【第三十三回】太平記 part.33『千寿王と不知哉丸』
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やっぱり得宗家は、将軍にはなれなくても公卿にはなっておくべきだったな。 直義が越前に脱出してからも、尊氏は直義に帰還を要請している
もともとあの脱出劇が本当に尊氏の策略だったのかも疑問 下級公家でもいいから特捜の娘をやっておくべきだったな。そこから繋いでいけば生き残ったかもしれない。そう、一条能保の子孫のように >>786
わーたーしーだけのじゅーじかー(特捜最前線のテーマ) >>784
赤松は本当に南朝に降ってるからな
道誉は知らんけど >>788
赤松則祐って道誉の娘婿なわけで、道誉と則祐は明らかに同じ意図で動いていたと思うぞ。
まあ赤松が表向きとはいえ担いでいるのが、護良の王子という辺り、かつての建務期に
おける護良派の人脈を活用した感じだがw
あと則祐と道誉の娘との婚姻関係は、赤松の家格の上昇にも大きく寄与したみたい。
後に則祐の子の義則が、赤松氏で初めて侍所頭人になって、赤松は三管領四職に列する
わけだけど、これも赤松義則が道誉の外孫であることが大きかったようだし。 >>785
平氏政権とか豊臣政権とか武士が大量に公卿になっているケースもあるのだし、
尊氏だって将軍になるより遥か以前に、後醍醐の建武政権下で公卿になっている。
もし望めば、得宗家の当主くらいは、公卿相当の官位に昇ることは可能だったんでは? 赤松則祐みたいに父が尊氏方に転じて20年経ってから
南朝に戻るのもいるのだな。
14世紀中盤にもう茶人なんてものがあったのに驚いたけど >>784
裁判、政治の実務を担う直義がいないと、万事上手く回らなかったのかもね。 頼朝公の官位を超えてはダメなのよ。
鎌倉幕府の根幹を揺るがす。
頼朝公の遠戚が将軍に据えられた事実があるのだから。 北条氏が将軍になるしかないんだろうけど、そんなIFどこで実現すればいいんだろうね
平賀朝雅将軍を実現して、姻戚でもなれますよ的な方向に持っていくとか?
でも無理だよね >>792
あの時期は、尊氏も直義も道誉も直冬も、一時の方便として、南朝に下っているから、
赤松だけ殊更に言うことではない。
>>793
あの段階では幕府の政務担当は義詮に交代しているから、仮に直義が帰参したとして、
直義をもう一度政務に関与させる選択肢はなかったと思うけど・・・。
>>794
頼朝の官位を超えるとは? >>796
あれは則祐の挙兵に道誉が同調した形なんだと思う。
弟の氏範ほどじゃないけど、則祐も大して尊氏に思い入れがなかったのでしょ。 >>797
あのときの道誉・則祐の南朝への帰順は、明らかに尊氏・義詮の意を受けてのものでしょ。
ドラマでも、道誉・則祐の南朝帰順は偽りだという感じで描かれていたけど。
まず尊氏・義詮がそれぞれ佐々木・赤松討伐と称して出陣するのが、観応2年7月28日。
そして謀られたと悟った直義が京都を落ちるのが8月1日であり、この段階では、佐々木・赤松討伐は虚偽だという噂が都に充満していた。
その後、義詮は8月3日、尊氏は8月5日に帰京しているが、日数の短さからしても、
尊氏・義詮に本気で佐々木・赤松を討伐する気があったとは思えないし、直義側も
佐々木・赤松が本気で南朝に降るはずないと思ったからこそ、謀られたと認識したわけで。 あと則祐はその後、観応2年いっぱいは南朝方として活動しているが、この年の
