【第三十五回】太平記 part.35『大逆転』
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>>1
スレがたたなんだ時には八つ裂きにしてもたらぬお方と思うたが…
また帰ってこられたとは大した軍略 何から何まで何から何まで帝のなさしめたる快挙にて候へば・・・ 後醍醐さん、倒幕活動前から
蔵人サービスに捨てられたせいで訴訟処理能力が
従来の朝廷よりも著しく低下してたんだってな
蔵人サービスに捨てられた理由
「家格を無視した人材登用」
有能無能が判別できなかったみたいね 後醍醐はその手のものを記録所に一元化しようとしたのでは? 吉川英治の私本太平記が青空文庫で読めるのな
大河のキャラクター(役者)を思い浮かべながら読むと、新たな発見があって面白い 後醍醐の記録所は院政における院庁の親政バージョンのようなもの 坊門と顕家最高だったわ
どっちも弱いだけじゃないのがいい 持明院派の公家なら西園寺公宗がいい味を出していた。 主人である天皇家が分裂しているのに
その藩屏たる公家が分裂しないと考えるのがどうかしている 両統迭立の初期はそうでもなかったらしい
南北朝の頃はもう両統のどちらか所属みたいになっていた >>27
そういう事じゃないだろw
一つ上の西園寺公宗の事をググれば全て解決している話
つまり、南北朝時代にとっても詳しいのにすっとぼけて聞いているんだよ ボーナスまでが長い。
暮れにさしかかってスタッドレスタイヤ購入、保険の更新とか物入りだ。
辛い。
世情病みとでも申すか…。 そういえば近代の政治家である西園寺公望って西園寺公宗の子孫であるということで
よく右翼から攻撃されていたらしいね >>32
フランス留学でクレマンソーとかと交流して
どっぷり自由主義に染まりながら
天皇親政阻止と対英米協調路線で帝国主義の中で
生き残り模索した人
後継者に近衛文麿に期待してたのは最強の汚点だけど >>33
西園寺公望って近衛文麿に期待していたの?
近衛文麿は国家主義なんかに融和的な感じで正直思想的にはあまり西園寺公望とは合わなそうなイメージだけど 後醍醐が親政やり始めたときに周りにいた中級官僚は葉室さん一党くらいで他の連中は出仕拒否されちゃって
そんで異形の人間に頼った
そんなもんだから
後醍醐が尊氏に追い落とされて吉野に下ったときに中級の官僚の皆様がみーんな北朝に出仕してしまってるしな 大覚寺統のフィクサー吉田定房を登場させとかないからそうなる >>35
鎌倉末くらいだと摂関ってかなり名目的な感じで朝廷内での存在感も薄いからなぁ・・・
もっとも南北朝期の北朝だと二条良基というバケモノがいるがドラマに出てきた記憶なし 足利義満自体の大河が難しいならば
二条良基目線からの足利義満とその時代を描く大河なら
できそうな感じがしないでもない >>40
二条良基が主人公じゃ南北御合体まで行かないし
良基が本領を発揮するのは義満の羽振りがよくなる時期より少々前だからなぁ・・・ だったら、途中で死んだあとは、ナレーターになるとかw
あとは、室町の皇族、貴族関係では
看聞日記をベースにした伏見宮貞成親王視点のドラマもアリかなぁ 足利市に車で20分くらいで行ける所に住んでるんだけど太平記ゆかりのおすすめスポット巡りあったら教えて下さい! >>42
逆に貞成目線だと物心ついた頃には既に義満の権勢は揺るぎないものになっているし
あと彼が看聞日記を書き始めるのは義満の死後だから貞成目線で義満も微妙じゃね? >>44
そうやね。貞成だったらむしろ義教とのヒヤヒヤながらも妙に良好な関係性と
あとは息子の後花園即位の経緯あたりが面白いだろうね >>43
生品神社から東照寺までの新田義貞行軍ルートは一度たどってみたい >>46
東照寺の照の字が何ともいい感じ、栃木県人らしい。本当の勝の字よりも後光がさしているみたいで非常にいい。自分的には好きだ。 >>3
ハッハッハッハッハッ…!軍略というほどの事ではござらぬ。
節操がないだけじゃ! 「東照寺」じゃなくて北条高時以下が自刃した鎌倉の「東勝寺」じゃないかな 円喜や高資が自刃せずに逃れていて、赤マフラー化→中先代、南朝方と最終回まで出てきてもよかったな。
ギャラが続けば。 清水克行さんの尊氏と関東、みたいなタイトルの本を読んで
