【2012年大河ドラマ】平清盛 Part179©2ch.net
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【2012年大河ドラマ】平清盛 Part178
http://nhk2.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1492092790/
●荒らしと思われるレスには各自スルー またはNGで対応
●>>950以降の有志が次スレを立てる
●スレ立て宣言と誘導は必ず行い 無理な場合はすぐに申告すること
●スレを立てられない人は 次スレが立つまでレスを控えるように
【2012年大河ドラマ】平清盛アンチスレPart28
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1356934811/ 大晦日の朝って、朝ドラの総集編を流すのが通例だったような。
ところが今年は、新枠土曜時代ドラマ第1作の光栄に浴した『みを尽くし料理帖』。
たぶん、時間帯から推測するに視聴率は5、6%。いつもの藤本作品同様、はなはだ
芳しくない視聴率だっただろうに、この優遇措置。
どれだけこの作品に対する内部評価が高いかがわかるだろう(原作の世界観を崩さず、
短い尺に切り詰めて再構成する方面でも半端でない力量をもつことを、
このオリジナル得意の天才は証明した)。
ここから先はただの妄想ながら、引き続き清盛BS再放送、みを尽くし続編、
そして大本命たる朝ドラ、大河再登板という流れを期待してしまう。 しかしいつも通り、アホウヨとババアたちが押しかけて
・テレ朝版に遥かに劣る
・愛する草刈昌幸さんが出てる武士メシを見習え
・ただの江戸料理バラエティへと原作を貶めた
大変お元気で何よりでした。。。 同じ歴史場面を源平正反対の立場から描いたシーンの比較は興味深い。
富士川の戦いなんかもそう。
どちらも「大軍が対峙した状況」描写はたいしたことなく、とくに清盛はスタジオ感満載で終わってしまった。
しかし、たとえ予算的に余裕が残っていたとしても、清盛不在かつ寄せ集めの軍隊らしく脱走兵が相次いで寡兵と相成り、
ついには合戦を回避して逃げ帰ったことが核心であった「富士川の戦い」を、誇張された軍記物よろしく
壮大な合戦絵巻へとでっち上げることはなかっただろう。
この富士川を「ショボかった」と貶すことはそもそもナンセンスなのである。 【義経】
・黄瀬川で頼朝との対面。頼朝たちから疑心暗鬼に晒された主人公義経は、早くも軍才を見せつけ
存在感を示した(戦後の対面が戦前に、居なかったはずの義経が情報戦大活躍というファンタジーだったが、
兄弟間のその後を暗示するようなビミョーな対面シーンは見応えあり)。
・危機感無しの平家は飲めや歌えやで浮かれまくっており、水鳥の羽音に呆気なく逃散。
・京から連れてこられた白拍子静と再会。
・維盛叱責。何と鬼界ヶ島送りを清盛が宣告。アレアレとなったところに経子(母ではないのだが・・・)が時子に嘆願。
ゴッドマザー時子「あいわかった」。入道に掛け合うのかと思いきや、ナレ「かくしてこのお沙汰は取りやめに」でオシマイ。
【清盛】
・維盛と忠清との日柄論争〜吉凶を占う忠清は軍配者としての性格も。合理的思考をもつ維盛は兵の士気を問題にする。
・混乱する指揮系統ゆえ一体感を欠き、兵士の士気は低下し弛緩する一方の平家軍(舐めてるのではなくやる気がない)。
・遊び女を現地調達し陣へ招き入れようと提案する維盛に、とんでもないと激しく諌める忠清。ここでも維盛は
油断して浮かれ遊んでいたのでは決してなく、戦意維持という切実な課題に対処していたのであり、歴戦のveteran忠清が
正しいとばかりは言えないところが非常に面白かった。
・結果的になすすべなく逃げ帰った維盛に清盛は大激怒、折檻に及びボコボコにする。
・そして忠清による死を賭した諫言「平家はもはや武家ではなく殿はもはや武士ではない」の悲痛なシーンがやってくる
(海賊退治の際、胸をど突かれてビクともしなかった(軸の定まった)盛国から、立場変わって「これまで通り武にて殿をお支えせよ」
と胸ドンされた忠清がビクともしなかったシーンが素晴らしい)。 朝ドラで落語崇徳院がかかったのは懐かしかった
清盛では後の近衛天皇誕生祝いで西行になる前の義清があの歌を披露して
一気に場が不穏化したんだよな 富士川の戦いという著名エピも、清盛ー維盛―忠清の分厚い人間ドラマへと昇華されていたことに、
とりわけ侍大将忠清の悲哀にスポットを当てたことに、あらためて感銘を受けた(富士川合戦は忠清がキーマンであったことに
疑いはない)。
怒られれるが、大河における藤本隆宏氏のベストは、軍神として直ちに政治利用された広瀬中佐でも、信繁に殉ずるだけの
関係描写に欠けた堀田作兵衛でもなく、脳筋マッチョから時代に取り残された老兵の悲哀まで味わった、しかし最後まで
平家に殉じた侍大将伊藤忠清だろう。 重盛が経子じゃなかったお初と堂々デート
しかも同じかわいそキャラの家盛くんから掠奪しただと!
そんぐらい図太く生きてりゃ現世では早死にしないわ 現時点で話題を集めている大河は、当然現役おんな城主。
ただ当然そうなるわけではなく、12月の今頃、関心が次に移ってしまうような大河もある。
この点、直虎は立派。
次に真田丸。直虎と話題が被ることもあり、SNS上の高い人気をなお維持している。
そして3番手の位置を占めているのは、信じがたいことに数年前の作品であるこの清盛ではないだろうか。
今なお、清盛以上の話題を提供している過去作が、直近の真田除いてあるだろうか?