10月以降は、尊氏・義詮も(直義を討つために)南朝に下っているから、同年末に
南朝方として活動していても、それは尊氏・義詮に敵対していることにはならない。
そして、翌観応3年(文和元年)になると、道誉・則祐とも義詮の配下で活動している
ことが明らか(この時期、尊氏は鎌倉へ長期出張中)になる。 則祐さんの将軍家への忠誠心がガチなのは幼い義満とのエピソードからでもわかる こういう話はドラマと照らし合わせて面白く読めるから好き
スレと関係ない時代の知識ひけらかす奴は爪の垢でも煎じて飲ませて貰って欲しい >>802
まだ理解していないようだからはっきり言う
スレと関係ない時代の知識ひけらかす三河屋は爪の垢でも煎じて飲ませて貰って欲しい >>800
微笑ましい(爆笑)
ところで赤松さんってノリスケって名前が好きなのね >>812
漢字表記違うけど、兄の名前も範資(ノリスケ)なんだよな。
もっとも則祐のほうは、最初は出家していたから、音読みでソクユウだったらしいが。 赤松さん、太平記だと悪党そのものだけど
播磨の名族なんだっけか
御家人じゃないんだけどね
まあ、御家人って日本全国で500人くらいしかいなかったらしいし 赤松は元々どこの馬の骨か分からない出自だよ。
村上源氏とする系図に信頼性はほとんどないし。 赤松円心を演じた俳優さんって東工大出身なんだよなw とてもそう見えないw
太平記で世間に見出されるまでアルバイトで生計を立てていたとか >>818
なんら変わらないというか、赤松自身が悪党そのものだよ。 >>817
それはないだろ
叡山に息子送り込んで座主の側近になる程度の力はあったんだから 悪党いうても
悪左府頼長とか悪源太義平みたいに
悪の意味は現代とは必ずしも合致しないわけで 悪党そのものってのは現代でいう悪党ってことだろうよ
ちゃんと忖度してやろうぜ 「よいとはどれほどよい?嫁に行けと言えば行ってもよいと思うほどの人物と見たか?」
「はい!」
「よし。足利高氏救うてみよう。このまま北条の敵とするには惜しい男よ…」
これが皮肉にも北条の命運が尽きることになるとは…
。゚(゚´Д`゚)゚。 >>815
波野氏は大内氏の家臣
周防守護職に任じられた大内氏に付き
親政後は北朝側につき足利尊氏を支援 波多野と言えば波多野憲
60年代邦画の名脇役
二枚目だがヒロインの元彼とか既婚なのを隠してヒロインと付き合っている男とか、ダークな悪役専門
京大出身と知ってびっくり 売れないアイドルをめった刺しにしたストーカーの筆下ろしセックスをした波多野結衣 >>826
吉田松蔭の実家の杉氏は、大内重臣の杉氏の末裔? 高杉晋作の家紋は武田菱だね。
安芸武田氏の一族かな? >>831
新垣氏の祖先は沖縄琉球王国の宮使い
だったが庶流が奄美から九州に渡り
南北朝期には渋谷氏に仕える >>766
つべで確認したが確かに早口だなw
名和長年、仔細確かめい。
儂(み)は二品の親王、征夷大将軍なるぞ。
これが正解だと思う。
その後に大塔宮が尊氏と話す場面があるけど、宮が
そちは頼朝の血をひいておる。
と言っててひいてねーよと突っ込んでおいた。 >>842
頼朝と同じ“河内源氏=武家の棟梁の血筋”という程度の意味で言っていると、脳内変換して
見ることはできないの? 八幡太郎義家の血を引いてる
と言っても「?」な視聴者もいるしなぁ 尊氏→腫物
直義→腫物
義持→腫物
腫物のできやすい遺伝なんてあるの?
