連投さん、テンプレ厨さんお疲れさまです。

それこそ揚げ足とりの気味はありますが、小檜山氏の司馬遼太郎批判()を読み返していて気づいたおかしな箇所を指摘いたします。
以下、9月27日の「個人崇拝」●個人崇拝史観は、まだまだ現役のようで
から長めの引用。ツッコミは次レスにて行います。

>ここで何かを思いだした方もおられますよね、はい、『銀河英雄伝説』だ。
 司馬遼太郎ファンだけでも手強いのに、提案だけでも首を取れと大騒ぎするあの界隈に突っ込むって、もう地雷原横断にもほどがある……ってかんじですけど。でもまあ、柳生十兵衛精神で乗り切ってみせますよ!
>ちなみに私は『銀河英雄伝説』のファンかって?そもそも読んでいないのでよくわかりません。何度もいろいろな人から勧められたのですけれども。好きそうだとも言われましたけど。士官構成のジェンダー比になんとなく嫌な予感を感じたり。自分に合わない兆候を感じたので、そっと断るようにしてきました。
>あのヒロイン家事分担論争を見ていて、似たようなSFでも、ジャック・キャンベル『彷徨える艦隊』シリーズあたりを選んでいてよかったんだなと痛感できたわけですが。あの作品には、思えば危うい点があったのだと、あの騒動で気づきました。
>「ああ、こんな時代に、ヤン・ウェンリーみたいな政治家がいたら……」
>「そうだね、竜堂兄弟が今の世の中を見たら何て言うだろうね」
>あ!これは【個人崇拝】ベースの歴史観ですね。世直しをする英雄が出現するパターンだ。司馬遼太郎でも定番の展開です。
>繰り返しますが、これは危ういし、かつ古いのです。たとえるのであれば、他の国がスマホアプリを使っている一方で、日本がFAX現役でいるくらい、古臭いと思います。
>ヤン・ウェンリーにせよ。四兄弟にせよ。そういう誰かがいたらと妄想する前に、自分が何をできるか考えていく。社会参加をどうするのか?(以下略)