【第四十七回】太平記part.47『将軍の敗北』
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わづかに家名を保たんがため、>>1乙を投げうつのみ! この師直、不遜にも大殿に成り代わろうと思ったこと、確かにございました
この回の師直、いい人だったな その回はつらすぎてDVDほとんど見返さない
終盤はそのあとのコメディ展開ばっかり見る >>5
コメディ展開って、48回「果てしなき戦い」のことか
確かにあの回は面白いね 最終回ともども何回も見てる 足利決起以降の尊氏の人生はほぼ戦になると思うとせつないな
物事を変えるのは大変だけど、それを安定させるのはさらに大変だというのが身に染みる 我らが直冬(筒井)がヤフートップになっとるやん。
悪役に新境地! 太平記で悪役やってたから新境地なんて言われてても29年遅れてるなと
あの頃は下手糞だったから黒歴史みたいなもんだろうけどなw >>9
下手のまま、棒のままで出るドラマで全部独特の存在感を出している
今や下手とか棒とか言うのさえ無意味 太平記の三大棒役者って
赤井、筒井とあと誰?
りえ、ゴクミとか言ってやんなよ、それを補うにあまりある可愛さなんだから
ギバも決して棒じゃない NHKの時代劇で筒井道隆というと
足利直棒、上杉棒山、松平容棒、松下棒之助、竹中半棒あたり? >>10
「場違いな人」をやらせたら日本一なんだよね
役者にとって演技力なんて一要素でしかない >>11
前のスレでも書いたけれど、地味に児玉清
それから役作りで救われているけれど、陣内孝則 野にはなった虎だわえ
児玉清を棒に入れるのは失礼だと思うw >>11
義詮じゃないの
若いせいもあるのか、白い巨塔でもあまり変化なかった ドラマでは出てこないけど、尊氏には長男が居たからな
うまく生き延びていてくれれば、北条氏を母に持つ義詮じゃなく長男に後を継がせたかもしれん
尊氏は自分自身が庶子だったから、血筋を守るみたいなことにはこだわりが薄い印象がある 馬鹿だなあ。足利と北条のハイブリッドたる義詮だからこそ鎌倉を治められたんだぞ。ほんま頭坊門クラスのアホやなw 先ほどまでEテレの「知恵泉」で足利義満を取り上げていたが、確かに大河ドラマで取り上げるのにふさわしい題材だなあ(「太平記」の戦乱の時代を引きづっていたし) >>11
宮沢りえはどんどん上手くなって行ったと思う
白拍子やめて母ちゃんになってからが特に
ゴクミは父親に最後会いに来たとこでようやくこなれてきたか?って思ったら戦死で残念だったわ >>27
正室所生の男子が普通にいるのに側室腹の子を跡継ぎにするなんて周りが納得しない
史実の直冬なんかよりも遥かに深刻なお家騒動の原因になるのが目に見えている
あと当時は足利一門にも有力御家人にも北条と縁戚になっていた者は無数にいるわけで
北条の血縁というだけで過度に排斥するようなことをすることは
かえって無用な争いを呼ぶだけだぞw >>31
平岩弓枝の獅子の座は読んだけど
世阿弥と三宝院満済の役が難しい 満済が本領発揮するのはどちらかというと義満の時期よりも義満死後の義持〜義教の頃だろう >>27
でも後継義詮の嫁の渋川氏は母親北条氏だぜ >>30
新田は鎌倉焼いちゃったから鎌倉の人心を掌握できなかったね >>26
そういえば、孝太郎君は映画で昭和天皇演じてたな。
やはり、歌舞伎役者と天皇はマッチするのか。。。 >>31
だから、やってほしいの!「続・太平記」
判官殿、登子、義詮のキャストは据え置きで。
義満は誰に演らせればいいかな? >>38
当時の心境としては、やむを得ないところだが、
このせいで、世界遺産登録するには、残された物が足りなすぎ。
まあ、いいんだけどね。登録なんかされなくても、鎌倉は安泰だw 東勝寺自害シーン数十人ぐらいしかいなかったけど
実際はその10倍以上が自害したわけだからちょっとエキストラ足りなかったw >>42
バブル真っ盛りな頃でもムリだったわけで仕方がないな >>38
実は焼いたのではなくまず鎌倉に大地震が来た。そして退潮現象で稲村ヶ先が干潟になったので、
そこを通って新田軍鎌倉へ。
次に津波が来たので残っている文化財が少ない。 >>42
葵では、関ヶ原で予算使いきったとか言われて
金がかかるみたいだから仕方ない >>31
「一休さん」が大河ドラマになったら、一方の主役格になれるだろうな >>40
赤橋登子は義満が8歳の時、足利義詮は義満が11歳の時に死亡
みんな義満が子役のうちに早期退場で「続」というほど旧キャストの出番がない
佐々木道譽がかろうじて義満元服まで生きてるが
それでも義満15歳の時に死亡 鎌倉末期は、六波羅探題北方の方が南方より格上だったのかな? >>51
最初から北方のほうが南方よりも格上じゃないか?
