町田 明広@machi82175302

大久保利通は大警視川路利良にこれら命じ、明治9年12月下旬には中原尚雄ら鹿児島出身の警部・巡査ら20人余りを休暇帰省として潜入させた。
私学校生徒は彼らの動きを逐次監視し、火薬庫襲撃後に相次いで捕え、激しい拷問を加えた。#西郷どん

そして、中原が西郷暗殺の密命を川路利良から受けていたと自白したため、私学校生徒の怒りは沸点に到達し、もはや幹部でも手の施しようがなかった。
なお、西郷を「視察」するためだったのか、「刺殺」するためだったのか、中原は後年、「視察」のためと述べている。

西郷は「刺殺」に傾いていた感があるが、果たして真相はいかがであろうか。
さて、明治10年(1877)1月、いよいよ政府は三菱の汽船赤龍丸を鹿児島に派遣して、備蓄されている火薬・銃弾の搬出を図った。#西郷どん

そもそも、鹿児島には海軍鹿児島造船所や滝之上・敷根火薬製造所など日本最大級で最新鋭の武器・火薬工場があった。
海軍が使用する弾薬はすべて鹿児島製であり、大量の武器弾薬が生産・備蓄されていて、以前から政府の頭痛の種であった。#西郷どん

政府は、その武器弾薬が西郷党の手に渡るのを恐れ、早期の引き上げを以前から画策していたが、この段階での実行となった。
大久保利通はもう我慢できずに、強硬手段に打って出たのだ。このあたりはドラマでは中原の言葉の中にあっただけで、描写はなかった。#西郷どん

大久保利通が鹿児島県との取り決めを無視し、夜間にこっそり搬出させたことを知った私学校生徒の血気にはやる一部は、西郷暗殺を企図する密偵問題と絡めて激昂し、とうとう一線を越えてしまった。#西郷どん