◆幕末,維新をねつ造する歴史教科書◆
それを踏まえて「幕末、明治維新」の時代背景を考察すれば
「今教えらている歴史に齟齬がある」それを考察してみよう
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「維新の三傑」は習ったでしょうが,本当は「維新の十傑」である
@、西郷隆盛(さいごうたかもり) 薩摩藩 1828年〜1877年
A、大久保利通(おおくぼとしみち) 薩摩藩 1830年〜1878年
B、木戸孝允(きどたかよし) 長州藩 1833年〜1877年
C、小松帯刀(こまつたてわき) 薩摩藩 1835年〜1870年
D、大村益次郎(おおむらますじろう) 長州藩 1824年〜1869年
E.前原一誠(まえばらいっせい) 長州藩 1834年〜1876年
F、広沢真臣(ひろさわさねおみ) 長州藩 1834年〜1871年
G、江藤新平(えとうしんぺい) 肥前藩 1834年〜1874年
H、横井小楠(よこいしょうなん) 肥後藩 1809年〜1869年
I、岩倉具視(いわくらともみ) 公家 1825年〜1883年
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この10人の内うち4人が暗殺され,3人が「明治政府に対して反乱」を起こし、最終的に刑死又は自害している

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特に後に「佐賀の乱」を起こす「江藤新平」は明治政府に所在し
日本中に警察組織、裁判所制度を確立した人物である
また清廉潔白,誠実さ,愚直さは「西郷隆盛」に似ており
「西郷隆盛」と不思議と馬が合った
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明治6年の政変で「征韓論」が唱えた西郷を支持し江藤も支持、それが否定されると西郷は明治政府を辞任する際江藤も辞任する 
後に2人共明治政府に対して反乱を起こすが「2人共,士族救済の為の義挙」と言える
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しかし2つの反乱は明治政府に鎮圧されたが首謀者の扱いが段違い
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「江藤新平」に対しては当時「三権分立がない」のをいいことに
「明治政府の圧力があったと言われる」のか裁判所は死刑判決 官位,財産没収の上,斬首に飽き足らず,斬首した首を3日間さらし,
その写真を撮り全国にある彼の組織した警察署に撒いたという 
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それに対し「西郷隆盛」の場合は同じ罪ながら官位は逆に昇進
西郷の弟に留学を命じ、上野に銅像まで建てている
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「維新の十傑」を隠す理由は上記にあると思われる