南方は長期間不在のこともあるが北方が空席のまま放置されることはない
また六波羅が発給した下知状・御教書の署判の仕方をみれば
六波羅における北方と南方の関係は鎌倉における執権と連署の関係に同じ そういえば大河「時宗」のときに
六波羅北方=赤橋義宗、六波羅南方=時輔(得宗家出身)は異常みたいに言ってたけど
あの頃って鎌倉も執権=政村、連署=時宗だからなぁ >>45
何度か津波で文化財などが消えうせたという話はよく聞きます。
大仏殿も地震や津波で倒壊したとかは文献でもあるようですが、
このタイミングで地震があったという文献を見たことがないし、
事実ならもっと知れ渡っていてしかるべき出来事ですが、
ちょっと初耳だな。
どこにその事実を載せた文献があるんですか? >>54
「七里ガ浜の磯伝い、 稲村ケ崎名将の、剣投ぜし古戦場」
義貞が黄金の太刀を龍神に捧げ海に投げ入れると、潮が突然引き目の前に干潟が現れ
それを渡って鎌倉へ攻め込んだ(場所は稲村ケ崎の干潟です)
この伝説の検証として、大地震があって潮が一時的に引いたのでは?とする研究家が
いるのです。 >>47
時行は20日ほどしかいなかったのに中先代と言われたからね
新田は何日いても支配者と認められなかった
出て行って正解 >>54
地震というのは平禅門の乱の直前の永仁関東地震(鎌倉大地震)
津波は大仏殿が流された明応関東地震のことなんじゃないか?
>>45の日本語力に難があるのはその通りだが >>56
その研究家とやらはアホじゃないのか?
そんな大地震があったなら、潮が引くとかそう言う問題以前に
地震なり津波の記録があるはずだろw まあ大きな地震なら揺れる範囲も広いだろうし何も記録が残らないのはあり得ないだろうな とりあえず大日本史料のデータベースを見る限り元弘3年(正慶2年)に大地震の記録はなさそうだ 漸くクーラーなるものを付けもうした
これで在宅労働が捗るものじゃ 畏れながら、大御所におかせられては御隠居なさるのでございますか? >>60
まあ研究者じゃなくて研究家ならその辺突っ込んでも仕方ない >>52
鎌倉も六波羅も二人体制なのに何故か鎮西探題は単独なんだよな 室町幕府は奥州探題も九州探題もまともに機能した期間の方が少ないよね
遠くのことは遠くで解決してねというスタンスにならざるを得なかったんだろうけど >>63
太守!太守!この守時にクーラーの効いた部屋で休むことを賜りたく!
この守時とて北条の男、この様な暑い時に部屋の外でただ見ているわけには参りませぬ! 鎌倉武士がクーラーに頼るなど武門の恥辱であろうに
ナレ)後に、夏の暑さに負けてクーラーを付けた事が>>63を痛く傷付ける事になる >>70
儂は鎌倉武士などではない!
千早赤坂の出なるぞ
冷房機なるものが今まで無かったので夏バテである >>64
大御所じゃなくて大殿
師直は尊氏を「大殿」と呼んでいたはず >>64
大御所じゃなくて大殿
師直は尊氏を「大殿」と呼んでいたはず 足利が京六波羅に入る!
諸国の御家人がすべて源氏に入れ替わる
赤橋の方も頑張る、他の北条も頑張る
ここで新田に、大事な大事なアタックチャーンス! >>45が物を知らないアホ
関東大震災や東日本橋大震災で海岸線変わったろ
何年も浮き上がったところ戻らなかったろ
その話だろうに
さも1331年夏に地震があったドヤ!
