源平は源氏だけが当事者じゃないし、南北朝の内乱の最大の責任者は後醍醐帝だろう・・・。 一門の結束を重視して部外者を排除した平氏と
御家人・大名の結束を重視して邪魔な一族を滅ぼした源氏
どちらがよいかは一概には言えないわな 「平清盛」のナレは頼朝だったけど、ナレの中で「平家は概して兄弟仲が良かったと言われている」ってのがあって自虐にも程があるだと思った記憶が 北条も兄弟はなぜか仲いいことが多いな
やっぱ平氏なんだな >>755
宮騒動、二月騒動、霜月騒動、嘉元の乱、嘉暦の政変なんかでは、かなり一族内でゴタゴタやっているような・・・。 清盛直系の平家が仲良いだけで坂東平氏は河内源氏と何ら変わらんぞ >>729
名和長年、下へかしこめ!宮二品の親王ぞ!征夷大将軍なるぞ!!
確かこんな感じだったかな
この当時は脚本も俳優の台詞回しも上手かったなあ >>758
名和長年、子細確かめい・・・
だったと思うよ。 >>756
それでも最後は一門内では目立った裏切りもなく仲良く滅亡だからなあ >>748
頼朝−義経範頼は異母兄弟だから尊氏直義とはぜんぜん違うわな
当時の異母兄弟は一緒に暮らしたことなんかないんだから他人同然じゃん 頼朝兄弟の誕生時は戦乱で生まれも育ちも違うだろ
尊氏と直義は鎌倉で兄貴の高義と一緒に遊んでいたと思うぞ >>762
高時「鎌倉あっての北条、鎌倉あっての高時ぞ」 >>759
そうだったのか・・・
堤大二郎が早口の場面なので聞き取りにくいが、
てっきり「名和長年、(麻呂の)下へかしこまれ!」
要するに図が高い、ひかえよ!と激高しているのかと思ってた >>763
>>764
チミとチミ、浅すぎる、知識が浅すぎる
範頼と義経は頼朝の母方と近すぎるからこそ危険視されたんだよ
それを良く知っていた頼朝の母方と近い足利義兼は、次は間違いなく俺だと確信し、出家して気が狂ったフリをした
範頼
・幼少期は由良御前が庇護、浜松にいた叔父(三河の藤姓熱田大宮司家)の息子夫婦に養育させる
義経
・藤原範忠(三河の藤姓熱田大宮司家、足利義兼祖父)立会の元、熱田神宮で元服
・兼高長者(三河の藤姓熱田大宮司家か?)の娘との物語(浄瑠璃姫)
・義経が持っていた源氏の守り本尊(現増上寺黒本尊)は、三河の長者(三河の藤姓熱田大宮司)に預けられた
三河県岡崎市にあった足利義氏の邸宅(足利義氏亭)は明大寺にあったんだが、地名の由来は義経が建てた妙大寺に由来する
生まれも育ちが違うどころか丸被りだったわけだな
教科書とか読んでいるから、そんな間抜けなレスをして恥をかくハメになる >>281
ボキが思うに彼のレベルなら、足利決起の際、最初は細川は出陣を拒み、尊氏が細川郷に馬を走らせ説得した地元の伝承を紹介しつつ、ディープな話で楽しませると思うな
何故拒んだのか、ここを熟考するわけだな THREE CHEERS FOR MI-KA-WA-YA ! 深過ぎる解説をありがトン
我が目から鱗が落ちたわけだな
叔父の息子ってボキならいとこというと思うな
叔父でもいとこでもいいけどあえて名前を明示するのを何故拒んだのか熟考するわけだな
範頼は遠江浜松で育った、義経は尾張で元服し三河で恋愛した
こういうすれ違い程度を丸被りと言って楽しませてくれるわけだな
なんで生まれが丸被りになるのか書かれてないけど
