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町田明広@machi82175302

さて、西郷であるが、戦闘勃発に対し、「鳥羽一発の砲声は百万の見方を得たよりもうれしい」と、会心の笑みを浮かべたと言われる。
戦闘は新政府軍の優位に進んだが、戦況が気になってしかたがない西郷は、伏見まで出かけて観戦し、味方の見事な進退に喜悦している。#西郷どん


1月6日午後10時ころ、慶喜は老中酒井雅楽頭・板倉勝静、松平容保、松平定敬、目付榎本道章、奥医師坪井信良らを従えて大坂城を脱出し、開陽丸に乗船して上方から遁走した。
1月11日夜、品川沖に到着、翌12日、慶喜は江戸城に入城した。#西郷どん


さて、鳥羽伏見の戦いの影響について、少々触れたい。新政府軍の完勝によって、不安定な新政府の基礎を磐石なものに転化したのだが、そもそも、鳥羽伏見の戦いはもっと重要視されるべきで、日本史上、屈指の戦争の一つである。#西郷どん


1月3日夜、薩長優位の政策決定に不満な議定尾張慶勝・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城・浅野茂勲らは辞意を表明していた。
しかし、慶喜追討令の方針に容堂らも賛同せざるを得ないほど情勢は激変する。#西郷どん


7日夜、小御所に召集された百官・諸候に対し、総裁熾仁親王より慶喜追討令が沙汰されたが、議定岩倉具視は「徳川家に従うものは大坂に赴くべし、帰国するもよし、勤王の誠を致さんとするもよし、各自自らの態度を鮮明にして請書を八目辰刻までに提出すべし」
と厳しく命令した。#西郷どん


10日、征討大将軍仁和寺宮は大坂城入り、西国掌握の本営にした。
同日、慶喜・容保・定敬・久松定昭(伊予松山)・松平頼聡(高松)・板倉勝静(備中松山)・大河内正質(大多喜)
他諸侯、永井尚志・平山敬忠等旗本の官位を剥奪、小浜・宮津・大垣・延岡・鳥羽の各藩主に対し入京を禁止した。
#西郷どん


薩摩藩邸焼き討ち事件という不測の事件から発展し、戊辰戦争の導火線として勃発したのだが、旧幕府側にとっては慶喜の新政府入り目前に起きた痛恨事であった。
慶喜が単独上京していれば歴史は大きく相違したかもしれない。#西郷どん