町田 明広@machi82175302
西郷はいったん鹿児島に戻り、明治4年(1871)4月に藩知事となった忠義とともに兵3000余りを率いて上京した。
長州・土佐両藩の兵と合わせて約8000の御親兵(翌年から近衛兵と改称)が誕生した。
6月には西郷と木戸が参議に就任し、いよいよ大改革の時が迫った。
#西郷どん
新政府は御親兵の武力を背景に、明治4年(1871)7月14日に廃藩置県を断行した。
廃藩置県は木戸・山県有朋ら長州藩出身者の主導で推進されたが、西郷が反対するのではと危惧していた。
しかし、西郷は反対するどころか大いに賛意を表した。
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西郷はもしも反対する藩があれば、御親兵を率いて征伐するので心配無用であると言い放って不安がる周囲を落ち着かせ、断行への道筋を開いた。
むしろ、大久保の方が躊躇してなかなか決断ができず政府がこのまま瓦解するよりも、一か八かに打って出る方がましであると観念しようやく同意した。
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西郷は、廃藩への動きはもはや人力の及ばざるものであり、これを拒めば維新の勲功はすべて失われると覚悟していた。
また、長州藩との協調を重視し、閣内で孤立することを恐れた側面もあったかも知れない。
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いずれにしろ、西郷の勇断がなければ、廃藩置県の成功は見込めなかった。
ところで、廃藩置県は封建制に終止符を打ち、我が国を近世から近代に導いた画期的な大革命である。
いわゆる150年前の1868年の明治維新に比して、廃藩置県こそが真の革命であった。
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その革命を成し遂げた西郷は、事実上の士族の棟梁でありながら、その基盤である藩を葬り去った。
西郷の悲劇は、ここに萌芽したのだ。なお、ドラマでは廃藩置県を大久保利通が推進主体と描かれているが、大久保はむしろ慎重論者であった。
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