根拠がないことを盲信できないようでは三河屋にはなれないんだな
義経記とか怪しげな地元伝承とか読んでいるから、そんな間抜けなレスをして恥をかくハメになる なるほど、頼朝は自身に近い源氏ではなく、由良御前と生母が違う可能性がある範忠繋がり(源義経、足利義兼)を危険視していたわけだな
特に義経は、三河の熱田大宮司家本拠である岡崎市に縁故を残している
とか簡単にぐぐっとくる返しレスくらい出来んもんかな
長々と頭が悪そうなレスを返しやがって >>760
情勢の変化が急すぎて、脱落者が出る時間的余裕がなかった。
平家滅亡の際は、それなりに脱落者が発生している。 北条滅亡の時は外様はほぼ例外なく裏切ってるのも凄い
逆に言えば寸前まで離反者がほぼいなかったとも言えそれはそれで凄いが 担げる神輿があればなんでも良かったんじゃない?外様が反旗を翻したって後に続く武家もいないだろうし >>775
早くからの離反者がいないのは、直前まで比較的大きな権力を持っていたから。 北条氏って、中先代の乱を除けば、その後に生き残りが反体制勢力に担がれることも、
ほとんどないからなw
最も南北朝分裂後は、北朝&室町幕府に反抗する奴等も、北条氏の生き残りを担ぐより、
遥かに権威のある南朝を担いだほうが、メリットは大きいだろうけどさ。 北条は下国伊豆の土豪、最高でも正四位下で担ぐには家格が低い。
しかも得宗は押し並べて早死にで、なっても従四位どまり。 やっぱり得宗家は、将軍にはなれなくても公卿にはなっておくべきだったな。 直義が越前に脱出してからも、尊氏は直義に帰還を要請している
もともとあの脱出劇が本当に尊氏の策略だったのかも疑問 下級公家でもいいから特捜の娘をやっておくべきだったな。そこから繋いでいけば生き残ったかもしれない。そう、一条能保の子孫のように >>786
わーたーしーだけのじゅーじかー(特捜最前線のテーマ) >>784
赤松は本当に南朝に降ってるからな
道誉は知らんけど >>788
赤松則祐って道誉の娘婿なわけで、道誉と則祐は明らかに同じ意図で動いていたと思うぞ。
まあ赤松が表向きとはいえ担いでいるのが、護良の王子という辺り、かつての建務期に
おける護良派の人脈を活用した感じだがw
あと則祐と道誉の娘との婚姻関係は、赤松の家格の上昇にも大きく寄与したみたい。
後に則祐の子の義則が、赤松氏で初めて侍所頭人になって、赤松は三管領四職に列する
わけだけど、これも赤松義則が道誉の外孫であることが大きかったようだし。 >>785
平氏政権とか豊臣政権とか武士が大量に公卿になっているケースもあるのだし、
尊氏だって将軍になるより遥か以前に、後醍醐の建武政権下で公卿になっている。
もし望めば、得宗家の当主くらいは、公卿相当の官位に昇ることは可能だったんでは? 赤松則祐みたいに父が尊氏方に転じて20年経ってから
南朝に戻るのもいるのだな。
14世紀中盤にもう茶人なんてものがあったのに驚いたけど >>784
裁判、政治の実務を担う直義がいないと、万事上手く回らなかったのかもね。 頼朝公の官位を超えてはダメなのよ。
鎌倉幕府の根幹を揺るがす。
頼朝公の遠戚が将軍に据えられた事実があるのだから。 北条氏が将軍になるしかないんだろうけど、そんなIFどこで実現すればいいんだろうね
平賀朝雅将軍を実現して、姻戚でもなれますよ的な方向に持っていくとか?
