西郷の強硬姿勢が戦略的で相手を譲歩させる方便だという誤解が結構あるけど
あの強硬姿勢は西郷の性格的特徴というか、本心なんだよね

長州征討のときも戊辰戦争のときも、戦争直後は極度に興奮してる
長州征討の時は国元の島津久光が内戦を危惧する方針だったので熱が冷める形になるが
それでも10月に慶勝総督に献策した時点では一撃講和論に近い(あくまでも一撃は主張する)
11月に吉川経幹と会って三家老切腹を履行させてからようやく穏健論に移行する
(11月16日の開国開城論においては長州藩側に立つ)
当初から戦略的に強硬論を活用したというのは全くの間違い

江戸城開城交渉でも基本的に同じような経過をたどっており、
要するに自分が大きな裁量権もらって現場行って相手が信頼できて初めて許す
という当たり前のことをしてるだけで、「戦略的」というのとは違う

あと庄内問題は、そもそも西郷が数日しか庄内に滞在しなかったこと、
任を引き継いだ黒田清隆が明治2年1月に菅秀実に「西郷の指示」として語ったことが広まったので、
実際、どの程度の指示がなされたかは疑問ではある
(庄内藩兵はほぼ無傷で撤退を完了しており、もともと強硬策は取りようがなかった)