実感からはどうもありそうにない(ツイの盛り上がり、CS再放送での熱狂、待望されたDVD再発売等)。
>>634はこのような「現実」を認めずに、需要なんかあるはずないと主張したいのか? 本日銀河は殿下乗合事件
清盛の意を忖度した時忠主犯説には何度見ても唸りまくる 直虎はいろいろひどいと思うけどな
完走できそうな分、江よりマシだが、骨太のところがまるでない
知らない話だったから、粗が見えにくく完走できたとも言える
遠江の田舎の情報の疎いところからだと、あんな風に見えるのかもしれんが
突然武田が降って湧いて、突然滅んでた、みたいな感じ 義経は、清盛には出てこなかったジュニア達の嫁達が良いね。 女たちの平家という視点は否定しないが、「清盛とその時代」という「王道大河」清盛の視座から見ると、
時子、滋子以外は正直のところどうでも良い存在。
しかも、既に出来上がったゴッドマザー時子は平板。キーウーマン滋子は、女たちをたくさん出したことが
災いしたのか、見逃すことのできない歴史的意味を担うことはなく、ワノブゼムで終わってしまった。
清盛では深キョン時子の小一代記が成立していたこと、清盛と後白河を仲立ちした滋子がいかに政治的に
重要な存在であったかその所以を鮮やかに切り取って見せたこと、については既述。
清盛でもクローズアップされた経子は、出さないと歴史を描けないというほどの重要な女性ではない。
しかし、政略結婚でありながら(「清盛の大一番」回で、ゴネる重盛は清盛から豪快に放り投げられた)、
疎外された夫の苦しみを誰よりも理解し、重盛と比翼連理の睦じい夫婦仲を築いた糟糠の妻経子は、
一服の清涼剤のような存在であり、沈鬱な物語の中で大きなアクセントとなっていた。
舞子、宗子、祇園女御、明子、時子、滋子、たまこ、得子、堀河、由良、常盤、政子・・・
白拍子、儚き女、嫉妬で苦しむ賢妻、夢見る乙女からしっかり者の棟梁の妻へ、あっかんべーから国母へ、
ファムファタール、九尾の狐、ツンデレ娘から武士の妻の鑑、野駆けする未来の尼将軍・・・
ノーマルとは言いがたい異能異色な女性陣の中にあって、一貫して良き娘、良き妻であり続けたことが、
かえって経子をユニークな女性へと引き立てていた。 男大河だっつーのに、「良妻賢母」型含めて、大河清盛が見せた女性たちの性格類型の多彩な表現を、
他の大河で見いだすことができない。
今年は、さすがに傑出した女性脚本家らしく、女性(と男)の心理を深く掘り下げる大河であったが、
直虎始め3、4の女性キャラに集中しており、清盛のような「様々なタイプの女の品評会」とは言えなかった。
まして去年は以下ry(嫉妬指数を示すにすぎない嫁による障子の穴開けを、安徳の穴開けエピから展開させた
「そこからの眺め」に比肩した清盛オバさんたちにはビックリした。深度も広がりもまるで次元が異なる)。
にもかかわらず、「清盛のオンナはおざなりで皆ステレオタイプ。魅力ない女ばかりで愛するミタニンとは大違い!」
なる超目が・級のババアたちの大合唱が澎湃したのである。現世はやっぱ不条理劇ですのぉ・・・ さすが2ch世論をリードする長文殿のご明察には頭が下がりまする 2ちゃん与党たちによる「ネット世論形成」に異を唱え、少数意見を反映させるべく
対抗言論を提示しているだけだ。勘違いしないようお頼みもうす。 重盛と経子って政略結婚でありながらも理想的な夫婦像で
もうあんた達プライベートっでも一緒になっちゃいなよ
なんて思ってたこともあったけど経子はお笑い芸人と結婚して
重盛はこの度年上女優との同棲報道。
まぁお似合いと思ってた共演俳優の結婚離婚というのはよくあること
なのでお互い今が幸せであるなら良いことなのでありましょう。 常に斜め上をいく上司の振る舞いに胃に穴を開けながら仕える
クールビューティー堀河女房局長 榊原康政の中の人の演技に魅せられた
維綱は家盛を追って髷切って去った印象しかない
もっと大役に相応しかったかも 榊原康政格好いいよね。
中の人はあまちゃんパパのくせに。
鬼平じゃうさぎのくせに。 重要オリキャラは退場のさせ方も難しい。
歴代の中にはいつのまにか消えてしまったのもいるし、何かと議論の的となっている龍雲丸も、
最後まで引っ張っただけにいっそう苦労しそうだ。
この点で兎丸は、グッドタイミングかつ無理なくスムーズに退場できたと思う。
元海賊兎丸の属性を京の盗賊(義賊)朧月の遺児そして孤児としたことが、終盤大きく効いていた。
大輪田泊完成を急ぐ清盛はブラック企業主と化し、民の命と安全を顧みないそうした清盛の非人道的な姿勢に
激しく反発した兎丸は、持ち前の庶民的正義に訴えることでついに主人と決別した。
一方、清盛を邪魔立てする者たちを取り締まるべく、恐怖政治の走狗として組織され訓練された孤児たちが
赤いカムロであった。ここに至り、兎丸はカムロのターゲットとなったのである。
しかし、屈強な元海賊兎丸は、襲いかかる子どもたちに警戒心を持たず、無抵抗のままやられてしまった。
なぜ油断してしまったのか?
それは、自身孤児の境涯から這い上がってきた兎丸にとって、カムロたちは「ゲシュタポ」ではあり得ず、
出自を同じくし仲間意識で結ばれる「ミウチ」だったからだ。人間性を奪われ殺人マシーンと化した
子どもたちが不幸な孤児集団であることを知っており、彼らがこの不幸な境遇から抜け出て更生することを
心から願った故の油断であった。
こうして、大輪田泊建設現場責任者兎丸が反清盛に転じ、秘密警察カムロによって殺されるプロセスが
完璧にストーリー化され、最後はその名を石に刻んだ経文を人柱に代えて沈めることで、海の先に広がる
広い世界を共に夢見た同志兎丸の志は、大輪田の地に永遠のものとなった(人柱エピとの見事な接合)。
ホントに素晴らしい有意で生きたオリキャラであり、惜しまれるしかし完璧な退場物語でありました。 「始末せよ」の意味を巡って勃発した解釈論争は、ひどく懐かしい記憶だ。
その場限りの解釈としては、清盛「全員抹殺し痕跡の残らぬよう処分せよ」→時忠実行、赤い衣装を焼却
とするのが今でも魅力的。
しかし、最終回、羅刹が盲の琵琶法師と変わり果てて再登場し、平家物語冒頭の諸行無常の響きを奏でたことが、
陰惨な族滅物語を未来へ開かれた希望の物語へとメタモルフォーゼする上で決定的な演劇的作用(暗から明へ)をもった
ことに鑑みると、単体ではやや拍子抜けながら、「カムロを解散せよ」と解釈することで納得するしかない。 何度も言うが若年から老年までやる作品と
老年しかやらんでいい作品の差だ 当時71,2歳の平幹二朗氏が、まだ32,3歳の後白河を平治の乱直後から担当。
遊び惚けていた青年雅仁時代を経て、ちょっとした偶然が働き即位してしまったものの、
信西から「比類なきボンクラ」と揶揄されたそのお方は、最初からまるで天下を操るかの大天狗のごとく登場しました。
ほんとピッタリの年相応感ですね。。。
とはいえ、松田翔太演ずる若き雅仁&後白河が発するエキセントリックな魅力とは異なる、大天狗後白河の魅力において、
平幹二朗さんは歴代屈指の演者であったことに異論はございません。しかし、それは「歳相応」となってからの後白河像
なのです。
