>>615
608ではないけど、誰もl答えてないみたいなのでちょっと抜粋&要約

京の人、立入左京亮入道隆佐は「光秀は美濃国(岐阜県)住人、とき(土岐)の随分衆」と記していて、
当時の宣教師がつくった日葡辞書には「随分の人」の項があり、「際立った人」と訳されている。
明智は美濃の名族土岐氏の上級家臣だったようだ。
フロイスも「光秀の子女は優雅で美しくヨーロッパの王族のようだ」と書いているので、光秀一族は高貴な雰囲気を持っていたということが伺える。

しかし美濃の出自は事実かもしれないが、光秀の前半生は王族などには程遠く
「朝夕の飲食さへ乏しかりし身」(当代記)という有様。
踊り念仏の僧の書「遊行三十一祖京畿御修行記」天正8年(1580)1月24日条には
「明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一族牢人たりしか、越前朝倉義景頼み申され、
長崎称念寺前に十ヶ年居住」とあるので
土岐氏の親類が牢人になって、越前(福井県)の朝倉義景を頼り寺の門前に10年住まわせてもらった。
しかしやがて光秀は朝倉の元から細川に仕えるようになる。
興福寺の多聞院の日記に「細川ノ兵部大夫カ中間ニテアリシ」とある。
中間というのは荷物運びなどの下働きであった。
戦国末期に少年で100歳まで生きた老人の回想「老人雑話」には
「明智初め細川幽斎(藤孝)の臣也」とある。
細川家の家臣にはなったが、家老の米田助右衛門などが「悪しくあたり」いじめたので
光秀はこらえきれず織田に仕えたいと願うようになった。

平戸松浦氏が編んだ「武功雑話」が、この経緯に詳しい。
ここでも「明智はもと細川幽斎の家来也」とある。
細川家家老の松井佐渡から嫌われ、光秀は信長へ奉公に出たいと願っていた。
ある日幽斎から「信長へ使者へ行け」と言われ、絶好の機会と信長に直訴して家臣にしてもらう。
光秀はそのまま細川へは帰らず、使者の返事は「飛脚にて遺」したという。
のちに明智は頭角をあらわし出世。家老の松井に会った時に
「あなたに気に入られなったから出世できた。仇は恩で返したい」と告げると
すかさず松井は「では娘子を与一郎(忠興)の嫁に貰いたい」といい、細川家はガラシャという美女を手に入れた。


どうも抜粋と言うよりほぼ全文になってしまったけどw
これで見ると初期の頃には「元々は高貴な一族」というのと、「今は貧乏な牢人ぐらし」というのは
べつに並び立つ設定でもおかしくないみたい。