日野商人とは - 滋賀県 日野・五個荘・近江八幡 近江商人のふるさとhttp://www.omi-syonin.com/htm01/hino.htm
日野商人
 八幡商人にやや遅れて登場したのが日野商人です。
琵琶湖岸から遠い日野にも、中世から日野市があり、蒲生氏の城下町として楽市令が布かれ、諸役免除の特典を与えられ、商工業が栄えました。
蒲生氏郷の伊勢松坂や会津への領地替え以後も、蒲生氏と日野町民の関係は密接でしたが、寛永年間蒲生家の断絶により日野は一時活況を失いました。
しかしそのことが逆に奮起をうながし、地場産業の日野椀や売薬、帷子、小間物をもって全国へ行商することが盛んになりました。なかでも正野玄三の売り出した「万病感応丸」は携帯商品として大ヒットとなりました。
いわば劣勢を逆用した日野商人の行商開始期は、江戸時代という社会が形を整えて回転し始めた時期であり、最初の繁栄期である元禄前後の地方の人々の生活向上の波に乗って商勢が伸展したのです。
中井源左衛門画像
 日野商人は諸国商品流通の便益を提供するものとして幕府の公認するところとなりました。
日野商人は元禄3年(1690)、幕府による売掛代金の回収保証と東海道・中山道における特約旅館制度を二本の柱とする、日野大当番仲間を日野町の全商人を集めて結成しました。
そして主に東北・関東・東海道と、京阪の間を商圏としながら、行商と店舗開設による活動を広げていったのです。
とくに日野商人の店舗は、「日野の千両店」と呼ばれる、出先の商人との共同出資(乗合商内)のかたちをとった小規模であるが沢山の店舗をかまえ、それを前進基地としていくことに特徴がありました。