>>553
町田 明広@machi82175302

こうした西郷の苦衷を察した明治天皇は、久光を慰撫するために西国巡幸を仰せ出され、翌5年(1872)に実現した。
西郷は天皇に供奉して巡幸全体を取り仕切り、6月22日から7月2日まで鹿児島に滞在したが、西郷の目論見は外れて、久光を慰撫するどころか、かえって逆鱗に触れてしまった。
#西郷どん


久光の失望と怒りは、まず天皇の在り方に及んだ。西郷は吉井友実・村田新八らを宮内大丞として送り込み天皇の周辺を士族で固め、女官たちを罷免するなど宮中改革に積極的に取り組んでいた。
国民との接触が密であり、積極的かつ能動的なヨーロッパの皇帝のような天皇に育てることを模索した。
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君主としては白紙状態の幼い天皇を、新国家日本のシンボルとして誇れる存在にまで育成することに意を用いた。旧態依然とした天皇の在り方しか頭にない久光は、天皇が洋服を着用し、異人館のような玉座におられたことに激怒した。
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久光は、宮中改革に代表される開化政策を批判し、旧制に復することを求めた建白書を提出した。
また、行在所の鹿児島城本丸から久光が居住する二の丸まで、わずか数百メートルしか離れていないにもかかわらず、西郷は滞在中に久光のもとへ挨拶に行かなかった。
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10日間の滞在中、西郷さえその気になればいつでも行けたはずである。
久光の意向を無視し、様々な改革を推進して久光を憤慨させていたため、また、久光実子の久治の自殺後であり、気が進まず遠慮したこともあろう。
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