>>274
井伊直弼が生きている間に、
久光が兄斉彬の意思を継いで率兵上洛しても、
京都周辺で井伊の命令を受けた幕府軍と交戦状態になり、
京都へ入れず鹿児島へ逃げ戻る羽目になっていたかもしれないと思う

もともと斉彬は天皇の密勅を奉じる形で、安政の大獄で弾圧されている
越前、土佐、宇和島、尾張、水戸らの諸藩の力を結集して、井伊に対抗するつもりだった
しかし久光は斉彬とお由羅騒動で対立した弟だと世間では認識されているうえ、
久光自身は越前、土佐、宇和島、尾張、水戸らの諸侯との人脈はない「地ゴロ」なので、
久光が率兵上洛しても、「久光が笛を吹けど誰も踊らず」という孤立状況になりかねない
それでは井伊から将軍家への反乱軍とみなされて撃たれかねない


後年の久光の1862年の率兵上洛がうまくいったのは、
井伊直弼のようなカリスマ指導者が幕府におらず、
しかも1861年の坂下門外の変で老中首座安藤信正らが失脚したばかりで、
幕府首脳部が万全な体制でなかったからだろうと思う