でも無理だよね >>792
あの時期は、尊氏も直義も道誉も直冬も、一時の方便として、南朝に下っているから、
赤松だけ殊更に言うことではない。
>>793
あの段階では幕府の政務担当は義詮に交代しているから、仮に直義が帰参したとして、
直義をもう一度政務に関与させる選択肢はなかったと思うけど・・・。
>>794
頼朝の官位を超えるとは? >>796
あれは則祐の挙兵に道誉が同調した形なんだと思う。
弟の氏範ほどじゃないけど、則祐も大して尊氏に思い入れがなかったのでしょ。 >>797
あのときの道誉・則祐の南朝への帰順は、明らかに尊氏・義詮の意を受けてのものでしょ。
ドラマでも、道誉・則祐の南朝帰順は偽りだという感じで描かれていたけど。
まず尊氏・義詮がそれぞれ佐々木・赤松討伐と称して出陣するのが、観応2年7月28日。
そして謀られたと悟った直義が京都を落ちるのが8月1日であり、この段階では、佐々木・赤松討伐は虚偽だという噂が都に充満していた。
その後、義詮は8月3日、尊氏は8月5日に帰京しているが、日数の短さからしても、
尊氏・義詮に本気で佐々木・赤松を討伐する気があったとは思えないし、直義側も
佐々木・赤松が本気で南朝に降るはずないと思ったからこそ、謀られたと認識したわけで。 あと則祐はその後、観応2年いっぱいは南朝方として活動しているが、この年の
10月以降は、尊氏・義詮も(直義を討つために)南朝に下っているから、同年末に
南朝方として活動していても、それは尊氏・義詮に敵対していることにはならない。
そして、翌観応3年(文和元年)になると、道誉・則祐とも義詮の配下で活動している
ことが明らか(この時期、尊氏は鎌倉へ長期出張中)になる。 則祐さんの将軍家への忠誠心がガチなのは幼い義満とのエピソードからでもわかる こういう話はドラマと照らし合わせて面白く読めるから好き
スレと関係ない時代の知識ひけらかす奴は爪の垢でも煎じて飲ませて貰って欲しい >>802
まだ理解していないようだからはっきり言う
スレと関係ない時代の知識ひけらかす三河屋は爪の垢でも煎じて飲ませて貰って欲しい >>800
微笑ましい(爆笑)
ところで赤松さんってノリスケって名前が好きなのね >>812
漢字表記違うけど、兄の名前も範資(ノリスケ)なんだよな。
もっとも則祐のほうは、最初は出家していたから、音読みでソクユウだったらしいが。 赤松さん、太平記だと悪党そのものだけど
播磨の名族なんだっけか
御家人じゃないんだけどね
まあ、御家人って日本全国で500人くらいしかいなかったらしいし 赤松は元々どこの馬の骨か分からない出自だよ。
村上源氏とする系図に信頼性はほとんどないし。 赤松円心を演じた俳優さんって東工大出身なんだよなw とてもそう見えないw
太平記で世間に見出されるまでアルバイトで生計を立てていたとか >>818
なんら変わらないというか、赤松自身が悪党そのものだよ。 >>817
それはないだろ
叡山に息子送り込んで座主の側近になる程度の力はあったんだから 悪党いうても
悪左府頼長とか悪源太義平みたいに
悪の意味は現代とは必ずしも合致しないわけで 悪党そのものってのは現代でいう悪党ってことだろうよ
ちゃんと忖度してやろうぜ 「よいとはどれほどよい?嫁に行けと言えば行ってもよいと思うほどの人物と見たか?」
「はい!」
「よし。足利高氏救うてみよう。このまま北条の敵とするには惜しい男よ…」
これが皮肉にも北条の命運が尽きることになるとは…
。゚(゚´Д`゚)゚。 >>815
波野氏は大内氏の家臣
周防守護職に任じられた大内氏に付き
親政後は北朝側につき足利尊氏を支援 波多野と言えば波多野憲
60年代邦画の名脇役
二枚目だがヒロインの元彼とか既婚なのを隠してヒロインと付き合っている男とか、ダークな悪役専門
京大出身と知ってびっくり 売れないアイドルをめった刺しにしたストーカーの筆下ろしセックスをした波多野結衣 >>826
吉田松蔭の実家の杉氏は、大内重臣の杉氏の末裔? 高杉晋作の家紋は武田菱だね。
安芸武田氏の一族かな? >>831
新垣氏の祖先は沖縄琉球王国の宮使い
だったが庶流が奄美から九州に渡り
南北朝期には渋谷氏に仕える >>766
つべで確認したが確かに早口だなw
名和長年、仔細確かめい。
儂(み)は二品の親王、征夷大将軍なるぞ。
これが正解だと思う。
その後に大塔宮が尊氏と話す場面があるけど、宮が
そちは頼朝の血をひいておる。
と言っててひいてねーよと突っ込んでおいた。 >>842
頼朝と同じ“河内源氏=武家の棟梁の血筋”という程度の意味で言っていると、脳内変換して
見ることはできないの? 八幡太郎義家の血を引いてる
と言っても「?」な視聴者もいるしなぁ 尊氏→腫物
直義→腫物
義持→腫物
腫物のできやすい遺伝なんてあるの?
