町田明広@machi82175302

鳥羽口の砲声に連動して、伏見奉行所に集結した新選組を含めた旧幕軍も包囲軍と交戦状態に突入した。
なお、伏見戦闘に山内容堂の「私闘に参加すべからず」の指示を受けていた土佐藩兵は不参加であった。(新政府軍加担は7日)#西郷どん


新政府には薩長両藩の主導に反感を持つ山内容堂・伊達宗城・浅野茂勲他の議定がおり、慶喜に過度に同情的であった。
そのため、政権は常に不安定で、西郷らは開戦時に必ずしも勝利を確信せず、敗北の場合の対処も事前準備が必要であった。#西郷どん


新政府は敗北の際、明治天皇を山陰道へ遷幸を計画し、4日に西園寺公望が山陰道鎮撫総督に補職され、翌5日に本地域の軍事掌握ため、薩長両藩兵と出陣した。
なお、長期戦に備え、庶民を新政府側の見方にするため、1月5日付で年貢半減令が丹波で交付されている。#西郷どん


1月3日夜から4日未明の激戦には、旧幕軍側は旧募兵5000、会津3000、桑名1500、これに高松・大坦・浜田・小浜・忍等の諸藩兵が加わった15000の大兵力を擁した。
一方で新政府側は薩藩兵3000、長州藩兵2900であり、数的には圧倒的に有利な旧幕軍側が完敗したのだ。#西郷どん