政村の任官は、義時と立場が異なる(潜在的に敵対している)、
泰時を推している将軍後見人の政子が止めてたと見ている

義時死亡時でも、藤原頼経は6歳にすぎない
頼経の推挙が得られない=政子の推挙が得られない
ということなのだ

逆にそこまで泰時と三浦宗家との関係が円満であることを強調するならば、
(政略結婚した挙句に離婚してる時点で円満なわけがないのだが)
なぜ泰時(→時氏)→経時→時頼が武蔵守を継承し、相模守に就任しないのか
是非説明してもらいたいものだ