お尻がかゆくなる >>845-846
そりゃ暴論だ。ライト層は頼朝の直系だと勘違いしてしまう 東スポかなんかのエロ小説で、義朝が妹と不倫の仲になっていたとかいないとかってのを読んだ気がする。
かなり昔。 >>847
初回で高師氏が「八幡太郎義家公より始まる当家を滅ぼすおつもりか?」という場面があるよ。 >>817
それで終わりか、つまらない奴め
前からボキは、なぜ三河に赤松氏所縁の伝承が多いのか不思議に思っていたので、少し調べてみた
赤松を語るのに、殊更特筆されている実父は源顕房ではないかと言われている季房卿がキーマンなんだが、播磨に流されたあと許されて三河守になっているらしい
そして、季房の姉妹が藤原顕隆の室になっていて、顕隆の正室が藤原悦子(父は藤原季綱(三河守))、悦子の従兄弟が初代三河の藤姓熱田大宮司の藤原季範だ
遡れば足利氏と赤松氏は三河で接点があったわけだな 豆知識だが
赤田和城
http://www.geocities.jp/shiro20051212/Akantawa-jo.html
広祥院
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%A5%A5%E9%99%A2
円心が隠れ住んだと言われる赤田和城と高氏所領の広祥院は、直線距離で約1.5キロしか離れていない
赤田和城近くには赤松円心の子孫と主張する赤松さんが現在も住んでいて、子孫の証拠として受け継いできた刀があったそうだが太平洋戦争時に軍に没収されたらしい
また、赤田和城近くの山中に赤松円心の碑があるらしい
たまには面白い話の一つくらいしろ
どいつもこいつも退屈なレスばかりしやがって もう一つ豆知識だが
広祥院
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%A5%A5%E9%99%A2
広祥院の裏には奥平家の墓と家臣団の墓があって、福沢桃介が来たことがあるらしい
つまり福沢諭吉の先祖が眠る墓地なわけだな 足利尊氏さんは後醍醐にすげー恩賞貰ってるのな
正三位 参議
鎮守府将軍
武蔵守、三河守、上総介
関東での恩賞取次
もう満足やん >>861
新政時の鎮守府将軍と他の時期の鎮守府将軍はなんか違うけどな
北畠顕家も鎮守府将軍だし、ちなみに従二位参議
右近衛中将(従四位下クラス)
陸奥守
役職の位階が建武新政は違うね、他の時期と >>861
官位相当は時代によって変わるから、中世だと既に律令時代の官位相当制とはかなり変わっている。
鎮守府将軍の場合は、平安期の段階で官位相当以前に陸奥守との兼任が基本になっていた。
>>862
北畠顕家の場合は、就任時にゴネて「鎮守府大将軍」にしてもらったとかいう話もあるな。 禁門の変で長州藩は天龍寺に陣を置いていたとのこと。
今日の大河で知りました。 >>866
それ以前に、応仁の乱や慶長伏見地震でもやられている。 >>860
あれ、何で「征東大将軍」じゃなくてただの「征東将軍」なんだろう?