行ってみたくなったな、バンナ寺 鑁阿寺の前身、法界寺(鑁阿寺の奥の院)は源氏(足利)ではなく、三河の藤姓熱田大宮司家を菩提する寺である
■樺崎八幡宮(元は法界寺)
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/023/935/11/N000/000/011/138960094181861421228_s-CIMG3574.jpg
>生母菩提の為
生母
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
家祖:藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)
系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→藤原範忠→女子→足利義兼(初代源姓足利氏) すると実は鑁阿寺も、源氏(足利氏)ではなく、三河の藤姓熱田大宮司家を菩提する寺であった
鑁阿寺の建設責任者は三河の藤姓熱田大宮司家出身
■1234年、鑁阿寺大御堂を建立
(大檀那)足利義氏(三代目足利氏当主)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→娘→足利義兼→義氏
(大行事権律師)藤原重弘(鑁阿寺第四世寺務学頭、野田朝氏と兄弟)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→野田清季(野田城主(三河国設楽郡野田))→野田朝季→藤原重弘 >>55
>>56
誰が三河坊主を寄越せと申した!立ち去れぇい!! 法界寺って言ったら普通は京都にある日野家の菩提寺だろう。 法界寺
・・・というか三河屋の場合は人格が崩壊しているなw まぁ熱意と偏った知識の深さはすげーなと思うけどね
こういうこと言っちゃうと調子に乗っちゃうかw >>62
変な執念深さは見てとれるが正直熱意とは違う気がする・・・ 43ですがとりあえず鑁阿寺と足利学校行ってきます!どうもありがとう 新田庄へ行っても生品神社くらいしか見るところなくね? 足利庄って八条院領なんだっけ?
新田庄の本所はどこ? 頼朝と足利義兼の母方がどっちも名古屋人って結構凄いね
後の信長・秀吉も名古屋人だし 『有田哲平の夢なら醒めないで』12/4(火) 結婚できないお嬢様!! 怒り&嘆きを大放出!!【TBS】 - YouTube
https://m.youtube.com/watch?v=EJfmubtCRK8
尊氏の子孫の真偽や如何に!? 久しぶりにレイン棒の演技見たら
想像を遥かに超える棒で爆笑したw 直冬は西国へ参りまする!
西国へ行き独立独歩思うように生きまする! いつの時代も、若者は自負と野心に満ち溢れてるなぁ
だが、それがよい 直冬の男系子孫ってどっかでひっそり生き延びたりしなかったんだろうか >>82
らしいね。
その孫自体は殺されたらしいけど、年齢から考えて、息子がいても不思議じゃあないんだよな >>86
それを言ったら、この時代、柔軟な人だらけなわけだが
「軍略というほどのことではない。節操がないだけじゃ」
とかイケシャアシャアとのたまう御仁もいるし 道誉の場合は口先ではいろいろ言っても本気で尊氏を裏切るつもりはなさそうだけどね 三木一草は皆忠義を全うした
すなわち忠義=金(恩賞) 石が日野殿の書付を見せたのに笑い飛ばされたのを思い出した >>91
三条殿(直義)って袖判下文を発給していたっけ? >>86
時行
「南朝も北朝もない。妻の実家を裏切った
クソ野郎を殺したいだけ」
妻の実家裏切るとか当時では中々あり得ない
暴挙 おやじを殺した新田と組むのはええのか(´・ω・`) 官兵衛の次の再放送ってもう情報出た?
太平記待ちなんだけど >>93
直義が三位に叙せられた頃から袖判に変わりだしたらしい。 >>97
いやそういうことではなくて、直義の袖判文書は下知状なんかではよく見るけど、
下文はあるのかな?と思ったので。
袖判かどうかは別にしても、そもそも直義が下文を発給した事例って、確かなもので
あるのかなぁと。 三条殿で思ったけど、この当時は公家の三条はいなかったのか?一条や二条はいるけど ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています