>>894続き
また、関連して、明治6年の政変の原因を「征韓論争に名を借りた単なる権力闘争」
と見る人たちがいて、これも「翔ぶがごとく」の影響なのか結構流布している。
こっちも半分は間違いというべきか。

明治6年の政変は、確かに太政官制潤飾や、盟約書に違反した新参議登用問題、
あるいは予算紛議、さらには槇村正直問題などの人事・組織の争いとも関連している。
そして留守政府の約定違反が問題になっている以上、外遊組と留守政府の争いという側面もある。

ただし、最大の要因が征韓論争にあったことは疑いない。
大久保利通は参議就任の際子供に遺書まで書いているが、これは単なる人事面の問題ということは考えづらく、
征韓論反対論を唱えて薩摩系をはじめとする軍人たちの矢面に立つ以上、現実に殺される危険があったため。

江藤新平問題については、小野組転籍事件などを抱えた長州系(木戸孝允・伊藤博文)が政府外追放を画策していたのは確かだが、
大久保は政変の最終局面では伊藤ではなく黒田清隆を用いて工作を行っており、メインの問題ではなかった。