>>537
町田 明広@machi82175302

藩主の封建的な諸特権は、ほぼ従来通りであったものの、身分上は知藩事として天皇の任命する官吏となった。
薩摩藩は鹿児島藩(以降の記載も薩摩藩と旧藩名で統一)とされ、忠義が藩知事に任命された。
#西郷どん


版籍奉還といった改革を進めながらも、中央政府は安定感を欠いていた。
維新の原動力となった薩長両藩であったが、薩摩藩は久光が政府批判を止めず、しかも西郷が軍事国家を作り上げて、政府一新のために率兵上京するのではないかという観測も流れた。
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長州藩では奇兵隊の反乱がおこり、大村益次郎・広沢真臣は暗殺され、前原一誠は萩に引きこもって、木戸孝允への攻撃を続けていた。
百姓一揆は頻発し、不平士族の動向も油断ならなかった。
そこで、政府は何とか西郷を担ぎ出し、この難局にあたろうとした。
このあたりが、先週描かれた時期。
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明治3年(1870)11月、大久保利通は勅使岩倉具視とともに鹿児島に向かい、西郷に上京の勅命を齎した。
久光にも上京を求めたが、体調不良を口実に拒否された。
しかし、西郷の上京は認めたため、翌4年1月、西郷は鹿児島を出発、山口・土佐に立ち寄り木戸・板垣らを誘い、一緒に上京を果たした。
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西郷は、維新を成し遂げた薩摩・長州・土佐の3藩が中心となって、もう一度、一致協力して改革にあたることを画策したのだ。
西郷は、新政府に直属の軍事力がなければ、改革など何事もできないと判断し、御親兵を設置することを提言して同意を得た。
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