そして渡清盛。当時64,5歳の御大は、清盛40ちょっとの時に起こった平治の乱において、大河のお約束通り
前線でチャンバラして奮戦する姿から入りました。ちょっと痛々しかったです(大河清盛は、大将のチャンバラを断固排して、
後衛にて双六を進めながら戦況をコントロール清盛に集中。そこをちゃんとやってからの一騎討ち)。
そして、晩稲の政治家清盛は平治の乱後、まだまだいくつも相貌を変えつつ上昇、下降、衰退、滅亡していったことが重要であって、
登場当初から入道然として老成している渡清盛は、決して歴史上の清盛を投影するものではないことを強調しました。
もし、歳相応感をもったとしたら、それはたかだか入道となった以降、死ぬまでの10年程度に限られます。
というか、「若すぎた」批判にいろんな角度から弁明してきたのに、それにまったく答えることなく、なぜこの爺様は
同じことを100万回繰り返すのでしょうか?認知症を発症されていないことをご祈念いたします。 たった2行で端的にご説明いただいておりました。すんません。 しかもマツケン清盛は上の方に書いたように入道になってからも変わっていったところがキモ
これが「年寄りすぎる壮年清盛」と「年相応の入道」どちらも同じ一つの清盛を演じた渡との違い 現世で日本一美しい顔に選ばれた時子さんに
「もうそなたで良い!」
なんてロマンもへったくれもないプロポーズを870年前にしちゃったもんだから、
今になってどこぞの八幡様が祟りじゃーとお怒りなんだよたぶん。
キヨモリ「見よ、やはり厳島の社の効果はてきめんじゃ。時子が他所で百日祈ってもご懐妊
されなかったものを、わしが月詣を始めたところ、わずか六十日でこの喜ばしい報せドヤーーー」
深キョン「まあ殿ったらニコッ」
こうなったら835年前の徳子懐妊の験を担いで、八幡宮へのお参りから始めませふ。
時忠「科学にあらずんば妊活にあらず。しかしながら、正しすぎるのはもはや誤りでござります。」 族滅物語(暗)から希望物語(明)へ。
この鮮やかな転調を音楽面から演出したのが、前者については琵琶法師となった羅刹が奏でるj平家物語の調べ、
後者についてはかのタルカス噴火ということだろう。
タルカスの力強い躍動的な調べに合わせて、小兎丸は海へ向かって咆哮=噴火したのであった。
世界のタルカスが、日本の平安大河にこれほど効果的にフィットするとは予想だにしなかった。 さっき週刊文春立ち読みしたら、
生命保険の偉いおじさんが連載してる日本史講座・ザ保元の乱編で、ふつうに「王家」使ってたわ。
ネタ元が大河清盛に「激怒」されたw両M先生のホンなので、当たり前と言えば当たり前なんだけど。
しかし、2ページ読んだだけでも、実にキチンと上手にしかも面白く保元の乱への道行きをドラマ化
していたことを改めて痛感した。これだけ分厚く保元の乱を扱ったドラマなんぞどこにもないのに、
ホント何がご不満だったのでしょうか?東への怨念はさておいて・・・オレの最新研究によればーなんて
野暮なことを大先生が血相変えて言い募るのは大人気ない上に、ドラマ批評としては誤っているし、
それでいて基本となる史実すら無茶苦茶な改変をやって憚らない新平家を、この先生たちは、さらに
客観的であるべき教科書検証本において、場違いのエンタメ大河をしかも清盛たった一つだけを
差別的かつ侮蔑的に取り上げ、「最新の史実」の観点から〜落胤説は論証抜きで俗説と切り捨てる〜
(ドラマ批評ではなく)しかも曲解に基づいて憎しみも露わに腐しまくった、例の「国家教科書検閲官」殿は、
賞賛しまくるのである。
播磨守の妄言は、調子に乗ったド素人のタチの悪いリップサービスぐらいで済ませたいのだが、
なんつーか狭い世界でいがみ合う日本中世史学者たちの拗けた反応は、ホント怪奇現象だわねこうなると。 まず中世(除戦国後期)を好きになってしまう時点でアレなので(自戒) いやー、今夜の白虎隊の再放送、なかなかよかった。
大河常連が続々と。
「平清盛」のつながりだと平資盛の堤大二郎が山川大蔵で。これは準大河「武蔵坊弁慶」の資盛だが。
西田敏行の切腹なんて珍しいシーンも見られた。 源氏の一族はあちこちに散らばってるのに、なんで平家一族は固まってるの? >>662
おまいは何を言ってるんだ?
平家は伊勢平氏のことで桓武平氏なら全国に散らばってるだろ 刑事ゆがみで、稲森いずみと神木きゅんが出てる。
ちょっと前は常盤と牛若の親子役だったのに。。。 頼朝へのバトン渡しと西行のオシャレな退場場面はアクアタルカス ・経盛(元々教盛【武】と対比された【文】キャラ)は維盛、資盛に舞を仕込む
→後白河五十の宴で青海波披露【文】。後に維盛は脆弱な【武】を露呈することとなる。
・さすがは公達。知盛、重衡は見事な弓の腕前を披露して忠清を喜ばす【武】
しかし
・天真爛漫重衡はあっけからんと
「こんなに父上が平家を強くされて、もはや戦さなど起こるわけないっしょ」
・知的でクールな知盛は気の毒そうに
「平家はもはや武だけでは立ち行かぬのだ」【文武】
それを聞いた
・侍大将一筋、平家の【武】を支えてきた古武士忠清は、ショックで薄っすら涙
本日放送のコメントを読んでハッとさせられたのは、この直後に頼政が後白河の
今様合わせのために参上し、忠清と会話する場面も見事な対比となっていたこと。
言うまでもなく、頼政は鵺退治で名を馳せた源氏の猛将であり第一級の文化人でもあった【源氏版文武】。
時代の潮流を的確に掴み、巧みに処世する術に長けた人だったのだろう。
しかし、この頼政こそが「起こるはずのない戦さ」を仕掛け、平家に挑む張本人となったのである。
何というアイロニー・・・源氏頼政もただ何となく登場させたのではなかった。
本当に見る度に新たな発見があり、また他人の批評に教えられる汲めども尽くせぬ大河だ。 大人気足ガールのチーフ演出は
清盛3番手だったおんなディレクター中島さん
清盛では鬼才型だったね いやはや、この終わり方は続編ケテーイだなw面白かった。
「みをつくし」みたいな江戸人情物は、大らかな気持ちでリラックスして見たかったのだが、
何しろババアたちが押しかけて凄絶なバッシング、ネガキャンするのが目に見えていたゆえ、
心ならずも介入して大顰蹙を買った「みをつくし」スレ。
最終回については、これで終わりなら羊頭狗肉もいいところ、だがしかし、シーズン2へ
向けたエンディングとしては最高に素敵な中間総括となったと書いて、
女のくせにアタシの100万倍高性能なオツムをもつ藤本の野郎許すまじ!
で終結したババアたちを発狂させたのであった。 右も左もわからず、過去作についてもほとんど知らなかった本放送時、とりわけ馬鹿馬鹿しく思ったのが、
(2ちゃん除き表向き雲隠れ中の)ゆうじんあんが常に持ち出した「瞬間移動」批判。
他を知らない段階でもアホらしくてならなかったが、その後他大河を見るにつけ、「瞬間移動」は別に珍しいことでもなんでもないことを知った。
昔もいくらでもあったし、真田丸の信之は信濃と浜松を頻繁に瞬間移動していた。また、行動範囲の狭い直虎もこの間、堺へ瞬間移動していた。
これらの何がおかしいのだろうか?厳しい尺で描くべきことが山ほどある中で、道中をえっちらこっちら描くバカがどこにいるのだろうか?
