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町田明広@machi82175302

旧幕軍の敗因について、薩長軍が装備・訓練ともに数段の差をつけており、両藩ともに本格的な戦争を経験、不断の猛訓練を積み重ねてきた兵力であった。さらに、薩長軍が事前に有利な地を占拠して迎撃体制を万全に完備していた。#西郷どん


慶喜は大坂城に留まって形勢を観望し、旧幕軍の指揮体制も急ごしらえで末端まで徹底せず、志気振興と全軍統率で薩長軍と格段の差があった。
特に旧幕軍が朝議によって朝敵となり、3日深夜、議定仁和寺宮嘉彰親王が軍事総裁兼帯を拝命、4日朝に征討大将軍に補職された。#西郷どん


そして、議定仁和寺宮嘉彰親王が鳥羽街道の東寺に錦旗を掲げ出馬したことで、決定的に旧幕軍は士気が低下した。
但し、ドラマのように最初から錦旗が上がったわけではない。
旧幕府軍は大兵であったため油断が生じており、戦闘なしで入京できるとの目論見も存在した。#西郷どん


1月4目早朝、旧幕府軍は重ねて鳥羽・伏見両道より進撃を試みたが連敗し、伏見の新政府軍はその機に乗じて鳥羽の旧幕軍側面を攻撃したため、旧幕軍は富森に退いて戦闘を継続した。
なお、西郷従道が重傷を負ったのは事実。 #西郷どん


1月5日、淀堤に退いたところ、淀城(藩主稲葉正邦は在府)は新政府軍に従属して開門せず、敗走する旧幕軍は止む無く八幡・橋本で交戦を継続した。
6日、淀川対岸の山崎関門を固めていた津藩兵が勅命を受け対岸の橋本に砲撃を開始し、旧幕軍は総崩れとなって大坂城に撤退した。#西郷どん