>>153
1、西郷は「まず政治的解決の努力」を求めたわけではなく、
 失敗するのを見越してそれを名分として出兵しようとした。
  なぜなら日朝間の交渉の障害になっていたのは書契問題。
 つまり断髪、用語と言った交渉の形式の問題なので、
 これが解決されない限り朝鮮側は 絶対に日本との交渉に乗らない。
 たとえ西郷であっても全く同じ。それは日本側にも認識されていた。
  だから板垣は即時出兵を唱え、西郷はあえて朝鮮側に日本のメンツを潰させ、
 世論が沸騰して異論が出ないようにしたうえでの出兵を図った。
 後述する遣韓決定始末に言う「討人も怒らず」という事態を避けるため。
 それだけの違い。

2、そして西郷は明治6年10月提出の「遣韓使節決定始末」で
 「数々無礼を働き候儀有之」と記し、書契問題についての非は朝鮮側にあると認識している。
  要するに書契問題で態度を変える気はなかったということで、破談はこの時点で必然。

3、日本が「夷狄扱いされかかっていた」のは前述の通り日本側の都合による書契問題のためであり、
 朝鮮側が従来ととくに外交態度を変えたわけではない。
  朝鮮側は「今までは徳川将軍家の署名があったけどお前らは何者なの?」と言うのがしょっぱなの行き違い。
 これに対して日本側は明治初年から「皇国」という呼称を公然と使い、断髪という当時の異装を示すなど、
 アメリカ、フランスなどに屈したのではないか(要するに侵略の先兵ではないか)と朝鮮側を警戒させた。
  日本で洋化が進んでいることは文久年間には清、朝鮮でも認知されていたが、対朝鮮で外交的慣習を変えない限り、
 朝鮮側もそこは問題視していなかった。

4、西郷が批判したのは「日本側」ではなく「大久保政権」。
 西郷はこれ以外にも対露、対清関係で大久保政権の失敗を予想、もしくはかなり悪意な見方をしており、
それがことごとく外れた明治9年頃から大久保政権に対する挙兵を模索するようになる。