視聴者の側で「間」を想像して補えば良いだけであり、またそうして補うべき「瞬間移動」の場合がほとんである。
清盛については、後半となるにつれ、捏造がー、漫画がーが成り立たなくなってくる。そこで、何が何でもケチつけるには内容なんかどうでも良くなり、
本日放送された兎丸の死回など、「なぜ兎丸は抵抗しないのだ?ありえなーい」、そして「清盛が福原から京へ瞬間移動した、ありえなーい」
なんてレベルの批判しかなかった。
今回の「瞬間移動」は、京に出奔した兎丸がいなくなったことを知った子分たちが、福原に戻り探索。その旨報告を受けた清盛が、
次の場面で京での探索に加わったという設定だった。兎丸は福原にもいない。だとしたら探索場所は京に決まってるだろう。
清盛の目はただちにそのことを察していた。だから、視聴者は容易に次の場面で五条大橋にいる清盛が「上洛」したことを了解し、
「ただちに駆けつけたであろう」ことを想像で補うことができたのである。
もちろん、遠隔地からの行軍自体がテーマとなりうる官兵衛の中国大返しのようなシチュエーションもある(素晴らしかった)。
これに該当するのが、信西救出を決断して長躯熊野詣から引き返す馬上の清盛のシーン。わざわざロケまで敢行したこのシーンは、
「清盛が遠いところから危険を顧みず駆けつける」こと自体が、平治の乱における「清盛大返し」の核心部分だったからだ。
さらに、雅仁が異界の地=青墓入りしたあの幻想的かつ劇的な「誕生後白河帝」回において、一番の感想は、京から岐阜までの道中をやらなかったpgr
だというのだから、もう涙が出てくる。特段事情がなくても、青墓にいくぞーとなれば次のシーンは青墓入りするゴッシーに決まってるではないか。
しかも、後白河の真骨頂は、予期せぬ形で(芸能者との出会いを求めて)庶民の前に現れるその神出鬼没さにあるのだから、
「突如青墓に現れた」感の演出は不可欠ともいえる場面であった。道中えっちらこっちらを描いていたら、この神出鬼没感は完全に台無しにされて
しまっただろう。 「清盛が福原から京へ瞬間移動した、ありえなーい」
って思った人間なんだけど、ただちゃんとドラマとして
成り立つようにして欲しいだけなんだ。
兎丸失踪の知らせが京から福原に届く。
福原から駆けつけた清盛が兎丸を発見する。
遺体の損傷、それまで収容もされずに放置されてたことを思うと
死後まだ間もない様子ではあるんだけど
福原と京との距離を考えるとそう早く移動できるはずない。
別に道中まできっちり描けっていうわけじゃない。
ただ違和感を感じることなくドラマの世界に没入させて欲しい。
こまけぇこたぁいいんだよってすませることかも知れない。
しかし精緻なミステリー小説のようにこの伏線がここにつながるのかと
唸らされた場面もたくさんあっただけに、ここの杜撰さは残念に思う。 点と線がつながらない
アリバイ工作が成り立たない
出来損ない松本清張 >>673
そういう真面目な残念感をもったのならば尊重する。つまり、想像で補えない矛盾があるということだろう。
移動自体が特段の意味をもたない場合は、あくまで想像に委ねて「無理なく」シーンが繋がればそれで良い
ということであり、ドラマで流れる時間だけではなく、想像された「物理的時間」までもが極端に歪んでしまって
それで良いと主張するものではない。
逆に、徳子懐妊の報を聞いて大喜びで駆け出すシーンに見られたように、「移動する」描写がモノを言う場合がある
ことを否定するものではない。さらに、京と福原との絶妙な距離(京にあらずしかし遠からず)がもたらす
清盛と後白河及び宗教勢力との「政治的・心理的距離」という問題をトピック化さえした
(福原から睨みを利かせ、京の政局が行き詰まった段階で「間髪入れず」上洛し、歌舞伎の花道を歩むかのように
清盛が登場したシーン〜真打ち清盛が「出現」しないと、もはや政治は立ち行かない)。
ところで、京と福原は早馬で1日あれば十分の距離だ(確か他のシーンで言われたはず)。
以下、兎丸の死後の子分たちと清盛の動きを、時間軸に沿いつつ、映像とノベを参考にしながら「想像」してみた
([]はノベでの描写)〜「物理的時間」の歪みについて。
兎丸がやられたのは真冬[2月]の夜。季節柄そう腐敗が進む状況ではない。
酒を買ってこいと命じられその場を離れた子分たちが、兎丸がいないことに気づき、
(多少周辺を探したが暗闇で見つからず、桃李の願いを聞き入れて福原へ戻ったものと判断したのだろう)、
慌てて夜を徹して(兎丸を追い)福原に戻り清盛に報告。(早朝)知らせを聞いた清盛は[懸念]を抱き、
[とるものもとりあえず]出発、その日のうちに(まだ日は明るい)京へ駆けつけた。
探索の結果、兎丸を発見した場所は冷たい[雨露に濡れた茂みの奥]。時間的には死後間もなくではなかった。
容易に発見される場所ではなく、発見が遅れてようやく人が集まってきたところだったのだろう。
こういうところで「精緻さ」を求めるのは疑問だけど、こうして見ると、十分「あり得る」時間の流れ
と清盛の動きだと思うぞ。 早馬で半日だったかな。
兎丸にしても子分たちにしても、庶民であっても最高権力者にして大金持ちの清盛に仕える上級の郎等なのだから、
秀吉の中国大返しの時の雑兵のようにマラソンしなくても、馬を調達して早朝福原に戻ることは容易いことだっただろう。
どうでも良いような穴埋め話ながら、こういう指摘を受けて改めて振り返ってみる作業も楽しいものだ。 >>675
すまん雑魚にもマジレスすんのが俺のポリシ。
点と線はどのようにして繋がるのだ?点と点ではなく。
ミスプリなら、点と点を挙げてそれらが繋がってないことを説明してみなよ。
これは大河清盛の核心に関わる問題ゆえ。
拙者は「リンクの鬼」と呼んでいる(時系列=タテの「伏線回収!」ばかりが話題となるが、
同時代、同世代で空間的に対立するアクターたちの力関係の在りようとその推移=ヨコの立体感がこれまた凄い)。
これをババアたちは、その場限りの「感動ポルノ」、「小ネタのシークエンス」と貶し、
2ちゃん与党を率いるリーダー某は、「清盛は何故変わっていったか、そのプロセスがすっぽり抜け落ちてました」
と赤面じゃなかった赤い太字で大強調しているのだから、そろそろ堂々と「証明」してみたらどう? >>678
昔、学生の頃に地下鉄の終電逃して真夜中に御所から京都駅の
周辺まで歩いたことがあるんだ。
たかだか市内の移動だし当時はまだ若かったけど結構疲れた。
