>>759
旧幕府軍は組織がダメだったと思う

大阪城から進軍し、京の都は東西南北複数の街道があるにも関わらず
鳥羽・伏見の南側ルートしか進軍しなかった
理由は薩長は逃げると思ったから、バカとしか思えない理由で
現在の国道171の西国街道にも進軍してれば、西からの攻めもでき薩長は劣勢になったであろう

実は東側ルートの進軍も計画していた、伊勢方面から大津への進軍
多分これは関東から遅れてきた兵が、桑名を経由して進軍ではなかろうか?
船による都への物資ルートは淀川経由を旧幕府軍に抑えられ、東の琵琶湖ルートを抑えようと
朝廷は大津を守るよう諸大名に命じたが、大村藩の20人ぐらいしか集まらなかった
伊勢からの進軍隊はそのわずか20人を大軍だと思い、大津へ向かわず大阪城へ進軍した
やる気あるの?
しばらくして岡山藩徳島藩彦根藩ら合流し、それなりの軍にはなった

戦闘始まり総司令官というべき竹中半兵衛の子孫は逃げ出すし
西洋銃は薩長以上に装備してたと言われるが、旧幕府軍は指揮が高いのと低いのが極端で
会津新選組など高いのは装備が低く、高松藩は装備を捨てて逃げてしまったり
関ヶ原の西軍以上のバラバラだったのであろう
薩長は戦闘中弾薬の不足に悩まされ、裏切った淀藩から借りたり、参戦した鳥取藩が最終日は戦闘に加わらず装備だけ貸した

最終日の男山橋本の戦いにおいて、旧幕府軍は陣形において有利な体制を取れたが川向うの天王山に津藩がいた
津藩は鳥羽伏見が始まる前から天王山に陣取っていた
両軍から催促受けるもずっと傍観しており、こんな洞ヶ峠な藩が
朝敵となり連戦連敗の旧幕府軍に味方するはずないのに
勝手に味方と思い込んでの陣形、当然横から砲撃され壊滅

旧幕府軍の組織のダメさを書いてたら、サッカーWCを思い出してしまった
個人能力が高いのに組織がダメで負けたチームや、対照的に日本は個々の力は劣るが組織力で善戦した