【第三十三回】太平記 part.33『千寿王と不知哉丸』
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第三十三回「千寿王と不知哉丸」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/taiheiki/taiheiki33.html
前スレ
【第三十二回】太平記 part.32『藤夜叉死す』
http://itest.5ch.net/nhk2/test/read.cgi/nhkdrama/1507357471 >>847
初回で高師氏が「八幡太郎義家公より始まる当家を滅ぼすおつもりか?」という場面があるよ。 >>817
それで終わりか、つまらない奴め
前からボキは、なぜ三河に赤松氏所縁の伝承が多いのか不思議に思っていたので、少し調べてみた
赤松を語るのに、殊更特筆されている実父は源顕房ではないかと言われている季房卿がキーマンなんだが、播磨に流されたあと許されて三河守になっているらしい
そして、季房の姉妹が藤原顕隆の室になっていて、顕隆の正室が藤原悦子(父は藤原季綱(三河守))、悦子の従兄弟が初代三河の藤姓熱田大宮司の藤原季範だ
遡れば足利氏と赤松氏は三河で接点があったわけだな 豆知識だが
赤田和城
http://www.geocities.jp/shiro20051212/Akantawa-jo.html
広祥院
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%A5%A5%E9%99%A2
円心が隠れ住んだと言われる赤田和城と高氏所領の広祥院は、直線距離で約1.5キロしか離れていない
赤田和城近くには赤松円心の子孫と主張する赤松さんが現在も住んでいて、子孫の証拠として受け継いできた刀があったそうだが太平洋戦争時に軍に没収されたらしい
また、赤田和城近くの山中に赤松円心の碑があるらしい
たまには面白い話の一つくらいしろ
どいつもこいつも退屈なレスばかりしやがって もう一つ豆知識だが
広祥院
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%A5%A5%E9%99%A2
広祥院の裏には奥平家の墓と家臣団の墓があって、福沢桃介が来たことがあるらしい
つまり福沢諭吉の先祖が眠る墓地なわけだな 足利尊氏さんは後醍醐にすげー恩賞貰ってるのな
正三位 参議
鎮守府将軍
武蔵守、三河守、上総介
関東での恩賞取次
もう満足やん >>861
新政時の鎮守府将軍と他の時期の鎮守府将軍はなんか違うけどな
北畠顕家も鎮守府将軍だし、ちなみに従二位参議
右近衛中将(従四位下クラス)
陸奥守
役職の位階が建武新政は違うね、他の時期と >>861
官位相当は時代によって変わるから、中世だと既に律令時代の官位相当制とはかなり変わっている。
鎮守府将軍の場合は、平安期の段階で官位相当以前に陸奥守との兼任が基本になっていた。
>>862
北畠顕家の場合は、就任時にゴネて「鎮守府大将軍」にしてもらったとかいう話もあるな。 禁門の変で長州藩は天龍寺に陣を置いていたとのこと。
今日の大河で知りました。 >>866
それ以前に、応仁の乱や慶長伏見地震でもやられている。 >>860
あれ、何で「征東大将軍」じゃなくてただの「征東将軍」なんだろう?
かつての木曽義仲でさえ「征東大将軍」だったし、北畠顕家(というか親房)がゴネて
「鎮守府将軍」を「鎮守府大将軍」に変えさせた件とかも踏まえると、尊氏に大将軍号を
与えないのは何だかなぁ。 君は答えがわかってるのにわざと聞いてるね。レス乞食の手法は嫌われるからやめたほうがいいよ。 >>870
真面目な乞食と
性格歪んだ>>870貧乏人の生暖かいレスのやりとり
微笑ましい 赤松円心さん
意外と建武政権で恩賞もらってんのな
まあ護良親王失脚で播磨守護職失ったけど >>874
そもそも護良失脚前に、赤松は播磨の守護職なんて持っていたっけ? 口約束に近い格好で与えられてる
実態は護良親王の先走りだけど >>877
後醍醐帝に直接、というのは大きいね
赤松は六波羅陥落への貢献大きいのに
息子の則祐が法親王時代からの護良側近で、その護良自身が・・・・・・ >>877
結局生き残ったのは赤松で滅びたのは名和 有馬記念に名前を残す競馬の父・有馬頼寧伯爵は赤松則村の五男が始祖で有馬流赤松氏 名和って元々は魚売りとかだったっけ。
散所の親分・楠木といい、ほんと後醍醐はそこら辺のうさんくさい馬の骨ばっか集めてた異形の王だな。 >>882
後醍醐自体がうさんくさいオッサンだし。 >>884
得宗家御内人内管領をも輩出した長崎氏に関係が深い御家人だぞ >>886
じゃあ何で棒読みボクサーは淀の津で北条の手下どもと争ってたの? >>887
御家人同士の小競合いなんぞよくあること
挙兵だって後醍醐さんにコロッといかれてもおかしくない
承久の乱の時の大内みたいに >>884
当時の御家人はみんな得宗被官になっちゃってるからそれだけじゃ差別化にならんのよね >当時の御家人はみんな得宗被官になっちゃってるから
嘘はいかんぞ、嘘は >>880
いやそこいらじゅう得宗被官だらけ状態だぞ鎌倉幕府末期は >>880
名和氏は滅んではいないよ。
戦国期まで、肥後国八代郡に勢力をもっているし、その子孫は近代にも名和男爵家として続いている。
まあ赤松氏の子孫も、近代には赤松男爵家となっているが。
>>881
赤松庶流の有馬氏の子孫は、近世には久留米藩主になった家系(有馬伯爵家)と、
下野吹上藩主になった家系(有馬子爵家、徳川吉宗の側近有馬氏倫の子孫)があるね。
あと十年ほど前に国民新党の幹事長だった亀井久興が、有馬頼寧の外孫だね。
ちなみに亀井久興の家自体は、佐々木塩冶氏の庶流で近世に津和野藩主として存続した
亀井伯爵家の流れ。
ついでにいうと、有馬頼寧は岩倉具視の外孫でもある。 >>895
そうだね。
摂津国有馬郡を領していたから、それが苗字になった >>892
得宗被官化した御家人はそれなりにいるけど、全部が全部というわけじゃないし、足利氏を
始め有力御家人クラスが得宗被官になる例はあまりないと思うが。
あと一口に得宗被官といっても、元々幕府の御家人としての身分を持っていた者と
そうではない者を一緒くたには語れないでしょ。
いずれにしても楠木氏は御家人ではないw 得宗被官人の楠木が得宗に反抗したのは楠木が持つ利権が得宗に犯されそうになったから。死活問題だから死に物狂いに抵抗する まあ楠木みたいな新興武士は、得宗被官になるにしても、それはあくまで便宜上だから、
本気で得宗家に対して忠誠心なんて持っていないだろうし、利害がぶつかれば、そりゃ
平気で離反するだろうよ・・・。 >>900
新興と言っても頼朝の上洛の随行に楠木四郎ってのがいるからな >>901
その楠木と、正成の楠木氏が同じ一族という保証は全くないし、建武政権下での楠木の
立ち位置なんかからしても、当人も世間も楠木氏が鎌倉御家人系の武士とは、全く認識して
いなかったと思うけど。 >>903
南朝研究の最前線ってのによると
頼朝の上洛した楠木四郎
↓
駿河入江庄楠木
↓
河内楠木入道(一人目)、湯浅庄を得宗の命で制圧
↓
河内楠木入道(二人目)、東大寺に乱入
って感じで系譜が得宗被官の御家人として繋がるんだそうな それさ、興味深い説かも知れないが、あくまでそういうことを主張している奴がいるって
レベルで、中世史学会の常識&共通理解のようなものでは、全くないよな?
なんかウィキペディアとかにも、その説の受け売りを妄信的に書いて、あちこちに
「要出典」を貼り付けられている記事があったけどさ >>906
網野善彦、熊谷隆之、生駒孝臣、新井考重
普通に名が通りまくってるのの統一している見解だけど? 楠木四郎ってのは吾妻鏡にも載ってるしそれなりの御家人だったんだろう 網野みたいなホラ吹きジジイの説をまともにとってどうする。
そもそもこの大河は永原慶二大先生の監修だぞ。 >>909
網野だけしか知らないんだな
他の連中は論文を最近発表してる研究者だよ 何か面倒臭い奴が来ているなw
学界の重鎮だろうと若手研究者だろうと、彼らは彼らで仮説としてそれを提示している
わけで、それを無批判に受け入れて、その受け売りをここで得意気にされてもなぁ。
しかも、自分の信奉している説が絶対正しい、楠木が御家人じゃないという奴はバカ、
みたいな態度でしつこくて、ホント面倒臭い・・・。
少なくとも大河板でするべき話題じゃないよな?
まあ日本史板でやってもウザがられるだろうけどw 自分で「そんな妄想云々」言ってて根拠を示したらこんどは研究者を貶し
他の研究者のことを紹介すると
今度は「面倒くさい、大河板でやるな、そんなの研究者の妄想だ」か 結局尊氏って、仮に後醍醐帝が征夷大将軍を与えていれば、大人しく後醍醐帝に従っていたのかな? あり得ないことをタラレバ言っても仕方ないけど
将軍になって幕府を開ければ文句の言い様が無いだろ
将軍でも満足しないとなったら、後はさんだ…
おや?誰か来たようだ >>919
足利その他の源氏の皆さん「寝言は寝て言え」 >>919
北条さんの名前と格だと御家人の皆様が納得せんから
総理大臣が天皇になるって言うようなもん
だから親王将軍と摂家将軍が続いた 院政と鎌倉幕府は似てるよな。幼児をたてて成人したら追放(上皇)させる。 家時の切腹の理由
高義の記録の少なさ
直義の死因
謎だらけ >>923
院庁はもともと上皇の家政機関
幕府はもともと将軍の家政機関
本来ただの家政機関だったものに政治組織としての機能を持たせて、朝廷とは別に
事実上の政権をつくってしまう発想からして似ているからなw この時代のフィクサーて夢窓疎石だよな。ドラマに出てたっけ?尊氏直義はもちろん高時や後醍醐とも関わりが深い。僧なのに権勢欲はあるし。尊氏の洗脳には成功したけど直義は失敗した なんか夢想疎石はフィクサーって感じはしないなぁ
三宝院賢俊の方が政治的に思える
賢俊もフィクサーじゃあないけど もしかしたら後醍醐や夢窓疎石すら操っていた超大物フィクサーがいたのかもな >>925
足利家は義家公から代々謎だらが凄いんだよ 太平記の登場人物で「フィクサー」という言葉に一番当てはまるのは
義詮親政期の導誉さんだと思うんだけど、どうよ? フィクサーてのは源平時代の八条院みたいなのであって。賢俊や文観や道誉はフィクサーに当たらない。ザコすぎて >>941
ザコには同意いたしかねますな
表に出てるからフィクサーとはいえない
ならわかりますが >>905
最前線ってw
静岡市に楠木氏縁故が殆ど無いのをどう説明するんだ?
キーになるのは、足助重範の生母が正成の叔母さんの点だ
足助氏は御家人で唯一、昇殿を認められた名族、その足助氏に楠木氏(和田氏)から嫁が入ったつーことは、楠木氏(和田氏)は熊野国造家の出で間違いない
ボキが思うに、1331年の後醍醐天皇の討幕計画が失敗し三河に逃げてきた和田正成は、潜伏先の神社にあったクスノキをみて出直す意味で楠木に改名した単純な話だと思うね
何で豊田市と言うかと言うと、豊田には熊野国造家の三河鈴木氏がうじゃうじゃいたからな
光恩寺(三河県豊田市)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%81%A9%E5%AF%BA_(%E8%B1%8A%E7%94%B0%E5%B8%82)
若宮神社のクスノキ(三河県豊田市若宮町2丁目)
http://www.hitozato-kyoboku.com/toyota-wakamiyajinja-kusu.html フィクサーは
大天狗の崇徳上皇
古典太平記にもドラマにも毎回出てくるじゃん 何時も思うんだが、意図的に三河を省くのは策略でもあるのか?
夢窓 疎石
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A2%E7%AA%93%E7%96%8E%E7%9F%B3
>応長元年(1311年)には、甲斐牧丘の龍山庵(浄居寺)に一時隠棲する。西遊して美濃国に虎渓山永保寺を開き
1312年に夢窓疎石は三河国出身の仏徳禅師(元翁本元)といっしょに三河県新城市にいて大徳寺を開創し、1年後にいっしょに美濃に移り住み虎渓山永保寺を開創した 禅宗の勢いすげーな、この時代
天龍寺やら南禅寺やら大徳寺やら
果ては相国寺に北山第鹿苑寺やら
なんなのかな、臨済宗のこの時代の勢い 南都北嶺の既存宗教を抑えるために後醍醐や尊氏が利用したんだよ レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。