お尻がかゆくなる >>845-846
そりゃ暴論だ。ライト層は頼朝の直系だと勘違いしてしまう 東スポかなんかのエロ小説で、義朝が妹と不倫の仲になっていたとかいないとかってのを読んだ気がする。
かなり昔。 >>847
初回で高師氏が「八幡太郎義家公より始まる当家を滅ぼすおつもりか?」という場面があるよ。 >>817
それで終わりか、つまらない奴め
前からボキは、なぜ三河に赤松氏所縁の伝承が多いのか不思議に思っていたので、少し調べてみた
赤松を語るのに、殊更特筆されている実父は源顕房ではないかと言われている季房卿がキーマンなんだが、播磨に流されたあと許されて三河守になっているらしい
そして、季房の姉妹が藤原顕隆の室になっていて、顕隆の正室が藤原悦子(父は藤原季綱(三河守))、悦子の従兄弟が初代三河の藤姓熱田大宮司の藤原季範だ
遡れば足利氏と赤松氏は三河で接点があったわけだな 豆知識だが
赤田和城
http://www.geocities.jp/shiro20051212/Akantawa-jo.html
広祥院
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%A5%A5%E9%99%A2
円心が隠れ住んだと言われる赤田和城と高氏所領の広祥院は、直線距離で約1.5キロしか離れていない
赤田和城近くには赤松円心の子孫と主張する赤松さんが現在も住んでいて、子孫の証拠として受け継いできた刀があったそうだが太平洋戦争時に軍に没収されたらしい
また、赤田和城近くの山中に赤松円心の碑があるらしい
たまには面白い話の一つくらいしろ
どいつもこいつも退屈なレスばかりしやがって もう一つ豆知識だが
広祥院
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%A5%A5%E9%99%A2
広祥院の裏には奥平家の墓と家臣団の墓があって、福沢桃介が来たことがあるらしい
つまり福沢諭吉の先祖が眠る墓地なわけだな 足利尊氏さんは後醍醐にすげー恩賞貰ってるのな
正三位 参議
鎮守府将軍
武蔵守、三河守、上総介
関東での恩賞取次
もう満足やん >>861
新政時の鎮守府将軍と他の時期の鎮守府将軍はなんか違うけどな
北畠顕家も鎮守府将軍だし、ちなみに従二位参議
右近衛中将(従四位下クラス)
陸奥守
役職の位階が建武新政は違うね、他の時期と >>861
官位相当は時代によって変わるから、中世だと既に律令時代の官位相当制とはかなり変わっている。
鎮守府将軍の場合は、平安期の段階で官位相当以前に陸奥守との兼任が基本になっていた。
>>862
北畠顕家の場合は、就任時にゴネて「鎮守府大将軍」にしてもらったとかいう話もあるな。 禁門の変で長州藩は天龍寺に陣を置いていたとのこと。
今日の大河で知りました。 >>866
それ以前に、応仁の乱や慶長伏見地震でもやられている。 >>860
あれ、何で「征東大将軍」じゃなくてただの「征東将軍」なんだろう?
かつての木曽義仲でさえ「征東大将軍」だったし、北畠顕家(というか親房)がゴネて
「鎮守府将軍」を「鎮守府大将軍」に変えさせた件とかも踏まえると、尊氏に大将軍号を
与えないのは何だかなぁ。 君は答えがわかってるのにわざと聞いてるね。レス乞食の手法は嫌われるからやめたほうがいいよ。 >>870
真面目な乞食と
性格歪んだ>>870貧乏人の生暖かいレスのやりとり
微笑ましい 赤松円心さん
意外と建武政権で恩賞もらってんのな
まあ護良親王失脚で播磨守護職失ったけど >>874
そもそも護良失脚前に、赤松は播磨の守護職なんて持っていたっけ? 口約束に近い格好で与えられてる
実態は護良親王の先走りだけど >>877
後醍醐帝に直接、というのは大きいね
赤松は六波羅陥落への貢献大きいのに
息子の則祐が法親王時代からの護良側近で、その護良自身が・・・・・・ >>877
結局生き残ったのは赤松で滅びたのは名和 有馬記念に名前を残す競馬の父・有馬頼寧伯爵は赤松則村の五男が始祖で有馬流赤松氏 名和って元々は魚売りとかだったっけ。
散所の親分・楠木といい、ほんと後醍醐はそこら辺のうさんくさい馬の骨ばっか集めてた異形の王だな。 >>882
後醍醐自体がうさんくさいオッサンだし。 >>884
得宗家御内人内管領をも輩出した長崎氏に関係が深い御家人だぞ >>886
じゃあ何で棒読みボクサーは淀の津で北条の手下どもと争ってたの? >>887
御家人同士の小競合いなんぞよくあること
挙兵だって後醍醐さんにコロッといかれてもおかしくない
承久の乱の時の大内みたいに >>884
当時の御家人はみんな得宗被官になっちゃってるからそれだけじゃ差別化にならんのよね >当時の御家人はみんな得宗被官になっちゃってるから
嘘はいかんぞ、嘘は >>880
いやそこいらじゅう得宗被官だらけ状態だぞ鎌倉幕府末期は >>880
名和氏は滅んではいないよ。
戦国期まで、肥後国八代郡に勢力をもっているし、その子孫は近代にも名和男爵家として続いている。
まあ赤松氏の子孫も、近代には赤松男爵家となっているが。
>>881
赤松庶流の有馬氏の子孫は、近世には久留米藩主になった家系(有馬伯爵家)と、
下野吹上藩主になった家系(有馬子爵家、徳川吉宗の側近有馬氏倫の子孫)があるね。
あと十年ほど前に国民新党の幹事長だった亀井久興が、有馬頼寧の外孫だね。
ちなみに亀井久興の家自体は、佐々木塩冶氏の庶流で近世に津和野藩主として存続した
亀井伯爵家の流れ。
ついでにいうと、有馬頼寧は岩倉具視の外孫でもある。 >>895
そうだね。
摂津国有馬郡を領していたから、それが苗字になった >>892
得宗被官化した御家人はそれなりにいるけど、全部が全部というわけじゃないし、足利氏を
始め有力御家人クラスが得宗被官になる例はあまりないと思うが。
あと一口に得宗被官といっても、元々幕府の御家人としての身分を持っていた者と
そうではない者を一緒くたには語れないでしょ。
いずれにしても楠木氏は御家人ではないw 得宗被官人の楠木が得宗に反抗したのは楠木が持つ利権が得宗に犯されそうになったから。死活問題だから死に物狂いに抵抗する まあ楠木みたいな新興武士は、得宗被官になるにしても、それはあくまで便宜上だから、
本気で得宗家に対して忠誠心なんて持っていないだろうし、利害がぶつかれば、そりゃ
平気で離反するだろうよ・・・。 >>900
新興と言っても頼朝の上洛の随行に楠木四郎ってのがいるからな >>901
その楠木と、正成の楠木氏が同じ一族という保証は全くないし、建武政権下での楠木の
立ち位置なんかからしても、当人も世間も楠木氏が鎌倉御家人系の武士とは、全く認識して
いなかったと思うけど。 >>903
南朝研究の最前線ってのによると
頼朝の上洛した楠木四郎
↓
駿河入江庄楠木
↓
河内楠木入道(一人目)、湯浅庄を得宗の命で制圧
↓
河内楠木入道(二人目)、東大寺に乱入
って感じで系譜が得宗被官の御家人として繋がるんだそうな それさ、興味深い説かも知れないが、あくまでそういうことを主張している奴がいるって
レベルで、中世史学会の常識&共通理解のようなものでは、全くないよな?
なんかウィキペディアとかにも、その説の受け売りを妄信的に書いて、あちこちに
「要出典」を貼り付けられている記事があったけどさ >>906
網野善彦、熊谷隆之、生駒孝臣、新井考重
普通に名が通りまくってるのの統一している見解だけど? 楠木四郎ってのは吾妻鏡にも載ってるしそれなりの御家人だったんだろう 網野みたいなホラ吹きジジイの説をまともにとってどうする。
そもそもこの大河は永原慶二大先生の監修だぞ。 >>909
網野だけしか知らないんだな
他の連中は論文を最近発表してる研究者だよ 何か面倒臭い奴が来ているなw
学界の重鎮だろうと若手研究者だろうと、彼らは彼らで仮説としてそれを提示している
わけで、それを無批判に受け入れて、その受け売りをここで得意気にされてもなぁ。
しかも、自分の信奉している説が絶対正しい、楠木が御家人じゃないという奴はバカ、
みたいな態度でしつこくて、ホント面倒臭い・・・。
少なくとも大河板でするべき話題じゃないよな?
まあ日本史板でやってもウザがられるだろうけどw 自分で「そんな妄想云々」言ってて根拠を示したらこんどは研究者を貶し
他の研究者のことを紹介すると
今度は「面倒くさい、大河板でやるな、そんなの研究者の妄想だ」か 結局尊氏って、仮に後醍醐帝が征夷大将軍を与えていれば、大人しく後醍醐帝に従っていたのかな? あり得ないことをタラレバ言っても仕方ないけど
将軍になって幕府を開ければ文句の言い様が無いだろ
将軍でも満足しないとなったら、後はさんだ…
おや?誰か来たようだ >>919
足利その他の源氏の皆さん「寝言は寝て言え」 >>919
北条さんの名前と格だと御家人の皆様が納得せんから
総理大臣が天皇になるって言うようなもん
だから親王将軍と摂家将軍が続いた 院政と鎌倉幕府は似てるよな。幼児をたてて成人したら追放(上皇)させる。 家時の切腹の理由
高義の記録の少なさ
直義の死因
謎だらけ >>923
院庁はもともと上皇の家政機関
幕府はもともと将軍の家政機関
本来ただの家政機関だったものに政治組織としての機能を持たせて、朝廷とは別に
事実上の政権をつくってしまう発想からして似ているからなw この時代のフィクサーて夢窓疎石だよな。ドラマに出てたっけ?尊氏直義はもちろん高時や後醍醐とも関わりが深い。僧なのに権勢欲はあるし。尊氏の洗脳には成功したけど直義は失敗した なんか夢想疎石はフィクサーって感じはしないなぁ
三宝院賢俊の方が政治的に思える
賢俊もフィクサーじゃあないけど もしかしたら後醍醐や夢窓疎石すら操っていた超大物フィクサーがいたのかもな >>925
足利家は義家公から代々謎だらが凄いんだよ 太平記の登場人物で「フィクサー」という言葉に一番当てはまるのは
義詮親政期の導誉さんだと思うんだけど、どうよ? フィクサーてのは源平時代の八条院みたいなのであって。賢俊や文観や道誉はフィクサーに当たらない。ザコすぎて >>941
ザコには同意いたしかねますな
表に出てるからフィクサーとはいえない
ならわかりますが >>905
最前線ってw
静岡市に楠木氏縁故が殆ど無いのをどう説明するんだ?
キーになるのは、足助重範の生母が正成の叔母さんの点だ
足助氏は御家人で唯一、昇殿を認められた名族、その足助氏に楠木氏(和田氏)から嫁が入ったつーことは、楠木氏(和田氏)は熊野国造家の出で間違いない
ボキが思うに、1331年の後醍醐天皇の討幕計画が失敗し三河に逃げてきた和田正成は、潜伏先の神社にあったクスノキをみて出直す意味で楠木に改名した単純な話だと思うね
何で豊田市と言うかと言うと、豊田には熊野国造家の三河鈴木氏がうじゃうじゃいたからな
光恩寺(三河県豊田市)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%81%A9%E5%AF%BA_(%E8%B1%8A%E7%94%B0%E5%B8%82)
若宮神社のクスノキ(三河県豊田市若宮町2丁目)
http://www.hitozato-kyoboku.com/toyota-wakamiyajinja-kusu.html フィクサーは
大天狗の崇徳上皇
古典太平記にもドラマにも毎回出てくるじゃん 何時も思うんだが、意図的に三河を省くのは策略でもあるのか?
