田中久重
田中 久重(寛政11年9月18日(1799年10月16日) - 明治14年(1881年)11月7日)
江戸時代後期から明治にかけての発明家。「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれた。
芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者。

幼い頃から才能を発揮し、五穀神社の祭礼では当時流行していたからくり人形の
新しい仕掛けを次々と考案して大評判となり「からくり儀右衛門」と呼ばれるようになる。
20代に入ると九州各地や大阪・京都・江戸でも興行を行い、各地にその名を知られるようになる。
その後京都へ移り、1847年に天文学を学ぶために土御門家に入門。1849年には、
優れた職人に与えられる「近江大掾」の称号を得た。翌1850年には、
天動説を具現化した須弥山儀を完成させた。

その後、再び西下して佐賀に移住した久重は、1853年、蘭学狂いといわれた鍋島直正が治める
肥前国佐賀藩の精煉方に着任し、国産では日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型を製造する。
また、軍事面では反射炉の設計と大砲製造に大きく貢献した。
1861年には佐賀藩の三重津海軍所で、藩の蒸気船「電流丸」の蒸気罐製造の担当となり、
1862年には幕府蒸気船の千代田形蒸気罐の修繕を行う。
1863年には実用的に運用された国産初の蒸気船である「凌風丸」建造の中心的メンバーとなっている。
1864年には佐久留米に帰り藩の軍艦購入や銃砲の鋳造に携わり、同藩の殖産興業等にも貢献した。

1873年に、新政府の首都となった東京に移る。75歳となった1875年に東京に電信機関係の製作所・田中製造所を設立。
1881年11月7日、82歳で死去。久重の死後、田中製造所は養子の田中大吉が引き継いで芝浦に移転し、
株式会社芝浦製作所となる。後に東京電気株式会社と合併、これが現在の東芝の基礎となった。