西郷が朝鮮問題に関心を持ったのはかなり遅い。
家近良樹は、明治6年3月の副島外務卿の清での成果に刺激されたのと、
久光問題によるストレスが大きなウェイトを占めたとみている。
あるいは面白いのは、西郷が服用していた薬の副作用で
精神的に異常な状態に陥っていたのではないかと推測しているところ。

いずれにせよ明治6年7月29日の板垣退助への手紙から
西郷は使節派遣→暴殺→出兵というシナリオを披露し始めるが、
あまりの西郷の突出ぶりに出兵派の板垣ですら異常なものを感じたらしく、
8月の大使派遣決定後に西郷を訪ねて諌めている。

9月になると西郷は副島、板垣、伊地知正治の三者と談合を始め、
板垣・伊地知を朝鮮遠征軍司令官とし、作戦一切を任せる。実際に伊地知は
この後、朝鮮征伐の調査研究を行っていたことが分かる。

また、9月12日の別府晋介あての手紙では、陸軍中佐の北村重頼が来訪したことを伝え
「土州人も1人は死なせおき候わば跡がよろしかるべくと相考え」、
「この節は第一憤発の種蒔きに御座候」などと述べている。