1921年(大10)四三、第東京府女子師範学校で地理教師として教壇に立つ
     四三、第初の女子テニス大会・女子連合競技大会を開催
     以降、長年にわたって女子体育の振興に尽力していく
1922(大11)四三、日本体育・マラソン普及のため樺太―東京間を踏破
1923(大12)四三、第関東女子体育連盟を結成
1924(大13)四三、パリ五輪出場、途中棄権
     田畑、東京帝国大学卒業、朝日新聞社入社
1932(昭7)ロス五輪で田畑が監督として率いた競泳日本代表が
    金メダル5個、銀メダル5個、銅メダル2個獲得
    東京都が第12回オリンピック開催地に正式立候補
1931(昭6)四三、39歳で故郷玉名(現玉名市上小田)に帰り
    県内外においてマラソン普及に努める
    四三、日本体育・マラソン普及のため九州一周を踏破
1936(昭11)国際オリンピック委員会(IOC)にて
    嘉納のスピーチ等の誘致活動が成功し1940年の東京五輪開催決定
    四三、日本初のオリンピック準備のため上京、開催準備に奔走する
1937(昭12)国内外で東京五輪開催に反対する声が高まる
1938(昭13)東京五輪開催を最後まで望んだ嘉納が
    カイロのIOC総会から帰国途上(横浜到着の2日前)、
    氷川丸の船内で肺炎により死去
    東京都がオリンピック東京大会 (1940)開催権を返上
1939(昭14)田畑、大日本水上競技連盟理事長に就任