とか恥ずかしすぎ 稲村ヶ崎の新田義貞徒渉伝説では、義貞が海の龍神に黄金の太刀を寄進したら水が引いて干潟が現れ
そこを渡って鎌倉へ攻め込んだ
まずこれが事実かどうか?、事実であれば龍神のおかげとかじゃなくて科学的に説明が付く理由があるか?
なんらかの天変地異が起こった可能性はあるのか?ってだけだから、地震と決めつけてるわけじゃないけどね 干潮を利用して突破したのを脚色したというのが一般的だろ
新田以前に大舘も突破に成功してるし 大地震の引き潮で突入したなら攻め手もタダじゃ済まないだろ 引き潮の後、稲村ジェーンに矢盾で乗った勢いで波乗り武者が攻め寄せて来るんだよ >>77
新田が黄金の太刀なんて持っていたのか、はたまた分捕ったのか。 七里ヶ浜の磯伝い
稲村ケ崎 名称の
剣投ぜし古戦場 >>76
まあ同意だけど義貞の鎌倉攻めは1333年夏な というか稲村ヶ崎の場面はドラマのなかで義貞が引き潮の時刻を側近に尋ねていて
それに対して側近が「四更の丑三つ時」と答えている
少なくともドラマの制作側は津波とかではない普通の引き潮のつもりだろう
その後のナレーションではもっと具体的に午前3時前と言ってるが
あとその前に敵の目を逸らすため「月が昇る頃に攻撃を仕掛ける」云々の発言もあったが
この月が昇る頃は午前0時頃だな
旧暦22日は下弦の月のはずなので あたふたする貞顕、冷静さを装う円喜・・・
でも貞顕の予測があたってるし、遠い六波羅より足元に火がついてる
関東を!の判断も正しい。
でもまさかこの半月後に一族ことごとく自害することになろうとは
思ってないんだろうな・・・。 >>54
45です。自分が朝書き込んだことについていろいろ話になっていますが、
まず、「地震退潮説」は峰岸純夫です。近著では『新田義貞』(人物叢書)
稲村ヶ先の退潮現象は両軍想定の内であり、新田軍の攻撃が成功してのは予想外の自然現象が起きたのではないか。
元弘元年には諸国で大地震が発生しており、紀伊千里浜二十余町の遠干潟が、
同年の別の地震で富士山が大崩落を起こしている。
これらの関連地震(余震、本震)として5月8日の鎌倉沖に地震が発生し、
退潮現象を引き起こしたのではないか・・・というもの。 14回「秋霧」に宇宙刑事シャリバンの渡洋史が出ているが、セリフ回しが大仰
この人が俳優として大成しなかったのは、そんなところに理由があったのかも 鎌倉幕府滅亡 バブル崩壊 鎌倉幕府もバブルも終わりがくるとは誰も思わなかったに違いない 軍事力や権力の大きさからすると江戸幕府こそあんなに呆気なく終わるとは思わなかっただろう >>84
自分で峰岸説を出しておいて何ですが、ドラマはもちろん干潮説を取っている。
引き潮の時間は明治時代からいろいろな人間が計算しているが、午前2時57分。
そして月の出は21日22時43分だった。 前日に大舘が稲村ケ崎通過して攻め込んでるから奇跡もなにもない
普通に通れる道だ
ドラマは軍船が移動したことを奇跡と表現して、うまく処理してると思った >>91
そうそう義貞の通過の数日前に大舘宗氏が稲村ヶ崎から鎌倉市中に入り込んだわけだし
当時は普通の引き潮で簡単に通れる場所だったと考えるのが妥当だね 大舘が入った18日は大潮
普段から通れる道ではない。 おいおい大潮って新月か満月のときだから
旧暦なら毎月1日・15日あたりのはずなんだが そういえば確かに5月22日は日付的に下弦の月だが
ドラマのなかで一瞬映った月もちゃんと下弦の月になっていて
制作スタッフの仕事の緻密さに感心したな
しかしタッキーの「義経」ときの一ノ谷の戦い場面は
2月7日のはずなのに月の形が上弦の月じゃなくて残念な気分になった
大河のスタッフの劣化を感じた瞬間だな それな
時代劇の制作陣ならそこはちゃんと押さえてほしいよな >>95
逆に22日は小潮のはずだから、この日の引き潮で通れるなら
当時は引き潮なら基本普通に通れたことになるんだよな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています