>>529
町田 明広@machi82175302

当時、新政府には兵力が皆無であり、諸藩は軍事改革を進めていた。
西郷はこうした状況を憂い、次の内乱を討伐するために薩摩藩をモデルにしたのだが、新政府からはルールを無視した軍国化に疑念をかけられた。
#西郷どん


もちろん、必要があれば、武力で政府を一新することも、また、西郷の念頭にはあったはずだが、いずれにしろ、薩摩藩の軍国化によって、西郷は全国の不満分子の期待を一身に背負うことになった。
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こうした中で、明治2年5月、西郷は再び藩兵を率いて箱館戦争に向かった。
新政府から何ら要望も出されていない中での、西郷の独断であった。
しかし、到着前に戦闘が終結し、戦うことなく箱館から帰国の途に就いた。連れてきた軍隊を政府が欲したが、西郷は無視して帰国してしまう。
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明治2年6月2日、政府は戊辰戦争終結に伴い論功行賞が行ったが、忠義は従三位・参議に、久光は従二位・権大納言に任じられ、賞典禄10万石が与えられた。
西郷も賞典禄2000石を与えられ、9月には正三位に叙せられたが、忠義より高位なることをはばかり、官位辞退を申し出た。
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なお、明治2年1月20日の時点で、忠義ら薩長土肥の4藩主は連名で版(土地)と籍(人民)を朝廷に返上すること、つまり、版籍奉還を上奏していた。
これにならって、他藩主も追随していたが、戊辰戦争の終結を機会として、6月17日、いよいよ実現の運びとなった。
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