>>279
一番大事なお話はスルーですか?


9月19日、薩軍では一部の将士の相談の下、山野田・河野主一郎が西郷の救命のためであることを西郷・桐野に隠し、挙兵の意を説くためと称して、軍使となって西郷の縁戚でもある参軍川村純義海軍中将の元に出向き、捕らえられた。

22日、西郷は「城山決死の檄」を出し決死の意を告知した。

西郷は二人の使いを敵陣に送って挙兵の大義を説明させ自分たちは最後の決戦に臨む

以下は、西郷の絶筆である。

「今般、河野主一郎、山野田一輔の両士を敵陣に遣はし候儀、全く味方の決死を知らしめ、且つ義挙の趣意を以て、大義名分を貫徹し、法庭に於て斃れ候賦(つもり)に候間、
一統安堵致し、此城を枕にして決戦可致候に付、今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様、覚悟肝要に可有之候也。」

「今般、河野主一郎、山野田一輔の両士を敵陣に派遣した件、味方の決死の覚悟を敵陣に伝えるとともに、この挙兵の意義を以て、大義名分を貫徹し、理がどちらかにあるのかを明らかにして斃れるつもりなので、
諸君らは安堵して、この城を枕にして決戦するに際し、今一層奮発して、後世に恥辱を残さないよう覚悟して戦うように。」

「安堵」という言葉が印象的だ。
彼らが恐れたのは、「義挙の趣旨」と「大義名分」が世に伝わらず、後世の人間から単なる「不平氏族の叛乱」であるかのように見なされる事だったのだろう。

その心配はもうないから、「一統安堵し」て「城を枕にして決戦」しようと西郷は呼びかけたのである。

翌23日、軍使山野田一輔が持ち帰った参軍川村純義からの降伏の勧めを無視し、参軍山縣からの西郷宛の自決を勧める書状にも西郷は返事をしなかった。

9月24日午前4時、征討軍の砲台からの3発の砲声を合図に征討軍の総攻撃が始まった。