道は烏丸通りを南に下っていくだけなので間違えようがない。
この時の経験があるんで一晩で京都と神戸を往復したって設定が
おいおい、ちょっと待てよって思うのかもしれない。 >>679
タブレットとPCとでレスしたからID変わっちゃたけど>>675の雑魚も
ふっと思いついたこと勢いで書いちゃったオレだ。
線は鉄道だったり馬だったりつまり動線、点は事件現場。
鉄道使って目撃者準備した上で完全犯罪を企てるのが
松本清張の「点と線」。
兎丸殺害のようないい加減な時間軸でドラマ作られたんじゃ
「点と線」のような作品は成り立たないんじゃないかって
思って書いたの。 第3回「源平の御曹司」で清盛は忠盛の言う「浅知恵」で海賊から民の米を守りつつ、自分たちは干物ばかり食べていた。
それでも家の飯を食べる生活よりも満足していた。そんななか、ひょんなことから源義朝と出会い、馬競べで敗北する。
それから時が流れ、第27回「宿命の対決」ではやはり熊野への道中干物ばかり食べていて飽き飽きしていたという清盛。
「やはり家の飯はいいのう」と変化が見られる。そして終盤、源義朝と決着・・・
干物と家の飯、源義朝と平清盛という対比がおもしろい そういうノリで嫌いなところを指摘してもらう分にはこちらも血相変えないよ。
全体を全否定したものと受け取ってしまいスンマセン。
清張の点と線って時刻表ミステリーであったこと以外、内容忘れてしもうた。
軽い読者にすぎないが、砂の器、Dの複合、或る小倉日記、ゼロの焦点、波の塔
あたりの有名どころは忘れがたい。 >直虎、ワースト「平清盛」上回る
>視聴率は苦戦したが柴咲コウや高橋一生らの熱演が視聴者を魅了し高く評価された
拝啓マスコミ様
ハイハイ良かったですね。ワースト1の座はこれからも譲りませんよ!(文ちゃん大河はなかったことでいいです)。
それにしても、最終回直前は好意的な記事で盛り上げてもらって、終わった途端、ワースト2という結果からは、
マスコミの格好のバッシングネタとなるはずのところ、反対に擁護記事だらけとなる「おんな城主」は、幸せな大河でした。
ところで清盛は、終盤すでに消化試合となり果て、最終回に期待を寄せる者などいなかった大河だったのでしょうか?
最終回直前も、一桁視聴率を揶揄し侮蔑するネガキャンばかりでした。
また、作品のクオリティと俳優たちによる数々の怪演に魅了された視聴者はいなかったのでしょうか?
現象的には応募が殺到したパブリックビューイングなどに見られたように、限られた範囲とはいえ、
1年間夢中になって見続けた視聴者の熱狂ぶりをしかと視認することができたのですが。
そいて、ツイ界隈の熱狂は、SNS時代における大河視聴のあり方の先鞭をつけるものとなりました。
ところが終了後も、マスコミはごく一部を除き、川に落ちた犬のごとく大河清盛を棒で打ち据え、史上最低視聴率に相応しい
駄作大河と総括したのでした。
幸い、深甚なダメージを被った大河平清盛並びに制作者、出演者たちは、浅薄無責任で興味本位の記事に終始した
あなた方に抗するかのように、その後力強く自力更生を続け今に至っておりますのでご安心ください。
敬具 >>684
> (文ちゃん大河はなかったことでいいです)。
ってのに物凄い悪意を感じる。
確かに「花燃ゆ」は世間一般の評価は低いが
見るべきところも多々あったし
「アシガール」の黒島結菜ちゃんをはじめ
「あさが来た」の瀬戸康史や「わろてんか」の大野拓朗など
若手俳優の知名度を押し上げた作品でもある。
「平清盛」の低評価にイライラさせられている人間として
どうして「花燃ゆ」ファンの心情を慮ることができないのか。 ちがうちがう勘違いしないで。
あまり評価していないが、真摯につくられていた。企画自体がダメというのが個人的評価。
最低視聴率の悪名は清盛がこれからも引き受けるってこと。 直虎何とか完走したけど、何で評価高いの?
前半(今川相手に苦労していた時分)はまだしも
途中からひどいとしか言い様のない作りだったのに
花燃ゆにしろ直虎にしろ、1年間主人公張らせるのは土台無理なんだから
物語の語り部に徹して、松下村塾門下生の群像劇、井伊一族の浮沈話
にでもしておけば、大きな破綻なく佳作に仕上げることもできただろうに この難しい素材で脚本家の作家性、すなわち創造性を発揮したということだろう。
清盛、真田丸、おんな城主3つをセットで好む層が確認できるのは、全50話で「一つの物語」を創造する力を、
脚本家はじめ制作陣がもっていたからだろう。共通するのは、脚本家に筆力があり、昔の大河のように単にエピを並べていくような
単純な大河ではなかったこと。
それゆえ、大河保守層からは嫌われもした(ただし、空気を読んて商売するツイ連中は、真田人気に便乗して、江的要素もふんだんに
あったことについては頬かむりし、真田礼賛に回るダブルスタンダードに徹した。また直虎にも寛容、すなわち清盛のみ罵倒)。
もちろんそこから先は、歴史への洞察力、史実とフィクションとの交錯、融合、全体の構成力、ストーリーの整合性、オリキャラ含む人物造形
〜厚みと深みまた多彩度、演出の革新性、美術・映像のこだわり、戦国大河となれば合戦をどう扱ったか(合戦そのものの迫力も(時には)問われる)、
などなど、様々な要素について、あれこれ不満もでてくるだろうし(どんな大河でも)、評価が分かれてくるのが健全だ。
作り手の意図を探るやり方の俺は、三谷の真意を探る度にだんだんとそのご都合主義に距離を感ずるようになり、
マスコミの過剰なヨイショ記事や、三谷の「権力支配」に対する反感もあって、しまいにはアンチと化してしまった。
直虎は、個別に見ると賛成できない改変や展開もあったが、全体評価としては、良くやった面白かったというもの。
清盛は上記の評価要素について最高点。だから「信者」をやっている。
そして、さんざ言われてきた「突っ込みどころ」こそ、逆に作り手の歴史への洞察を感じさせる場面であったことを強調してきた。
すなわち、他の大河で誉めそやされる事については、ほんまかいなと疑問を持つ場合が多く、一方清盛が盛大にpgrされた要素は、
違うよと猛烈に反論したくなるような大河、それが清盛だった。
とりわけ、「丸と清盛の違いは、前者が歴史に厳しく対峙し、その緊張感のもとで歴史に造形の深い三谷の見事に創作が見られたのに対し、
後者はそんな歴史の重みなんかにはまるで無頓着な歴史素人が、適当な史実処理とファンタジーに逃げ込んだ」なんて真逆としか思えない
