八代目 市川 雷蔵
生年月日 1931年8月29日
没年月日 1969年7月17日(37歳没)

1968年(昭和43年)6月、雷蔵は『関の弥太っぺ』の撮影中に下血に見舞われ、入院した[61]。
検査の結果、直腸癌であることが判明したが、本人には知らされなかった[61][62]。
8月10日に手術を受け退院した[62]が、家族は医師から「半年余りの間に再発する」という宣告を受けた[61]。
雷蔵は生まれつき胃腸が弱く[63]、1961年(昭和36年)にも『沓掛時次郎』の撮影後に下血に見舞われており、病院で精密検査を受けた結果、「直腸に傷がある」という診断を受けたことがあった[63]。
また、1964年(昭和39年)1月に日生劇場で『勧進帳』をつとめた際には武智鉄二に対し、「下痢に悩まされている」と告白している[64]。

退院後、雷蔵は『眠狂四郎悪女狩り』(1969年1月11日公開)『博徒一代 血祭り不動』(1969年(昭和44年)2月12日公開)の撮影を行ったが、体力の衰えが激しく、立ち回りの場面は吹き替えの役者が演じた[65]。
1969年(昭和44年)2月に体調不良を訴え再入院。2度目の手術を受けた雷蔵は、スープも喉を通らなくなるほど衰弱していた[66]が、『あゝ海軍』で海軍士官の役を演じることに意欲を見せ、関係者と打ち合わせを行っていた。
しかし復帰がクランクインに間に合わず、大映は代役に二代目中村吉右衛門を立てて撮影することを決定。
そのことを新聞を読んで知って以来、雷蔵は仕事の話を一切しなくなったという[67][66]。
7月17日、転移性肝がんのため死去。