夢窓 疎石
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A2%E7%AA%93%E7%96%8E%E7%9F%B3
>応長元年(1311年)には、甲斐牧丘の龍山庵(浄居寺)に一時隠棲する。西遊して美濃国に虎渓山永保寺を開き
1312年に夢窓疎石は三河国出身の仏徳禅師(元翁本元)といっしょに三河県新城市にいて大徳寺を開創し、1年後にいっしょに美濃に移り住み虎渓山永保寺を開創した 禅宗の勢いすげーな、この時代
天龍寺やら南禅寺やら大徳寺やら
果ては相国寺に北山第鹿苑寺やら
なんなのかな、臨済宗のこの時代の勢い 南都北嶺の既存宗教を抑えるために後醍醐や尊氏が利用したんだよ 鎌倉仏教とはいうがまさに革命よな
この時代の宗教は 信者の数という点では室町以降現在まで、浄土真宗と日蓮宗が日本の仏教における
二大勢力だけどね。 もう950越えたか、今回は早かったな
俺はもうスレたてはしないぞ。おまえらがしょうもないことで喧嘩するからな 赤松円心供養塔(善住寺(豊川市))
この供養塔についての所縁は不明だが、三河に楠木氏縁故と同じく赤松縁故は多い
その楠木氏、赤松氏の先祖と三河の面白い縁故を発見した
季房(三河守)→季則→頼則→則景→家範→久範→茂則→則村
良国(三河守)→良村→良正→良成→成氏→正俊→正玄→正成
藤原季範が三河の親分だった時代に三河守になっている
非常に興味深い >>941
八条院ねぇ。
そこで足利庄は八条院領とか言えばいい? 一話から見始めたけど引き込まれるね
貞久が無口で思慮深い領主がいい味出してる おまいら、渾身のギャグをかました>>938をスルーするとか鬼畜かよw >>966
失礼ですが、尊氏の父は貞久ではなく、貞氏では? >>959
駄目だな、答えとしては20点だ
八条院領と言われれば、日本列島の中心、関東関西間の中心であり、最大の八条院領(讃岐国と同等の広さ)であった三河国高橋荘・高橋新荘が出んとな
立券者は三河の藤姓熱田大宮司家の祖である藤原季兼(三河四郎大夫)、足利義兼の高祖父である
義兼は以仁王の令旨を三河で見せられたわけだ
■三河国高橋荘・高橋新荘
豊田市ほぼ全域とみよし市は源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した
・開発者は源頼朝の曽祖父、藤原季兼か?
・寄進者は藤原季兼の妹の子供、高橋惟康(藤原伊周の孫)か?
・平安末期〜戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる >>967
普通に書き間違いだと思うよ内容からして 貞氏に救われた可愛い童が成長したら、大地康雄になってお茶吹いた 子役が上手な演技をしていた不知哉丸が成長したら、超絶棒演技の筒井道隆になってお茶吹いた >>945
大天狗は後白河法皇だろ
崇徳院の生前はかなり穏健だったと文献で あまりしたこと無いし、できるかどうかわからんけど
数字34にして尊氏追悼、もとい尊氏追討にしたらええの? >>980
大天狗って、頼朝が勝手に言っていただけじゃなかったけ? 駿河に長崎と楠木の地名があるだっペ
↓
楠木氏は河内の安達氏の旧領を本拠にしていただっペ
↓
霜月騒動で北条氏から楠木氏に与えられただっペ
↓
楠木氏は得宗家の被官に違いないだっペ
単純、雑だわな
三河県豊橋市に東観音寺と言う行基が創建したと言われる寺(信頼性が高い行基寺)がある
この寺は安達氏旧領である小松原荘にあって、行基が熊野神社のお告げを聞いて創建したという逸話を伝えている
ここで重要なのは安達氏と熊野に接点があったという事実だ
