≪ 西郷軍団 メンバー紹介 ≫

桐野利秋 (薩摩藩出身 1838〜1877年 西南戦争 城山で死亡)

ヤクザ組織でいえば若頭(擬似的長男)に相当するポジションの人物であり、
西郷を別格とすれば軍団ナンバー1の実力者がこの桐野であった。

青年期の旧名が“中村半次郎”で、京都薩摩藩邸に招かれていた兵学者赤松小三郎を
幕府のスパイと見抜き、斬ったことから“人斬り半次郎”の異名を持つ。
しかし桐野の友人の有馬藤太はこの事件の真相を「赤松はスパイではない。
薩摩藩の内情を知り過ぎてしまったというだけで、薩摩藩にとっての恩師を
犬のように斬り殺したんだ 」と後に暴露している。

親分の西郷隆盛が栄達すると子分筆頭の桐野も芋づる式に出世し、
ついには陸軍少将にまで昇り詰めるが、明治六年の政変で西郷が下野すると
桐野も陸軍を辞し、西郷を追いかけ鹿児島へ帰郷する。

西南戦争では西郷隆盛を推戴し、国内の内戦としては死者1万3千という日本史上でも稀にみる損害を出すことになるこの戦を主導した。
その大評議の場では、挙兵は無謀ではないかとの慎重論も多く出たのだが、
桐野の次の言葉で全軍挙兵が評決断行されたという。
「断の一字あるのみ、総出兵の外に採るべき道なし」という何の軍略的根拠も無い"精神論"であった・・・