「翔ぶが如く」で留守政府を預かった西郷は江藤や大隈、板垣らに
かなり蔑まれていたように見えた。
西郷は「おはんらの好きにしやんせ」と言いハンコを預け、学制、
徴兵令・地租改正・太陽暦の採用、司法制度の整備・キリスト教弾圧の
中止などが次々に決定された。
また西郷自身が「強兵」を維新の主軸に置いており、「強兵」を推進しよう
とする山縣有朋に対しては自説の士族主体の志願兵構想を撤回して
彼の構想する徴兵制の確立に協力し、山城屋事件で山縣が辞任に追い込まれた
時でさえ、これを擁護して山縣追い落としを図る薩摩出身者を宥めている。

では西郷が自身でやったことは何か?
これは対露西亜の北海道警備に屯田兵を設置することだった。実際桐野を
現地に派遣して調査までさせながら、六年政変で頓挫した。
この後は大久保の命で黒田清隆が西郷案をまとめ、七年には屯田兵を制度化した。

西郷が下野した理由だが、留守政府では自分の構想が一つも形にならず、
朝鮮大使だけが名誉挽回のチャンスだと考えたからだろう。
なぜ西郷が朝鮮行きにこだわったか、それは当時の李氏朝鮮が独力で露西亜、
フランス、アメリカを撃退し、近代化せずとも強い軍隊が創れたことを証明した
からに他ならない。
西郷は李氏朝鮮に学び、士族主体の志願兵だけで露西亜を撃破できる確証を
得たかったのだろう。
まあ日本人が朝鮮から何かを学ぶという空気は、今も昔も厳しいだろうが。