つまり、安達氏の河内の旧領は安達氏だけでなく北条氏とも縁が深かった熊野関係者に与えられたが妥当な考え
楠木氏は熊野国造家出自だ
得宗家とは関係無い
残念だったな もっと言うなれば、東観音寺縁故どころか、安達氏の出身地である東三河はニギハヤヒの出身地の可能性が高い
熊野はニギハヤヒだからな
ズブズブの関係よ
安達盛長の本貫地は現在の三河県豊橋市石巻小野田付近と考えられるが、近くの石巻山は三輪山の奥院であると大神神社の社伝に書いてある
昔は石巻山を神山(ミワヤマ)と呼んでいて、そこから三輪山になったらしい
すると、大神神社と伊勢神宮(伊勢と三輪の神。一体分身の御事。)の主祭神、大物主(ニギハヤヒ?)は三河出身なんだろうか
安達盛長は三河国の御厨の元締めでもあった
グーグルマップで見るとよく分かるが、大神神社の鳥居と拝殿は三輪山の正面に向いていない、三輪山の南側にズレている
実は三輪山の奥院、三河の石巻山(神山)に向いているわけだな 三河屋と楠木厨はどちらも新スレには来なくていいからねw 三河の足助重範の生母は楠木正成の叔母と伝えるが、この三河の足助一族には三河の安達盛長の娘を初めとして、三河の安達氏から3人ばかり嫁が入っている
つまり、三河の名族足助氏に嫁が入る楠木氏は普通の家とは言えず、三河の足助氏を通じて三河の安達氏とも繋がりがあった
三河の足利尊氏やその息子の楠木氏に対する丁重な扱いは、本来、楠木氏は三河サイドの人間ではないかと言う思いがあったんだろうな
いい加減、関東や関西の話は切り捨てよ
日本の中世は、三河史を知らないと全く見えてこない 豆知識に、足利氏、足助氏、安達氏、楠木氏と徳川家康との繋がりを紹介しておこう
■今川記(1553年成立)
松平信光(第3代目当主)
正室:一色氏の娘
一色満範の娘の仮定する
源義家→義国→義康→足利義兼(初代源姓足利氏)→義氏→泰氏→一色公深(初代一色氏)→範氏(母親は今川国氏(初代今川氏)の娘)→範光→詮範→満範→娘→松平親忠→長親→信忠→清康→広忠→徳川家康
■熊野国造家 和田家系図
松平親忠(第4代目当主)
正室:鈴木重勝の娘
・加茂(足助)重長→足助重秀(母親は源為朝の娘)→重朝(母親は安達盛長の娘)→重方→親方→貞親→重範(母親は楠木正成の叔母)→鈴木重員(母親は楠木正成の娘)→重勝→娘→松平長親→信忠→清康→広忠→徳川家康 今日は、直義が贈り物を全て断わったことで有名な八朔の日やな 観応2年(1351年)8月1日は、尊氏・義詮に挟み撃ちにされることを恐れた直義が
京都を落ちて北陸へ向かった日だなw 古代尾張熱田と伝承でつながる上志段味や大高一帯にて
尾張名古屋城はやはり新規一編やはり素晴らしい >>998
素晴らしいは結構だが
本当に素晴らしいのなら、大神神社の拝殿は真清田神社に向いてなければならない
だが現実は、三河国の石巻山(神山)に向いているのだよ
残念だったな
安達盛長の本貫地は現在の三河県豊橋市石巻小野田付近と考えられるが、近くの石巻山は三輪山の奥の院であると大神神社の社伝に書いてある
昔は石巻山を神山(ミワヤマ)と呼んでいて、そこから三輪山になったらしい
すると、大神神社と伊勢神宮(伊勢と三輪の神。一体分身の御事。)の主祭神、大物主(ニギハヤヒ?)は三河出身なんだろうか
安達盛長は三河国の御厨の元締めでもあった
グーグルマップで見るとよく分かるが、大神神社の鳥居と拝殿は三輪山の正面に向いていない、三輪山の南側にズレている
実は三輪山の奥院、三河の石巻山(神山)に向いているわけだな このスレッドは1000を超えました。
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