かつての木曽義仲でさえ「征東大将軍」だったし、北畠顕家(というか親房)がゴネて
「鎮守府将軍」を「鎮守府大将軍」に変えさせた件とかも踏まえると、尊氏に大将軍号を
与えないのは何だかなぁ。 君は答えがわかってるのにわざと聞いてるね。レス乞食の手法は嫌われるからやめたほうがいいよ。 >>870
真面目な乞食と
性格歪んだ>>870貧乏人の生暖かいレスのやりとり
微笑ましい 赤松円心さん
意外と建武政権で恩賞もらってんのな
まあ護良親王失脚で播磨守護職失ったけど >>874
そもそも護良失脚前に、赤松は播磨の守護職なんて持っていたっけ? 口約束に近い格好で与えられてる
実態は護良親王の先走りだけど >>877
後醍醐帝に直接、というのは大きいね
赤松は六波羅陥落への貢献大きいのに
息子の則祐が法親王時代からの護良側近で、その護良自身が・・・・・・ >>877
結局生き残ったのは赤松で滅びたのは名和 有馬記念に名前を残す競馬の父・有馬頼寧伯爵は赤松則村の五男が始祖で有馬流赤松氏 名和って元々は魚売りとかだったっけ。
散所の親分・楠木といい、ほんと後醍醐はそこら辺のうさんくさい馬の骨ばっか集めてた異形の王だな。 >>882
後醍醐自体がうさんくさいオッサンだし。 >>884
得宗家御内人内管領をも輩出した長崎氏に関係が深い御家人だぞ >>886
じゃあ何で棒読みボクサーは淀の津で北条の手下どもと争ってたの? >>887
御家人同士の小競合いなんぞよくあること
挙兵だって後醍醐さんにコロッといかれてもおかしくない
承久の乱の時の大内みたいに >>884
当時の御家人はみんな得宗被官になっちゃってるからそれだけじゃ差別化にならんのよね >当時の御家人はみんな得宗被官になっちゃってるから
嘘はいかんぞ、嘘は >>880
いやそこいらじゅう得宗被官だらけ状態だぞ鎌倉幕府末期は >>880
名和氏は滅んではいないよ。
戦国期まで、肥後国八代郡に勢力をもっているし、その子孫は近代にも名和男爵家として続いている。
まあ赤松氏の子孫も、近代には赤松男爵家となっているが。
>>881
赤松庶流の有馬氏の子孫は、近世には久留米藩主になった家系(有馬伯爵家)と、
下野吹上藩主になった家系(有馬子爵家、徳川吉宗の側近有馬氏倫の子孫)があるね。
あと十年ほど前に国民新党の幹事長だった亀井久興が、有馬頼寧の外孫だね。
ちなみに亀井久興の家自体は、佐々木塩冶氏の庶流で近世に津和野藩主として存続した
亀井伯爵家の流れ。
ついでにいうと、有馬頼寧は岩倉具視の外孫でもある。 >>895
そうだね。
摂津国有馬郡を領していたから、それが苗字になった >>892
得宗被官化した御家人はそれなりにいるけど、全部が全部というわけじゃないし、足利氏を
始め有力御家人クラスが得宗被官になる例はあまりないと思うが。
あと一口に得宗被官といっても、元々幕府の御家人としての身分を持っていた者と
そうではない者を一緒くたには語れないでしょ。
いずれにしても楠木氏は御家人ではないw 得宗被官人の楠木が得宗に反抗したのは楠木が持つ利権が得宗に犯されそうになったから。死活問題だから死に物狂いに抵抗する まあ楠木みたいな新興武士は、得宗被官になるにしても、それはあくまで便宜上だから、
本気で得宗家に対して忠誠心なんて持っていないだろうし、利害がぶつかれば、そりゃ
平気で離反するだろうよ・・・。 >>900
新興と言っても頼朝の上洛の随行に楠木四郎ってのがいるからな >>901
その楠木と、正成の楠木氏が同じ一族という保証は全くないし、建武政権下での楠木の
立ち位置なんかからしても、当人も世間も楠木氏が鎌倉御家人系の武士とは、全く認識して
いなかったと思うけど。 >>903
南朝研究の最前線ってのによると
頼朝の上洛した楠木四郎
↓
駿河入江庄楠木
↓
河内楠木入道(一人目)、湯浅庄を得宗の命で制圧
↓
河内楠木入道(二人目)、東大寺に乱入
って感じで系譜が得宗被官の御家人として繋がるんだそうな それさ、興味深い説かも知れないが、あくまでそういうことを主張している奴がいるって
レベルで、中世史学会の常識&共通理解のようなものでは、全くないよな?
なんかウィキペディアとかにも、その説の受け売りを妄信的に書いて、あちこちに
「要出典」を貼り付けられている記事があったけどさ >>906
網野善彦、熊谷隆之、生駒孝臣、新井考重
普通に名が通りまくってるのの統一している見解だけど? 楠木四郎ってのは吾妻鏡にも載ってるしそれなりの御家人だったんだろう 網野みたいなホラ吹きジジイの説をまともにとってどうする。
そもそもこの大河は永原慶二大先生の監修だぞ。 >>909
網野だけしか知らないんだな
他の連中は論文を最近発表してる研究者だよ 何か面倒臭い奴が来ているなw
学界の重鎮だろうと若手研究者だろうと、彼らは彼らで仮説としてそれを提示している
わけで、それを無批判に受け入れて、その受け売りをここで得意気にされてもなぁ。
しかも、自分の信奉している説が絶対正しい、楠木が御家人じゃないという奴はバカ、
みたいな態度でしつこくて、ホント面倒臭い・・・。
少なくとも大河板でするべき話題じゃないよな?
まあ日本史板でやってもウザがられるだろうけどw 自分で「そんな妄想云々」言ってて根拠を示したらこんどは研究者を貶し
他の研究者のことを紹介すると
今度は「面倒くさい、大河板でやるな、そんなの研究者の妄想だ」か 結局尊氏って、仮に後醍醐帝が征夷大将軍を与えていれば、大人しく後醍醐帝に従っていたのかな? あり得ないことをタラレバ言っても仕方ないけど
将軍になって幕府を開ければ文句の言い様が無いだろ
将軍でも満足しないとなったら、後はさんだ…
おや?誰か来たようだ >>919
足利その他の源氏の皆さん「寝言は寝て言え」 >>919
北条さんの名前と格だと御家人の皆様が納得せんから
総理大臣が天皇になるって言うようなもん
だから親王将軍と摂家将軍が続いた 院政と鎌倉幕府は似てるよな。幼児をたてて成人したら追放(上皇)させる。 家時の切腹の理由
高義の記録の少なさ
直義の死因
謎だらけ >>923
院庁はもともと上皇の家政機関
幕府はもともと将軍の家政機関
本来ただの家政機関だったものに政治組織としての機能を持たせて、朝廷とは別に
事実上の政権をつくってしまう発想からして似ているからなw この時代のフィクサーて夢窓疎石だよな。ドラマに出てたっけ?尊氏直義はもちろん高時や後醍醐とも関わりが深い。僧なのに権勢欲はあるし。尊氏の洗脳には成功したけど直義は失敗した なんか夢想疎石はフィクサーって感じはしないなぁ
三宝院賢俊の方が政治的に思える
賢俊もフィクサーじゃあないけど もしかしたら後醍醐や夢窓疎石すら操っていた超大物フィクサーがいたのかもな >>925
足利家は義家公から代々謎だらが凄いんだよ 太平記の登場人物で「フィクサー」という言葉に一番当てはまるのは
義詮親政期の導誉さんだと思うんだけど、どうよ? フィクサーてのは源平時代の八条院みたいなのであって。賢俊や文観や道誉はフィクサーに当たらない。ザコすぎて >>941
ザコには同意いたしかねますな
表に出てるからフィクサーとはいえない
ならわかりますが >>905
最前線ってw
静岡市に楠木氏縁故が殆ど無いのをどう説明するんだ?
キーになるのは、足助重範の生母が正成の叔母さんの点だ
足助氏は御家人で唯一、昇殿を認められた名族、その足助氏に楠木氏(和田氏)から嫁が入ったつーことは、楠木氏(和田氏)は熊野国造家の出で間違いない
ボキが思うに、1331年の後醍醐天皇の討幕計画が失敗し三河に逃げてきた和田正成は、潜伏先の神社にあったクスノキをみて出直す意味で楠木に改名した単純な話だと思うね
何で豊田市と言うかと言うと、豊田には熊野国造家の三河鈴木氏がうじゃうじゃいたからな
光恩寺(三河県豊田市)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%81%A9%E5%AF%BA_(%E8%B1%8A%E7%94%B0%E5%B8%82)
若宮神社のクスノキ(三河県豊田市若宮町2丁目)
http://www.hitozato-kyoboku.com/toyota-wakamiyajinja-kusu.html フィクサーは
大天狗の崇徳上皇
古典太平記にもドラマにも毎回出てくるじゃん 何時も思うんだが、意図的に三河を省くのは策略でもあるのか?
夢窓 疎石
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A2%E7%AA%93%E7%96%8E%E7%9F%B3
>応長元年(1311年)には、甲斐牧丘の龍山庵(浄居寺)に一時隠棲する。西遊して美濃国に虎渓山永保寺を開き
1312年に夢窓疎石は三河国出身の仏徳禅師(元翁本元)といっしょに三河県新城市にいて大徳寺を開創し、1年後にいっしょに美濃に移り住み虎渓山永保寺を開創した 禅宗の勢いすげーな、この時代
天龍寺やら南禅寺やら大徳寺やら
果ては相国寺に北山第鹿苑寺やら
なんなのかな、臨済宗のこの時代の勢い 南都北嶺の既存宗教を抑えるために後醍醐や尊氏が利用したんだよ 鎌倉仏教とはいうがまさに革命よな
この時代の宗教は 信者の数という点では室町以降現在まで、浄土真宗と日蓮宗が日本の仏教における
二大勢力だけどね。 もう950越えたか、今回は早かったな
俺はもうスレたてはしないぞ。おまえらがしょうもないことで喧嘩するからな 赤松円心供養塔(善住寺(豊川市))
この供養塔についての所縁は不明だが、三河に楠木氏縁故と同じく赤松縁故は多い
その楠木氏、赤松氏の先祖と三河の面白い縁故を発見した
季房(三河守)→季則→頼則→則景→家範→久範→茂則→則村
良国(三河守)→良村→良正→良成→成氏→正俊→正玄→正成
藤原季範が三河の親分だった時代に三河守になっている
非常に興味深い >>941
八条院ねぇ。
そこで足利庄は八条院領とか言えばいい? 一話から見始めたけど引き込まれるね
貞久が無口で思慮深い領主がいい味出してる おまいら、渾身のギャグをかました>>938をスルーするとか鬼畜かよw >>966
失礼ですが、尊氏の父は貞久ではなく、貞氏では? >>959
駄目だな、答えとしては20点だ
八条院領と言われれば、日本列島の中心、関東関西間の中心であり、最大の八条院領(讃岐国と同等の広さ)であった三河国高橋荘・高橋新荘が出んとな
立券者は三河の藤姓熱田大宮司家の祖である藤原季兼(三河四郎大夫)、足利義兼の高祖父である
義兼は以仁王の令旨を三河で見せられたわけだ
■三河国高橋荘・高橋新荘
豊田市ほぼ全域とみよし市は源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した
・開発者は源頼朝の曽祖父、藤原季兼か?
・寄進者は藤原季兼の妹の子供、高橋惟康(藤原伊周の孫)か?