目が・級の妄言を浴びせられると、いきおいファイトせざるをえないのである。
清盛ほど歴史資料を大切に扱い、その(がんじがらめの)制約の中から創造と想像の羽を広げ、しかも情感たっぷりの愛憎劇、抜き差しならぬ心理劇
でありながら、五月雨式の軟な余情物語では決してなくなく、堅固で精緻な論理的構築物のごとき叙事性をもつ大河を他に見出すことは、
管見のかぎりない。 一言で言うなら、真田丸は期待外れ
真田太平記が名作だっただけに、面白くならないはずがない
ということで期待は大きかったが、拍子抜け
草刈正雄の昌幸、内野聖陽の家康、近藤正臣の本多正信とか、
役者個人で魅せてくれたのはよかったが 昨日はちゃんとは見られなかったので、今録画見た直虎。
主人公とは異なる出自と背景事情をもつがため(外部者)、彼・彼女の既存の価値観を揺さぶるカウンターパートという点では
兎丸と類似したオリキャラであった龍雲丸の退場のさせ方は、やはり残念。
海賊討伐という史的基盤をもつ兎丸。時に清盛とぶつかりながらも元海賊の知識と経験を生かして(頼朝ナレ)清盛の交易事業に貢献、
とりわけ「博多を京の近くへ」という大輪田泊構想を最初にサジェストしたのは、実に無理難題をふっかけられた兎丸の憤懣であった。
このように、歴史的な役割をそれにふさわしい形で担った兎丸は、あくまで清盛の家人として、彼の忠実な手足となって動いたオリキャラであり、
よく言われるようにオリキャラが無双したり、根拠なく歴史に出っ張るケースとはまったく様相を異にする。
資料が足りないのでオリキャラを作って穴を埋めました、といった性格のそれとは無縁の男なのである。
そこに京の孤児という重要な問題系を加味した兎丸が、大河史上もっとも有意義で練られたオリキャラとなったのも当然だろう。
それと比べると、カウンターパート以上に直虎の恋バナ要員であったカシラは、仕方ないとはいえ、史的根拠も歴史的働きもほぼなく、
存在理由が希薄と言わざるをえず、退場の仕方も「直虎都合」の域をでるものではなかった。
労咳という長期療養型の病で死んだおとわが急死並みであったことも、一昨日議論となったドラマ外で補足すべき物理的時間の歪み
という観点からは、ちと苦しかった。
また、坊主始め男たちも最後までほとんど老けメイクさせない理由もよくわからん。結果、世代間を外見で区別することがやや困難となってしまった。
ただ、個人的に一番着目していたのは、直虎死後の直政とその仲間たちの歩みを、短い尺でどう「直虎物語」として構成して大団円へと
もっていくかであったところ、こちらは流石の出来栄えで満足できた。
直虎の志を直政始め縁のあった人々が皆受け継ぎ、それぞれの道を進んでいく様は、そして〈後継者を強く自覚した〉直政が
井伊の赤鬼となって飛躍し、徳川四天王へと上り詰めることを予期させるラストは、Pが述べたように、未来へ開かれた直虎物語の素敵な締めとなった。
また、まだ死ねないと死を拒む直虎をあの世に連れていく鶴が、「おとわ大事ない。おとわが俺の志を継いでくれたように誰かが継いでくれる」
と納得させるシーンは、清盛を慰撫する西行のシーンを連想させた(小カシラの登場は疑問)。
総じて、清盛最終回のテイストを感じさせる余韻豊かなおんな城主のエンディングが見れて良かった。 大河史上最も練られたらしいオリキャラ兎丸だが
ビジュアルでは龍雲丸の圧勝なのであった。
直虎最終回のサブタイが「石を継ぐ者」ときたのはSF好きには嬉しい。
元ネタの「星を継ぐもの」は故郷を失って絶滅寸前の人々が
新天地で裸一貫からリスタートする物語としても読めるわけで
それがお家断絶の危機から立ち直る井伊家の姿とも重なり
単なるダジャレにとどまらない秀逸なネーミングになっている。 そりゃビジュアルではひっくり返っても敵わないw
最終回碁石を「志の継承」アイテムに使ったあたりも、海の底に沈んでいく宋剣、
源氏における髭切の活用と良く似ている。
何でもかんでも三谷オマージュを唱える連中は、間違っても認めることはないけれど、
直虎最終回は、かなり清盛的な「エンディングの作法」に近かった。
どうも関西の才女2人は仲が良いみたいだしね(森下女史は「夫婦善哉」に魅せられたとのこと)。 イケメンというと西行。役割は主に4つ
・清盛の北面以来の友人、助言者
・和歌の道の大家
・宗教者(遁世後も現世との間を行き来する生臭の面も)
・清盛とその時代の証言者(平家サイド。王家サイドは堀河、源氏サイドは弁慶)
演技派とは言われていない?藤木氏。「和歌詠み」こそ危なっかしかったが、
上記4つの役割を魅力的に演じたと思う。とりわけキーマンとなった終盤が素晴らしい。
最終回は彼無くして成立しなかったほど。清盛を慰撫し餞の言葉を贈るシーンと、
バトンタッチを見届けて満足した表情で(ニヤリが彼らしい)自作の名歌と銀猫エピと共に
スタイリッシュに退場したシーンは忘れがたい。
その藤木氏は西郷どんでは阿部正弘を演じる。早々に退場しそうなのが惜しい。 来年は塚地信頼が盛国みたいに生涯殿に仕える役みたいね ・「清盛最終回は打ち切り少年ジャンプ!」
・「信長をパクった青年清盛が厨二描写くだらねー」
・「とっちらかって、史実の整理が行き届いた花の乱???の爪の垢を飲め!」
いやはやいやはや、毎日毎日◯◯先生ーやってるうちにすっかりオツムがとっちらかってしまった
おんなネトウヨの最新作(なおネトウヨが蝟集する2ちゃんでも大暴れ。言うまでもなく)。
>クラスタと石合戦するつもりはないけれど大河清盛についてはキンジパ見直してから出直してくれ
というのが私の感想である。
ハイハイ。是非石合戦しましょうよ、少しは中身を述べて下さいよw
おんなネトウヨ殿! そこにスケートババアが現れ「然り!」
あとはラヂオ体操第一ヨーイと晩ご飯ーーーの遊び人が揃えばババア百人力だー
ただし100万個集めても藤本女史のオツムの前には以下ry 昔のヤンキーのトンガリ方って何だ?
全共闘の若者は体制へ異議を申立て行動に出てスベって挫折した。
彼らのような「理詰め」とは異なり、清盛は体制の矛盾を直感的、経験的に実感して
青い正義観念を振りかざし空回りした。
もしかして、そんな未来の体制破壊者清盛の若き日の無頼像のことではなく、
政治社会の矛盾に目覚めたそれとは異なる、ツッパリ高校生ヤンキーたちのトンガリぶり
のことを言うのか?だったらぜーんぜん違うから。
おんなネトウヨどうなの?さらにもしかしてアホウヨらしく全共闘みたいで怪しからんというか?
