【第三十三回】太平記 part.33『千寿王と不知哉丸』
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第三十三回「千寿王と不知哉丸」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/taiheiki/taiheiki33.html
前スレ
【第三十二回】太平記 part.32『藤夜叉死す』
http://itest.5ch.net/nhk2/test/read.cgi/nhkdrama/1507357471 一般的なお年寄りは道誉なんて誰も知らんだろw
それに陣内以外の道誉は嫌だなあ >>690
派手さとかスリリングな感じは
独眼竜政宗の上位互換的に描けそうだけど >>693
独眼竜よりも破天荒かつスケールがでかいわな 道誉と政宗は、派手好き以外にも、そこそこの名門の生まれという点とか、共通性は確かにある。
ただ政宗みたいに、下手な小細工を何度もやって天下人の不興を買うようなことは、道誉はしない。 >>691
最近の年寄りは桜井の別れも知ってるか怪しい 坊門清忠の藤木孝さんのことが気になって経歴を見てみたら、
もともとアイドル歌手で、俳優に転じ、主に舞台俳優をやりながら映画で脇役をやっていた人なんだな
作品一覧を眺めていたら昔、浅草名画座で見た「明治 大正 昭和 猟奇女犯罪史」が出てきた
日本閣事件(映画では東洋閣)での戦後初の女性死刑囚になった毒婦の相手役
あのヤサ男が坊門さんになっていたとは、と感慨深くなった
http://youtu.be/YQPbYj3IRB0?t=2m33s
(グロ注意) 最近、陣内見かけないね
どうしてるのか?
自分としては道誉だけでなく、「毛利元就」の陶晴賢役も印象深いが バラエティーで見るよ。俳優では使いにくいのかもね。 池松荘亮って、両親が陣内の高校の同級生だか、同じ町の幼なじみなんだろ。
いまだに本人が挨拶に来ないってボヤいてたけど。 今さら松永久秀とかやっても意外性ないか。
やっぱりって言われそう。 内野聖陽は、「太平記」の登場人物なら親房卿あたりがよさげ。 ロクでもないのばかりw
雰囲気的に陣内とかぶらないから道誉とかどうよ 大河の方には出番無かったけど山名時氏とか斯波高経はいかが >>720
斯波高経は、義貞を討ち取る場面だけでも、登場させてあげれば良かったのにねw 義貞って少人数で偵察みたいなことやってて斯波軍と遭遇戦になったんだろ。斯波高経も討ち取った後にまさか義貞とは思わなかったってw馬鹿だろこいつ。なんでこんなのを戦前はありがたがってたのかw 織田信長も、まさか自分が討ち取ったのが今川義元とは思わなかったらしいね。 それはないだろ。じゃあ信長は誰かもわからないところに特攻したのか? >>722
ある程度の大物になると、ちょい役のショボい役者ってわけにいかなくなるから
でも結城親光はうまくごまかしたな >>726
義元本隊と戦っているという認識が最初どこまであったかは疑問かな。
無論、討ち取った段階では分かっていただろうが。 わからんでしょう
偽師直:詳細に検分するまで信じてた
偽桃井:詳細に検分するまで信じてた
例外は名越高家くらい スレ違いですまんが、桶狭間において、信長は義元本陣であることを確信して戦闘開始したはず。
何故なら、当時の信長が率いていた兵は、彼が動員できる最後の兵卒だから、曖昧な相手には絶対に投入できない。 毛利新助の首獲り名乗りで義元ここにいたのー?ってなったのかw スパイの報告である程度の場所はわかってたんじゃねーの あれは逸話だろ?頭蓋骨なんてヒビ入ってるからダダ漏れになるじゃん >>742
頭蓋骨の登頂部の一枚板をお皿にするんだぞ 三種の神器争奪戦
源平合戦 南北朝
やっぱ源氏クソだわ >>747
河童方式ですね!
どっちみち野蛮ですよねえー >>749
源平は源氏だけが当事者じゃないし、南北朝の内乱の最大の責任者は後醍醐帝だろう・・・。 一門の結束を重視して部外者を排除した平氏と
御家人・大名の結束を重視して邪魔な一族を滅ぼした源氏
どちらがよいかは一概には言えないわな 「平清盛」のナレは頼朝だったけど、ナレの中で「平家は概して兄弟仲が良かったと言われている」ってのがあって自虐にも程があるだと思った記憶が 北条も兄弟はなぜか仲いいことが多いな
やっぱ平氏なんだな >>755
宮騒動、二月騒動、霜月騒動、嘉元の乱、嘉暦の政変なんかでは、かなり一族内でゴタゴタやっているような・・・。 清盛直系の平家が仲良いだけで坂東平氏は河内源氏と何ら変わらんぞ >>729
名和長年、下へかしこめ!宮二品の親王ぞ!征夷大将軍なるぞ!!