・平安末期〜戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる >>967
普通に書き間違いだと思うよ内容からして 貞氏に救われた可愛い童が成長したら、大地康雄になってお茶吹いた 子役が上手な演技をしていた不知哉丸が成長したら、超絶棒演技の筒井道隆になってお茶吹いた >>945
大天狗は後白河法皇だろ
崇徳院の生前はかなり穏健だったと文献で あまりしたこと無いし、できるかどうかわからんけど
数字34にして尊氏追悼、もとい尊氏追討にしたらええの? >>980
大天狗って、頼朝が勝手に言っていただけじゃなかったけ? 駿河に長崎と楠木の地名があるだっペ
↓
楠木氏は河内の安達氏の旧領を本拠にしていただっペ
↓
霜月騒動で北条氏から楠木氏に与えられただっペ
↓
楠木氏は得宗家の被官に違いないだっペ
単純、雑だわな
三河県豊橋市に東観音寺と言う行基が創建したと言われる寺(信頼性が高い行基寺)がある
この寺は安達氏旧領である小松原荘にあって、行基が熊野神社のお告げを聞いて創建したという逸話を伝えている
ここで重要なのは安達氏と熊野に接点があったという事実だ
つまり、安達氏の河内の旧領は安達氏だけでなく北条氏とも縁が深かった熊野関係者に与えられたが妥当な考え
楠木氏は熊野国造家出自だ
得宗家とは関係無い
残念だったな もっと言うなれば、東観音寺縁故どころか、安達氏の出身地である東三河はニギハヤヒの出身地の可能性が高い
熊野はニギハヤヒだからな
ズブズブの関係よ
安達盛長の本貫地は現在の三河県豊橋市石巻小野田付近と考えられるが、近くの石巻山は三輪山の奥院であると大神神社の社伝に書いてある
昔は石巻山を神山(ミワヤマ)と呼んでいて、そこから三輪山になったらしい
すると、大神神社と伊勢神宮(伊勢と三輪の神。一体分身の御事。)の主祭神、大物主(ニギハヤヒ?)は三河出身なんだろうか
安達盛長は三河国の御厨の元締めでもあった
グーグルマップで見るとよく分かるが、大神神社の鳥居と拝殿は三輪山の正面に向いていない、三輪山の南側にズレている
実は三輪山の奥院、三河の石巻山(神山)に向いているわけだな 三河屋と楠木厨はどちらも新スレには来なくていいからねw 三河の足助重範の生母は楠木正成の叔母と伝えるが、この三河の足助一族には三河の安達盛長の娘を初めとして、三河の安達氏から3人ばかり嫁が入っている
つまり、三河の名族足助氏に嫁が入る楠木氏は普通の家とは言えず、三河の足助氏を通じて三河の安達氏とも繋がりがあった
三河の足利尊氏やその息子の楠木氏に対する丁重な扱いは、本来、楠木氏は三河サイドの人間ではないかと言う思いがあったんだろうな
いい加減、関東や関西の話は切り捨てよ
日本の中世は、三河史を知らないと全く見えてこない 豆知識に、足利氏、足助氏、安達氏、楠木氏と徳川家康との繋がりを紹介しておこう
■今川記(1553年成立)
松平信光(第3代目当主)
正室:一色氏の娘
一色満範の娘の仮定する
源義家→義国→義康→足利義兼(初代源姓足利氏)→義氏→泰氏→一色公深(初代一色氏)→範氏(母親は今川国氏(初代今川氏)の娘)→範光→詮範→満範→娘→松平親忠→長親→信忠→清康→広忠→徳川家康
■熊野国造家 和田家系図
松平親忠(第4代目当主)
正室:鈴木重勝の娘
・加茂(足助)重長→足助重秀(母親は源為朝の娘)→重朝(母親は安達盛長の娘)→重方→親方→貞親→重範(母親は楠木正成の叔母)→鈴木重員(母親は楠木正成の娘)→重勝→娘→松平長親→信忠→清康→広忠→徳川家康 今日は、直義が贈り物を全て断わったことで有名な八朔の日やな 観応2年(1351年)8月1日は、尊氏・義詮に挟み撃ちにされることを恐れた直義が
京都を落ちて北陸へ向かった日だなw 古代尾張熱田と伝承でつながる上志段味や大高一帯にて
尾張名古屋城はやはり新規一編やはり素晴らしい >>998
素晴らしいは結構だが
本当に素晴らしいのなら、大神神社の拝殿は真清田神社に向いてなければならない
だが現実は、三河国の石巻山(神山)に向いているのだよ
残念だったな
安達盛長の本貫地は現在の三河県豊橋市石巻小野田付近と考えられるが、近くの石巻山は三輪山の奥の院であると大神神社の社伝に書いてある
昔は石巻山を神山(ミワヤマ)と呼んでいて、そこから三輪山になったらしい
すると、大神神社と伊勢神宮(伊勢と三輪の神。一体分身の御事。)の主祭神、大物主(ニギハヤヒ?)は三河出身なんだろうか
安達盛長は三河国の御厨の元締めでもあった
グーグルマップで見るとよく分かるが、大神神社の鳥居と拝殿は三輪山の正面に向いていない、三輪山の南側にズレている
実は三輪山の奥院、三河の石巻山(神山)に向いているわけだな このスレッドは1000を超えました。
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