だがしかし、清盛は決して理論派ではなかった。 >上手く言えないのですけど史実と創作を上手く融合させながら
>スケールのデカいイカれ方をするのってのが物凄く下手だった気がします
ふーん、せめて上手く言って欲しいんだけど。
それで史実なんてどうでも良かった花の乱は、どういうところが「上手い」融合なんだ?
根本的に史実を捏造しまくってどうやって史実と創作とを「上手く」融合させるの?
それで加納ずいてんなる歴史的基盤もなければ歴史的役割ももたないトンデモオリキャラ無双の
どこが兎丸より優れているのだ?
キンジパ信長と清盛のどこに接点があり比較対象となるのかさっぱりわからぬが、
せめてキンジパの信長は史実と創作を上手く融合させたスケールの大きいイカれ方であったことを
世間の皆様に紹介してみなよ。
そんでもって、仲代清盛と渡清盛は松ケン清盛よりずっと多彩でスケール大きな男だったんだろ。
どんなところ?この時代を任せられるような知識もなにもかもないのだから、せいぜい
新平家をリメイクするのがせいぜいなのよpgrしてるんだから、教えてくれよ! そんでもってミタニンスゲーで酔っ払ってたスケートババアさ
介護士やったり紐売ったりしているうちに「日ノ本一の兵」となられた
真田信シエ殿の造形はどんな点でスケールが大きいものだったの? そもそも清盛は無頼であったが、イかれていたわけでは決してない。つまりうつけではそもそもない。
好奇心に溢れ迷信が大嫌いな清盛は、持ち前の行動力を発揮して見知らぬ世界に臆することなく飛び込み、
様々な経験を積んでいった。そうした経験こそが、後の体制破壊者、交易国家の創始者を生み出したのである。
しかもこうした清盛の「スケール大きな」キャラ造形は、決して脚本家が勝手に創作したものではなく、平氏研究の
権威高橋教授が唱える人物像を着実に踏まえたものなのである(激情、好奇心、新し物好き、合理性、
行動力、粘り強さ、下々にも優しいなど)。
これらを「陽性」清盛とすれば、もう一つの清盛が、落胤設定から導かれた自我危機に悩む(ただし早々に克服)
「陰性」清盛である(落胤は自我の問題よりも、白河の血の支配の方に力点が置かれた)。
これについても、貧相な自我形成に終わってしまったのだろうこいつらは、「あの人は自分探しさせないと
話作れないバカだから」とpgrしたのであった。
しかしながら、清盛が陥った「自我危機」は人間誰しも通過するそれではない。専制君主と最大武門の長という
2人の巨大な父に挟まれた古今東西稀なる歴史的個性をもつ「スケール大きな」それだった。
そのような境遇に置かれて悩まぬ若者などいるはずもなく、そこに想像が及ばないババアたちの精神的貧困に対し
ご同情申し上げるのである。。。なお、ここで述べたのは青年清盛像にすぎない。その後の「スケール大きな」
清盛像の展開については改めて述べるまでもないだろう。 788 名前:名無しさん@恐縮です[] 投稿日:2017/12/19(火) 18:46:09.43 ID:/59QSTBd0 [12/14]
結局、芸スポといっても大河板と共通の極右運営が立て、いつもの連中が集まり、いつもの主張をするだけ。
そこに見てもないネトウヨが押しかけNHK攻撃に精を出す。
なんとまあおぞましくも陳腐なルーティンなんだろか。
女大河がーと女脚本家がーはこの差別主義者たちに必須のアイテムである。
低視聴率大河叩きのスレが立つと、そこに必ず大河板ではダンマリとなってしまったこのババアたちも登場し、
待ってましたとばかりに清盛叩きをおっぱじめる。
その中身たるや、ツイでの年来の主張まんまなもんだから、何ともわかりやすい。
>清盛は清盛パートが邪魔だ
>腹黒いだけの主人公の方が新しくて受けたと思う
>ただ明らかに「平清盛」は欲望や,恨みに忠実だった脇役のほうが明らかに生き生きしてたもの
>厨二もくだらなかったけど最後までつまらない善人に小さくまとめてしまったものね
>「武士の世を作るんじゃー」ってうるさかったのが一番のガンただの権力闘争・暗闘だっつうの
>そうね脚本家トンチキなもんだから
いややはいやはや・・・絶句。最後について→渡清盛が「新しい国」を連呼したり、真田尊氏が「美しい国」を
連呼するのは少しもおかしくはないが、現に「武士の世」という抽象的理念にとどまらない具体的な政体の礎を
築いた清盛が、「武士の世」を目指してはいけないのだそうだ。
清盛は、父忠盛がどんなに頑張っても公卿になれなかった無念にも鈍感で、腐った貴族政治の末期的現象に接しても
そこでお行儀よく生きて出世すればいいやぐらいにしか思っておらず、武士としていかなる社会国家を目指し、そのためには
何をすべきか省察することも行動に移すことも、やりたいことを実現するために必須な「権力」というものに対して想いを馳せることもせず、
ただただ無目的に生きて貴族と喧嘩しているうちに、ある日目を覚ましたら「あ、武士の世ができてたー」となるのだそうだ。
さらに信西と頼長との熾烈な「権力闘争・暗闘」は何だったのだろう。同志でありながら「国のカタチを正すその方向性」という
政策理念及び方法論の次元で決定的な対立に至ったのではないか(現実主義vs復古主義)。
清盛も信西も頼長もちゃちな「小政治」をやっていたのではない。「国のカタチ」をめぐる大政治次元で権力闘争をやった人物たちなのである。
「ただの権力闘」争ってホント何なんだよ・・・
毎日毎日お気軽に食べて見て呟いて2ちゃんで暴れて、でありながら上から目線で「社会批評」やってドヤする
優雅な日々を送られている方たちらしい「批判」といえばそれまでですがね。。。 > 毎日毎日お気軽に食べて見て呟いて2ちゃんで暴れて、
> でありながら上から目線で「社会批評」やってドヤする
> 優雅な日々を送られている方たちらしい「批判」といえば
> それまでですがね。。。
あれ、盛大なブーメランになってませんかね?
あるいは目くそ鼻くそ。 NHKスクエアのサイトを見たら
ひよっこや篤姫を抑えて
DVD部門の売り上げ堂々の1位!