確かこんな感じだったかな
この当時は脚本も俳優の台詞回しも上手かったなあ >>758
名和長年、子細確かめい・・・
だったと思うよ。 >>756
それでも最後は一門内では目立った裏切りもなく仲良く滅亡だからなあ >>748
頼朝−義経範頼は異母兄弟だから尊氏直義とはぜんぜん違うわな
当時の異母兄弟は一緒に暮らしたことなんかないんだから他人同然じゃん 頼朝兄弟の誕生時は戦乱で生まれも育ちも違うだろ
尊氏と直義は鎌倉で兄貴の高義と一緒に遊んでいたと思うぞ >>762
高時「鎌倉あっての北条、鎌倉あっての高時ぞ」 >>759
そうだったのか・・・
堤大二郎が早口の場面なので聞き取りにくいが、
てっきり「名和長年、(麻呂の)下へかしこまれ!」
要するに図が高い、ひかえよ!と激高しているのかと思ってた >>763
>>764
チミとチミ、浅すぎる、知識が浅すぎる
範頼と義経は頼朝の母方と近すぎるからこそ危険視されたんだよ
それを良く知っていた頼朝の母方と近い足利義兼は、次は間違いなく俺だと確信し、出家して気が狂ったフリをした
範頼
・幼少期は由良御前が庇護、浜松にいた叔父(三河の藤姓熱田大宮司家)の息子夫婦に養育させる
義経
・藤原範忠(三河の藤姓熱田大宮司家、足利義兼祖父)立会の元、熱田神宮で元服
・兼高長者(三河の藤姓熱田大宮司家か?)の娘との物語(浄瑠璃姫)
・義経が持っていた源氏の守り本尊(現増上寺黒本尊)は、三河の長者(三河の藤姓熱田大宮司)に預けられた
三河県岡崎市にあった足利義氏の邸宅(足利義氏亭)は明大寺にあったんだが、地名の由来は義経が建てた妙大寺に由来する
生まれも育ちが違うどころか丸被りだったわけだな
教科書とか読んでいるから、そんな間抜けなレスをして恥をかくハメになる >>281
ボキが思うに彼のレベルなら、足利決起の際、最初は細川は出陣を拒み、尊氏が細川郷に馬を走らせ説得した地元の伝承を紹介しつつ、ディープな話で楽しませると思うな
何故拒んだのか、ここを熟考するわけだな THREE CHEERS FOR MI-KA-WA-YA ! 深過ぎる解説をありがトン
我が目から鱗が落ちたわけだな
叔父の息子ってボキならいとこというと思うな
叔父でもいとこでもいいけどあえて名前を明示するのを何故拒んだのか熟考するわけだな
範頼は遠江浜松で育った、義経は尾張で元服し三河で恋愛した
こういうすれ違い程度を丸被りと言って楽しませてくれるわけだな
なんで生まれが丸被りになるのか書かれてないけど
根拠がないことを盲信できないようでは三河屋にはなれないんだな
義経記とか怪しげな地元伝承とか読んでいるから、そんな間抜けなレスをして恥をかくハメになる なるほど、頼朝は自身に近い源氏ではなく、由良御前と生母が違う可能性がある範忠繋がり(源義経、足利義兼)を危険視していたわけだな
特に義経は、三河の熱田大宮司家本拠である岡崎市に縁故を残している
とか簡単にぐぐっとくる返しレスくらい出来んもんかな
長々と頭が悪そうなレスを返しやがって >>760
情勢の変化が急すぎて、脱落者が出る時間的余裕がなかった。
平家滅亡の際は、それなりに脱落者が発生している。 北条滅亡の時は外様はほぼ例外なく裏切ってるのも凄い
逆に言えば寸前まで離反者がほぼいなかったとも言えそれはそれで凄いが 担げる神輿があればなんでも良かったんじゃない?外様が反旗を翻したって後に続く武家もいないだろうし >>775
早くからの離反者がいないのは、直前まで比較的大きな権力を持っていたから。 北条氏って、中先代の乱を除けば、その後に生き残りが反体制勢力に担がれることも、
ほとんどないからなw
最も南北朝分裂後は、北朝&室町幕府に反抗する奴等も、北条氏の生き残りを担ぐより、
遥かに権威のある南朝を担いだほうが、メリットは大きいだろうけどさ。 北条は下国伊豆の土豪、最高でも正四位下で担ぐには家格が低い。
しかも得宗は押し並べて早死にで、なっても従四位どまり。 やっぱり得宗家は、将軍にはなれなくても公卿にはなっておくべきだったな。 直義が越前に脱出してからも、尊氏は直義に帰還を要請している
もともとあの脱出劇が本当に尊氏の策略だったのかも疑問 下級公家でもいいから特捜の娘をやっておくべきだったな。そこから繋いでいけば生き残ったかもしれない。そう、一条能保の子孫のように >>786
わーたーしーだけのじゅーじかー(特捜最前線のテーマ) >>784
赤松は本当に南朝に降ってるからな
道誉は知らんけど >>788
赤松則祐って道誉の娘婿なわけで、道誉と則祐は明らかに同じ意図で動いていたと思うぞ。
まあ赤松が表向きとはいえ担いでいるのが、護良の王子という辺り、かつての建務期に
おける護良派の人脈を活用した感じだがw
あと則祐と道誉の娘との婚姻関係は、赤松の家格の上昇にも大きく寄与したみたい。
後に則祐の子の義則が、赤松氏で初めて侍所頭人になって、赤松は三管領四職に列する
わけだけど、これも赤松義則が道誉の外孫であることが大きかったようだし。 >>785
平氏政権とか豊臣政権とか武士が大量に公卿になっているケースもあるのだし、
尊氏だって将軍になるより遥か以前に、後醍醐の建武政権下で公卿になっている。
もし望めば、得宗家の当主くらいは、公卿相当の官位に昇ることは可能だったんでは? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています