5日 三河岡崎に帰着
6月5日、米倉忠継、折井次昌に対して甲斐の武士を徳川方へ帰属させる工作を行い、家康の甲斐侵攻を待つように指示した。

翌6日には岡部正綱を甲斐・下山(穴山領)に派遣して菅沼城の普請を命じ、穴山信君横死後の穴山領、穴山家臣衆を従属下に置いている。穴山領は秀隆の所領ではないが、この行動は秀隆に家康に対する疑念を抱かせるには十分であったとされる。

10日頃には、秀隆の知己であったという本多忠政(信俊)を支援を名目として甲府へ派遣した。一説では、秀隆を説得して家康に従属させるのが目的であったともいう。

12日、家康は岡部正綱と曽根昌世を通じて甲斐の武士に秀隆の所領を対象とした知行安堵状を発給した。
これは徳川氏が甲斐計略を企画していることを明示するものであった。

14日 対明智に出陣
14日、一揆勢と交渉していた本多忠政は事態収拾のためとして秀隆に上方へ帰るように勧めた。
しかし一方では岡部、曽根が甲斐国内で知行安堵状を発給していることを察知した秀隆は、家康の甲斐横領の意図は確実と判断しており、
忠政を斬殺して家康との断交の意思を明確にした。

18日、忠政の家臣の呼びかけによって結集した武田遺臣に河尻秀隆は襲撃され、岩窪において三井弥一郎に討ち取られた。また自害したともいう。享年56。