どうしちゃったのよ♪♩♫ 西行がなぜかお邪魔虫に感じられて途中からは登場するだけでうんざりした。
なぜだろう? お邪魔虫と感じた理由を書いてもらわないと何とも。
出家遁世したはずなのに何でここぞという時出てくるのだ?とか。
ただ、待賢門院との道ならぬ恋の真偽はともかく、鳥羽院政期に北面時代の清盛の同僚。徳大寺藤原実能に仕えていたこと〜殿上闇討ち回で
侮辱されるままの忠盛に我慢できず清盛が飛び出そうとしたところで、「ここで行われておるはただの宴ではない。【政】だ。みなそれぞれ思惑あってここにおる。
お父上とて同じだ。お前さんが今すべきは、あの姿をよく見ておくことだ」と制した(和歌もどき回での清盛のパーフォーマンスは、いわばその「成果」である)。
崇徳の和歌サークルに出入りしていて懇意であっただろうこと。
出家後も俗世間と交わり、清盛とも接点を持ち続けたであろうこと。
奥州研鑽旅行後高野山に庵を結んで清盛の高野山造塔に協力。福原万灯会に同道。源平合戦勃発後は伊勢に居を移し、清盛の死には立ち会っていないこと。
清盛死後、東大寺勧進僧として鎌倉の頼朝を訪ねたこと(銀猫エピはそのまま、弓場の道?もう忘れたエピは、あの世の清盛召喚に繋げた〜
「お戯れを。京随一のいや日本一のもののふとは誰のことか、お手前はすでに御存じのはず」→清盛降臨)。
この辺りは概ね史実通りだろう。
うんざりというのは、ドラマの進行上その場にいらない人という意味なのか、キャラがウザいのか、はたまた藤木直人がウザいのか?
自分は、>>694で紹介した多面的な西行像、彼を出家前(文武両道のイケメン無双)→出家後(いざという時に現れ清盛を精神的にサポート、狂える清盛に直球諫言)
→最終盤(キーマンとして大活躍)といった具合に段階を踏んで動かしていったその出し入れの自由さ、そして藤木氏の演技が好きだ。
清盛オバサンたちが、「西行を海に投げ込め」と盛んに揶揄していたのは、あまり気分の良いものではなかった。
本作の西行は、モテモテのスーパーマン、真摯な宗教者(最終回が一番重要だが、造塔ミッションを投げ出そうとする清盛に俄かに真剣な表情で
諭した場面も、「西行なくして清盛なし」となった名場面である)、和歌の求道者、現世に未練を残す人間らしい生臭坊主、オシャレな美学者であった。 録画保存、リピートするほど熱心な視聴者ではなくてはっきり覚えていないのですが、ふと気になりました。
詳しい方のお知恵をお借りすれば何か思い出せるのではと、書き込んだ次第です。
おっしゃる通り西行登場のおもな場面はおおむね史実、あるいはよく知られた話だったと思います。
殿上闇討ちの清盛制止はオリジナルフィクションでしょうが、良いシーンだと思いました。
(和歌もどきにはいい印象もっていませんが)
遁世者と生臭坊主行ったり来たりは、前者に凝り固まるよりむしろ私好みのはずです。
藤木直人は全く知らなかったので、彼がウザかったのではありません。
となるとおっしゃる可能性のうち、ドラマの(ストーリー)進行上その場にいらない、ように見えてお邪魔虫に感じたような気もします。
あるいは不快なものを思い出させて申し訳ありませんが、オバサンたちと同じことを考えたのかもしれませんね。 貴殿オア貴女は間違いなく真面目に書き込んだと思ったゆえ、マジレスいたしやすた。
和歌もどきは、後々まで問題となる「成り上がり平家ゆえの涙ぐましい王朝文化戦略」の嚆矢となった回。
清盛は「形を変えた政である歌合」を逆転の発想で乗り切り、居並ぶ朝廷の面々に対し、堂々たる存在感を見せつけた。
しかし、そちら方面における自らの才能の欠如を自覚した清盛は、平氏が朝廷秩序で上昇するために必須の作法と教養を
息子たち孫たちに身につけさせようと、「文系」経盛を指南役としてみっちり仕込んできた。
その集大成が後白河五十の宴における維盛資盛による青海波披露である。
作劇上さらに重要だったのは、摂関家兄弟が清盛五十の宴に乱入し、和歌と舞の真剣勝負を求めてきた回。
この回は、考証高橋先生の強調ポイント〜王朝文化の支配者=政治社会の支配者という重大テーゼを
テーマ化した回であった。そこで平家方エースに指名され一歩も引かない力戦で答えたのが、かの武人歌人忠度
というわけである(容貌との不釣り合い!)。
上のレスは、このように長く広い射程をもった和歌もどき回が、傑作殿上闇討ち回で西行義清が清盛を諭した
「宴の本質」にまで遡ることができることを指摘したものだ。 忠盛殿もよき父、よき夫と思わせながらも
いつの間にか忠度を仕込むあたり
なかなか隅に置けませぬな 今宵もお馴染みの顔でござる。
つらつら思んみるに、藤木直人こと西行法師こそは、それがし中村梅雀こと徳川光圀、元前進座の竜宮小僧いやジジイと同じ。
つまるところ劇中劇もやる、都合のよい狂言回し兼ナレーターだったのじゃ。 最終回は明らかに狂言回しとして活用された。
ただし、ご都合主義というよりある種の必然性をもつものだった。
既出だが
・清盛は急死
・西行は京にいない
・志半ばで死を拒絶する清盛を慰撫し「納得させて」送り出す必要性<助言者>
・<宗教者>、長年の<友人>西行しか担えない
→
・救いを求める清盛の方から<幽体離脱>して伊勢に赴く
・死後京を訪れゆっくりお別れできなかった一門に遺言(代読から<イタコ>)
さらに、平家サイドから清盛とその時代を観察し続けてきた<時代の証言者>西行は、
いわば「ミネルヴァの梟」となり、平安と貴族の世の終焉を総括し、鎌倉と武士の世を告げる
最後の役割を持たされた。
それが再び<イタコ>となり清盛をあの世から召喚、頼朝との「継承式」をセッティングしたシーンである。
西行はこれを見届けた後、満足そうな表情を浮かべつつ退場した(お前さん、これで良いのだ、
こうやって歴史は動いていくのだ)。
最終回のメインイベントとなったこのシーンは、頼朝助命のシーンへの応答という意味でも
必須のものであった(見せてやる、眺めておれ→見せてみよ)。 必須のものであった(見せてやる、眺めておれ→見せてみよ)。 西郷どんドラマガイドゲト。
初めから原作者と脚本家の名前だけでネガキャン張られてるが面白そ。
だいたい昔の脚本家は担当した時代と人物に声が掛かった時点で通暁してた、なんて法螺でしかないからね。
決め手は脚本家の才能とバックアップ体制(P、考証他)だよ。
この点、清盛は最高だった。 弁慶万吉演ずる生涯の天敵久光はかなりの大役の模様。
日本一の不覚人とタマキンから罵倒された信頼も最後まで頑張りそう。
徳子はこちらの愛加那さんのが似合ってるかも。
すぐ下の弟をやる基盛と大久保パパをやる明子パパは意外と大きな扱い。
なんつーかシチュが似ている。
それにしてもイケメン西行阿部正弘の扱いがここでもモブ並なのは寂しい。 正直原作はセレブな私がお金と人脈使ってちょっと調べて纏めました
以上の印象を持てないんだけど、
良くは知らぬが面白い話が書けてヒットメーカーだという脚本の熟女を、
二重三重に手厚くフォローする体制で臨んでいるように見える。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています