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町田明広@machi82175302

江戸での立て直しを図った慶喜は、6日夜に閣老らと密かに大坂城を抜け出し、軍艦開陽丸で江戸に撤退した。新政府は、7日には慶喜らを朝敵として追討令を発し、17日には忠義が海陸軍務惣督、西郷が海陸軍掛・徴士に任命された。#西郷どん


しかし、西郷は島津家が徳川家に取って代わろうとしていると誤解されるとして、忠義にも納得させて両名とも即座に辞退している。
薩摩藩へのこうした嫌疑は、西郷を悩ませ続けることになる。#西郷どん


慶喜は、1月中に3回にわたってロッシュとの会談に臨んだ。
慶喜は当初、新政府に対して徹底抗戦を画策し、ロッシュの援助を受け入れる態度を示した。
しかし、列強が新旧政権に対等な交戦団体権を認める局外中立宣言を出した。#西郷どん


そのため、新政府は国際社会で正式に「新政権」と認められる以前に、旧幕府と同等の地位を得ることになった。
慶喜は列強の動向に加え、自身が朝敵となった事実から復権は難しいと判断し、2月に入ると急速に恭順に傾き、12日には江戸城を辞して寛永寺に逼塞した。#西郷どん


幕末を才覚だけで渡り歩いた策士慶喜も、万策尽きたのだ。
ここに、幕府による全国再統一は叶わず、フランスがイギリスを押さえて主導権を奪い取るという、ロッシュの野望も潰えた。#西郷どん